第5話 仕組まれた舞台と、繋いだ手
俺がジェレミー殿下の隠し事について発言した直後、一人の男が宰相の元へ駆けつけた。
耳打ちを受けたボドワン宰相の目が、一瞬だけ鋭く光る。
だがすぐに表情を戻し、手を上げて場を制した。
「審議を一時中断する。少々待たれよ」
何があった?
宰相と男が二言三言やり取りする間、俺はリディア嬢の隣で待つしかなかった。
リディア嬢の指が、まだ俺の袖を掴んでいる。
本人は気づいていないのかもしれない。無意識の行動だとしたら——いや、考えるのはよそう。
宰相が戻ってきた。その顔には、先ほどまでの厳しさに加えて、僅かな——安堵が見えた。
「ルークよ」
「はい」
「花束を届けた件だが、たった今、話す必要がなくなった。お主を嵌めようとした者はすでに捕らえられている」
「えっ、本当ですか?」
予想外の展開だ。俺が時間を稼いでいる間に、裏で何かが動いていたのか。
「衛兵! ここへ連れて参れ!」
謁見の間の扉が開き、衛兵に伴われた少女が入ってきた。
年齢は十四、五歳。みすぼらしい平民の服を着ている。
だが俺は、この少女に見覚えがあった。
ルークの記憶の中で——あの日、帝城でメイド服を着て花束を渡してきた少女だ。あの時とは全く違う姿だが、顔は間違いない。
「その者、名はなんという」
「メリルと申します。この城に出入りしている商会に奉公させていただいております」
メリルは深々とお辞儀をした。
身体が震えている。顔は蒼白で、今にも倒れそうだ。
この子は——利用されただけだ。直感的にそう思った。
「お前に花束を持たせたのは誰か。隠し立ては許さん」
「黒い服を着たお方でした。名前は存じませんが、どなたかの執事様ではないかと存じます」
黒い服の執事。
その言葉を聞いた瞬間——
「嘘だ! アーノルドがそのようなことをする訳がない!」
ジェレミー殿下が叫んだ。
——自分で白状しちゃったよ、この人。
誰も「アーノルド」の名前など出していない。メリルは「黒い服の執事」としか言っていないのに、殿下が自らその名を口にした。
前世の取引先でも見たことがある。追い詰められた人間は、隠すべきことを自分から喋ってしまう。
「ジェレミー殿下、お静かに」
宰相が冷たく制する。
そしてすぐに、黒い服を着た中年の男が衛兵に連行されてきた。
整った身なりだが、顔には諦めの色が浮かんでいる。
「ジェレミー殿下、申し訳ありませんが、ボドワン宰相閣下にすべてお話しいたしました」
「なんだと! 裏切ったのか、アーノルド!!」
「アーノルドにはそれ相応の罰を与える予定でございます」
宰相が淡々と述べる。
全てが——最初から掌の上だったのだ。
宰相はジェレミー殿下を泳がせている間に、裏で証拠を固めていた。俺が時間を稼いだことも、おそらく宰相の計算に組み込まれていた——いや、それは買いかぶりか。
「ジェレミー殿下」
ボドワン宰相の声が、一段と低くなった。
「三度目はないと申しましたぞ。それに殿下は、私腹を肥やすためにやってはならないことをやってしまった。それは帝国に対する裏切り行為ですぞ」
「待ってくれ! 何のことを言っているのだ?!」
「ルークが言うところの、帝国に対する隠し事の件ですぞ。ここで罪状を述べてもよろしいのですかな?」
「そ、それは……」
ジェレミー殿下の顔が土気色になった。
俺のハッタリが——本当に当たっていたのか。
正直なところ、半分は出任せだった。だが、シャリエ伯爵家の財政難とジェレミー殿下の結びつきという仮説は、方向性として間違っていなかったらしい。
そこで——皇帝陛下が、おもむろに玉座から立ち上がった。
それだけで、謁見の間の空気が一変した。
「ジェレミー」
たった一言。
だが、その声には父としての怒りと、皇帝としての威厳が同居していた。
「お前の悪行は掌握済みである。沙汰があるまで自室で謹慎を申し付ける」
「ぼ、ぼくは……」
ジェレミー殿下の顔が歪んだ。
恐怖、後悔、怒り——様々な感情が渦巻いているのが、心眼を使わなくても見て取れた。
「ぼくは悪くない!」
殿下が叫んだ。そして——俺を見た。
「お前のせいだ! お前がいなければこんな事にならなかったのに!」
ジェレミー殿下が壇上から飛び降り、俺に向かって駆けてきた。
拳を振り上げている。
とっさに判断した。
俺の身体能力なら避けるのは容易い。だが——隣にリディア嬢がいる。
俺はリディア嬢の前に立ち、左腕で彼女を背後に庇いながら、右手でジェレミー殿下の拳を受け止めた。
身体適合率3%でも、レベル9,999の基礎ステータスがある。十八歳の皇子の拳を片手で止めるくらいは造作もない。
殿下の目が驚愕に見開かれた。拳が——びくとも動かない。
「衛兵! ジェレミー殿下を取り押さえろ!」
「「「はっ!!!」」」
衛兵たちが殺到し、ジェレミー殿下はあっという間に取り押さえられた。
一瞬だけ魔力の気配を感じたが、殿下は無詠唱で魔法を発動できないらしい。衛兵に拘束された状態では詠唱もできず、そのまま抵抗は封じられた。
俺は殿下の拳を受けた右手を見下ろした。
少しだけ赤くなっている。たったこれだけで——身体適合率3%の限界を感じた。全力が出せる身体ではないことを、改めて思い知る。
「ルーク様……!」
背後から声がした。振り返ると、リディア嬢が蒼白な顔で俺を見上げていた。
「大丈夫ですよ。ちょっと痛かっただけです」
「『ちょっと』ではありませんわ! 皇子の拳を素手で受け止めるなんて、どうかしてますわよ!」
怒られた。
だが——リディア嬢の碧い瞳には、怒りよりも心配の色の方がずっと濃い。声が微かに震えている。
「でも、リディア様を殴らせるわけにはいきませんから」
さらりと言ったつもりだったが、リディア嬢の頬がほんのりと赤くなった。
目を逸らし、唇をきゅっと結んで、それから小声で——
「……バカ」
それは、謁見の間で交わされた数多の言葉の中で、最も小さく、最も温かい一言だった。
ジェレミー殿下は衛兵に連れられ、トボトボと謁見の間を退場した。
その背中は、さっきまで壇上で威勢よく告発していた人物と同一人物とは思えないほど小さく見えた。
エレミー嬢と、列席していたシャリエ伯爵が当然のように殿下の後に続く。やはり、彼らも「隠し事」の共犯者だったようだ。
ジェレミー殿下の退場を見送りながら、俺は考えていた。
殿下は操られていた。それは間違いない。だが「ぼくは悪くない」と叫んだあの目には——自分の弱さに対する怒りのようなものも混じっていた気がする。
完全な悪人なら、もっと冷静に立ち回れたはずだ。あの不器用な暴発は——根が悪い人間のものではない。
まあ、今は殿下のことを考えている余裕はない。
「お集まりの皆様、ことの顛末は後ほど知れることになろう。これにて謁見は終了である!」
ボドワン宰相の声とともに、参列者たちが一斉に退場を始めた。
あまりにも突然の終幕だった。
これでジェレミー殿下の申し立てによる審議は終了したが、殿下の「悪行」とやらは別の場で裁かれることになるだろう。
とりあえず——リディア嬢と俺の目の前の危機は回避できた。
肩の力が抜ける。
前世で最もキツかった決算期のプレゼンが終わった時と同じ脱力感だ。ただし、あの時は誰も「よくやった」とは言ってくれなかった。
「リディア様、これで良かったんですよね?」
振り返ってそう訊くと、リディア嬢は——泣いていた。
さっきまでの凜とした公爵令嬢の顔ではない。年相応の、十六歳の少女の顔で、静かに涙を流していた。
「リディア様? どうかしましたか?」
「い、いえ……なんでもありませんわ」
涙を拭いながら、リディア嬢は笑った。泣き笑いだ。
「ようやく……先の見えない闘から、陽が射してきたようですわ」
そう言って、リディア嬢は俺の左腕をがっしりと掴んだ。
さっきまで袖を控えめに摘んでいたのとは違う。明確な意志を持って、腕全体を両手で抱え込むように掴んでいる。
「あの、リディア様? 腕が……」
「離しませんわよ」
「はい?」
「離しません。わたくし、今日という日を忘れませんわ。ルーク様がわたくしのために戦ってくださったこと。皇子に逆らってまで、わたくしの名誉を守ろうとしてくださったこと」
碧い瞳が真っ直ぐに俺を見ている。涙の跡が光を受けてきらきらと輝いている。
「ですから——もうしばらく、こうしていてもよろしいですか?」
——この子に、「駄目だ」と言える人間がいるだろうか。
少なくとも俺には無理だ。
「……好きなだけどうぞ」
俺がそう言うと、リディア嬢は安心したように微笑んで、俺の腕に額を軽く預けた。
金色の髪から、花の香りがした。
前世の俺は、三十二年間生きて、こんなふうに誰かに頼られたことがなかった。
必要とされたことはある。「お前がいないと回らない」と言われたことは何度もある。だがそれは、歯車としての必要性であって、人間としての信頼ではなかった。
今、この子が俺の腕を掴んでいるのは——歯車だからじゃない。
俺を、俺として必要としてくれている。
……やめろ。中身三十二歳が、十六歳の少女の仕草で感動してどうする。
だが——胸の奥が、じわりと温かくなるのを止められなかった。
「ルーク様」
「はい?」
「呼んでみただけですの。ふふっ」
……新たな危機が、俺の左腕にしがみついている気がする。
だが、不思議と嫌ではなかった。




