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第4話 不貞の濡れ衣と、守りたい名誉

「ジェレミー殿下、何か手違いがあったようですな。他に言い分がないようでしたら、今回の申し立てはすべて破棄することになりますが、如何いたしますか?」


 ボドワン宰相がジェレミー殿下を睨んだ。

 先ほどまでの飄々とした雰囲気は消え失せ、歴戦の政治家の顔がそこにある。

 ちょっと怖いぞ、宰相閣下……。


「いや、まだだ。これは出したくなかったが、もう一つある」

「ジェレミー殿下、お分かりでしょうが、ここは皇帝陛下の御前ですぞ。三度目はないとご承知おきを」


 三度目はない——つまり、次に嘘が発覚したら殿下自身の立場が危うくなる。

 宰相の言葉は警告であると同時に、列席者全員への宣言でもあった。


 ジェレミー殿下の顔から血の気が引いていく。

 ちらりと皇帝陛下の方を横目で見た。その仕草が、子供が親の顔色をうかがうように見えて——少しだけ、同情した。

 この皇子もまた、誰かの操り糸に縛られた人形なのかもしれない。


「だ、大丈夫だ。今度は大丈夫だ」


 ジェレミー殿下は気を取り直したのか、今度は俺の方を見てニヤリと笑った。

 ——ついに俺の出番か。嫌な予感は当たるものだ。


「リディアはそこに居るベルガー伯爵の息子と不貞を働いたのだ!」


「「「まさか!」」」

「「「信じられない!」」」


 謁見の間がこれまでで一番の喧騒に包まれた。


 不貞——

 その言葉が耳に入った瞬間、隣のリディア嬢の身体が硬直するのが分かった。

 不貞の告発は、婚約破棄や傷害の濡れ衣とは次元が違う。貴族の令嬢にとって、貞操に関する疑惑は社会的な死に直結する。


 おいおい、正気か?

 俺とリディア嬢にはほとんど接点がないんだぞ。学園で数回言葉を交わした程度の関係で、不貞もクソもあるか。

 だが——こじつけだとしても、この場で認定されれば冗談では済まない。


「殿下、それは本当ですかな? もしそれが本当なら、婚約破棄だけで済まされる案件ではなくなりますぞ」


 ボドワン宰相の顔が鬼の形相に変わった。

 先ほどまでとは完全に別人だ。声の温度が数度下がり、謁見の間の空気が凍りつく。

 不貞の告発がどれほど重い案件なのか、宰相の反応が物語っている。


「そ、それは分かっている。そうだ、証人もいるぞ!」


 また証人か。

 宰相の迫力に気圧されながらも、ジェレミー殿下はまだ引き下がらない。いや——引き下がれないのだ。ここまで来て手ぶらで帰れば、虚偽の告発をした側として裁かれることになる。


「証人を連れてまいれ!」


 すぐに一人の少女がエレミー嬢の横に並んだ。

 帝城に仕えるメイドの制服を着ている。年齢は十七、八歳くらいか。


 そして——困ったことに、俺にはこのメイドに見覚えがあった。


「ディアナ、挨拶は無用だ。あの日のことを申してみよ」


 ディアナと呼ばれたメイドは、小刻みに震えていた。

 顔が白い。目が泳いでいる。口を開こうとして、何度も唇を舐めている。

 これは——怯えている。宰相や皇帝が怖いだけではない。もっと根本的な恐怖。何かを言わされている人間の震え方だ。


「あれはジェレミー殿下の誕生日の祝宴の日のことでございます……」


 ディアナが語る内容はこうだった。

 ジェレミー殿下の誕生日の祝宴が催された日、俺——ルーク・フォン・ベルガーが、花束を持ってリディア嬢の居室を訪れた。そして二人きりで部屋の中に入った、と。


 そして困ったことに——花束を届けたという部分は、本当だ。


 ルークの記憶を辿る。

 あの日、俺は帝城の回廊を歩いていた。すると一人のメイドに声をかけられ、「この花束をリディア様のお部屋に届けてほしい」と頼まれた。深く考えずに引き受けて、リディア嬢の居室を訪ねた。

 今思えば——なぜ伯爵家の子息がメイドの使い走りをしたのだろう?

 ルークの記憶の中の自分は、ぼんやりとした善人だったようだ。頼まれたら断れないタイプ。前世の俺と同じじゃないか。


「ルーク・フォン・ベルガー、いまディアナが言ったことは本当か?」


 宰相の問い。

 ここで嘘をつくわけにはいかない。皇帝の御前で虚偽を述べれば、それこそ終わりだ。


「花束を持ってリディア様の居室を訪れたことは本当でございます」


 参列者たちがざわめく。


「それでは不貞を認めるということか?」

「いえ、それは違います。正しくは、ある方の依頼でリディア様のところへ花束を届けに行きました」

「ほう、詳しく申せ」

「あの日、ぼくが帝城を歩いていると、あるメイドに花束をリディア様のところへ届けてくれと頼まれたのです」


 宰相が眉を上げた。


「メイドに頼まれたと申すのか? 帝城の中で貴族がメイドに頼まれ事をするなど、あり得ない話だ。そのメイドの名は分かるか?」

「残念ながら分かりません。花束の送り主も聞きませんでした」


 我ながら間抜けな話だ。だが、ルークの記憶にはそれしか残っていない。

 もしかして——最初から嵌められていたのか?


「宰相閣下、発言の許可をいただけますか」


 リディア嬢が手を上げた。


「よろしい」

「あの日、確かにわたくしはルークさんから花束を届けていただきました。その花束にはカードが添えられていなかったので、送り主は分かりませんでしたわ」


 リディア嬢、ナイスフォロー。

 カードがなかった——つまり、ルークが個人的に花を贈ったのではなく、誰かの代理で届けただけだという傍証になる。


「つまり、リディア様とぼくは何者かに嵌められたと推察します」

「ルーク、残念だがそれは反論になっていないぞ。ルークが個人で花を持ち込んだならカードなどいらないだろう」

「あっ……確かに」

「つまり、誰かに頼まれたのは嘘だということだな、ルーク!」


 ジェレミー殿下が鬼の首を取ったように叫ぶ。

 うるさいな。論理が飛躍しすぎだ。カードがないことは「頼まれていない」証拠にはならない。だが、この場の空気は論理ではなく感情で動いている。


「宰相閣下、ひとつよろしいですか」


 俺は落ち着いて——前世で株主総会の矢面に立たされた時の経験を思い出しながら——口を開いた。


「さきほどから不思議なのですが、ぼくがリディア様に花束を届けると、なぜ不貞の疑いがかけられるのでしょうか?」


 宰相が答えた。


「ルークよ、貴族の世界では『貴族の子女は十歳にして二人きりになることを禁ずる』という暗黙の了解がある。若い男女が二人きりで部屋に入れば、不貞を働いたと言われても仕方がないのだ」


 なるほど——不文律か。

 前世で言えば、コンプライアンス規定のようなものだ。実際に何かあったかどうかに関わらず、「疑われる状況を作った」こと自体が問題になる。

 貴族社会も日本の企業社会も、面倒くさいところは同じだな。


 だが——この不文律を逆手に取れる。


「承知しました、宰相閣下。その不文律は理解しました」


 俺は一拍置いて、ジェレミー殿下に正面から視線を向けた。


「ですが殿下、それはつまり——リディア様の居室に『二人きりで入った』ことが問題なのですよね?」

「そうだ! だからお前は——」

「では伺います。ディアナさんは、ぼくがリディア様の居室に『入った』ところを見たと証言しました。ですが、ぼくが『二人きりで部屋の中にいた』ことを、どうやって知ったのですか?」


 謁見の間が、一瞬静まった。


「扉の外から見ていただけなら、部屋の中に他の侍女がいたかどうかは分かりませんよね? 実際、あの日リディア様の部屋には侍女が二人おりました。ぼくは花束を渡して、五分と経たず退室しています」


 ルークの記憶を掘り返した結果だ。確かに部屋には侍女がいた。二人きりにはなっていない。


「それに——」


 俺はさらに畳みかけた。


「婚約者でもない相手に花を届けただけで不貞を疑われるのでしたら、殿下は花屋にも嫉妬なさるのですか?」


 一瞬の間があって——参列者の中から、吹き出す声が漏れた。

 それが連鎖して、やがて謁見の間のあちこちから笑いが広がった。


「そ、そういう問題ではないぞ、ルーク!」


 ジェレミー殿下が顔を真っ赤にして怒鳴るが、もう遅い。

 場の空気が変わった。不貞の告発という重苦しい空気が、ルークの切り返しによって軽くなった。

 笑いは最強の武器だ。前世のプレゼンで学んだ——聴衆が笑った瞬間、主導権はこちらに移る。


 親父がこっちを見て苦笑いしている。すまん親父、息子は茶番劇の最中だ。


「ル、ルーク……くっくっくっ……そういった問題ではないのだが、一理あるな」


 ボドワン宰相まで笑いを堪えている。

 だが宰相は笑いながらも、鋭い目で俺を見ていた。この少年は何者だ——そう言いたげな目だ。


 笑いが収まるのを待って、俺は声のトーンを落とした。

 ここからが本番だ。


「宰相閣下。笑い話はここまでにさせてください」


 場の空気が引き締まる。


「ぼくが申し上げたいのは、ジェレミー殿下の告発には根拠がないということです。嫌がらせの件は証言が一致せず、突き落としの件は怪我をしていたはずのエレミー嬢が立ち上がり、不貞の件は花束を届けただけ。すべてが——作り上げられた物語です」


 謁見の間が静まり返った。

 俺は続けた。


「そしてこの告発の真の目的は、婚約破棄ではありません」


 ジェレミー殿下の表情が変わった。さっきまでの怒りではない。初めて見せる——焦りだ。


「リディア様とブリュネ公爵家の社会的な抹殺です。婚約破棄だけが目的なら、こんな大掛かりな舞台は必要ありません。皇帝陛下の御前で、証人まで仕込んで、リディア様の名誉を徹底的に貶めようとした。これは個人の我儘ではなく、明確な意図を持った策略です」


 参列者たちがざわめく。だが、誰も笑ってはいない。


「ルーク様……」


 横で小さな声が聞こえた。

 リディア嬢が——驚いたように、俺を見つめていた。

 碧い瞳が潤んでいる。だが、さっきまでの悔し涙とは違う。

 何かを堪えるように唇を噛み、それでも目を逸らさずに俺を見ている。


 その視線の意味を——俺は考えないようにした。

 考えたら、きっと冷静ではいられなくなる。


「宰相閣下、もうひとつだけ」

「申してみよ」

「ジェレミー殿下は、帝国に対して隠し事をしておられるのではないですか? この場は、その隠し事から列席の皆様の目を逸らすために設けられた——ぼくにはそうとしか思えません」


 これは——半分ハッタリだ。

 根拠はない。だが、殿下の挙動、エレミー嬢の計算高さ、シャリエ伯爵家の財政難。それらを繋ぎ合わせると、「婚約破棄の裏に別の目的がある」という推理は的外れではないはずだ。

 前世の経営企画時代、根拠が不十分でも「方向性として間違っていない仮説」は、相手を揺さぶるのに十分だった。


「き、貴様! この国の皇子に向かってその態度、不敬であるぞ!」


 ジェレミー殿下が叫んだ。

 だが——殿下の声は震えていた。図星だったのだ。


「ルークよ」


 ボドワン宰相が、静かに俺を見た。


「殿下が隠し事をしていると申したな? 出任せであれば不敬罪だぞ」


 不敬罪——つまり、ハッタリがバレれば俺の首が飛ぶ。

 文字通り。


 だが、俺は引かなかった。

 隣に立つリディア嬢の名誉を守ると決めたのだ。中途半端に引き下がるわけにはいかない。


「承知の上です、宰相閣下」


 その時——リディア嬢の手が、俺の袖をそっと掴んだ。


 振り向くと、彼女は俺を見ていなかった。正面を向いたまま、ただ俺の袖を握っている。

 その指先が微かに震えていた。


 心配しているのか。俺のことを。

 不敬罪で首を刎ねられるかもしれない人間の袖を掴んで、離さないでいる。


 前世では——こんなふうに、俺のために震えてくれる人間はいなかった。


 気づけば、俺の口元には笑みが浮かんでいた。

 怖くないと言えば嘘になる。だが——この手を離させたくない。


「大丈夫ですよ、リディア様」


 小声で囁いた。リディア嬢の指先の震えが、少しだけ和らいだ気がした。


 さて——ハッタリの続きを、どう着地させるか。

 前世の会議で培った「逃げ道を残しながら攻める」技術の見せどころだ。


 だが、その必要はなかった。

 俺が次の言葉を発する前に、一人の男が宰相の元へ駆けつけたのだ。

 何やら耳打ちをしている。宰相の表情が変わった。


 何かが——動き始めた。


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