第2話 乙女ゲームの修羅場に転生した件
本日は第1話から第5話まで投稿します。
これは第2話になります。
「お集まりの皆様方、お忙しいところご足労感謝する」
ボドワン宰相が恭しく頭を垂れる。
謁見の間には帝都に居住する上級貴族——公爵から伯爵までが揃っているようだ。
上級貴族が本当に「お忙しい」のかは疑わしい。前世のブラック企業では全員が本当に忙しかったが、ここにいる面々は明らかに暇を持て余しているだろう。
ちなみに、リディア嬢の父親であるブリュネ公爵と、俺の親父のベルガー伯爵も列席している。
「本日はジェレミー皇子殿下より、皇帝陛下の御前で公にしたい事案があると申し出があったため、急遽皆様にお集まりいただいた」
事案、ね。
俺のような十五歳の伯爵家三男坊が、帝国の政治的事案に関わるとは思えないのだが……。
「ジェレミー殿下、こたびの申し立てにつきまして説明していただけますかな。挨拶は不要ですぞ」
「あい分かった、ボドワン卿」
ジェレミー殿下は皇帝に軽く頭を下げてから、壇上の前面に歩み出た。
そして——自分の婚約相手であるリディア公爵令嬢を、まっすぐに睨みつけた。
だが、俺はその目に違和感を覚えた。
睨んでいるのに、視線が泳いでいる。顎を上げて見下ろす姿勢は威圧的だが、握りしめた拳の指先が白い。
前世で何百回も見た光景だ。上司に命じられて、納得していないプレゼンを壇上でやらされる若手社員。あれと同じ目をしている。
この皇子——自分の言葉で喋ろうとしていない。
「ぼくはリディア・フォン・ブリュネとの婚約を破棄する!」
謁見の間が爆発した。
「「「なんだって!」」」
「「「嘘でしょ!」」」
列席者たちが一斉に騒ぎ出す。
婚約破棄——それも、帝国随一の名門ブリュネ公爵家の令嬢との婚約を、皇帝の御前で一方的に破棄するだと?
前世の経験で言えば、これは取引先との契約を株主総会の壇上で一方的に破棄するようなものだ。正気の沙汰じゃない。
隣のリディア嬢を見る。
碧い瞳に涙が滲んでいる。唇を噛みしめ、両手を固く握っている。
だが——下を向いていない。正面を見据えている。
俺は前世で何人もの人間が追い詰められて壊れていくのを見てきた。本当に心が折れた人間は、こんなふうに前を向けない。
この子は、まだ戦える。
「そして、エレミー・フォン・シャリエを新たな婚約者とする!」
「「「婚約破棄したばかりなのに!」」」
「「「皇子のご乱心か?!」」」
皇子はさらに爆弾を投下しやがった。
婚約破棄だけでなく、即座に新しい婚約者を宣言するとは。リディア嬢の公開処刑じゃないか。
「皆の者! 静まりなさい! 皇帝陛下の御前であるぞ!」
ボドワン宰相の一声で、ざわめきが一瞬で沈静化した。
前世の上司でもここまでの統率力は見たことがない。この宰相、只者ではないな。
「ジェレミー殿下、それは由々しき事態ですな。理由を訊いてもよろしいかな?」
「もちろんだ宰相殿。リディアは日頃からエレミーの容姿と学業の優秀さを妬み、嫌がらせを常日頃から行なっていた!」
ジェレミー殿下の声は力強い。先ほどまでの視線の泳ぎが消え、むしろ熱を帯びている。
——これは演技ではない。本気だ。
殿下はリディア嬢が嫌がらせをしたと、心の底から信じ込んでいるのだ。
嘘をつく人間は目を逸らす。だが、嘘を真実だと信じている人間の目には迷いがない。だからこそ厄介なのだ。
リディア嬢は俺の隣でプルプルと震えている。
「具体的には、教科書を水浸しにしたり、ノートを破いたり、持ち物を捨てたり……」
聞くに堪えない、典型的な嫌がらせの列挙だ。
だが、ルークの記憶を探ると、リディア嬢は学園でも品行方正で通っている。このような幼稚な行為に手を染める人物像とは全く一致しない。
「そのような事、わたくしはしておりませんわ!」
「リディア嬢、しばし沈黙を」
リディアは涙目で訴えたが、宰相に発言を制された。
だが、ボドワン宰相の表情を見て、俺は気づいた。
制止はしたが、眉一つ動かしていない。リディア嬢の訴えに驚きもしなければ、ジェレミー殿下の告発にも動揺していない。
この人は——全てを知った上で、あえてジェレミー殿下に喋らせている。泳がせているのだ。
前世の交渉術でも「相手に先に全部言わせろ」は基本中の基本だった。
「そこまでは子供の悪戯で済む些事に過ぎなかった。だが、リディアの悪事はそれだけに留まらなかった」
ジェレミー殿下は周囲を見回して間を置いた。芝居がかった仕草。これも誰かに教え込まれたものだろう。
「こともあろうか、リディアはエレミーを階段から突き落としたのだ!」
再び参列者が騒ぎ出した。
エレミー嬢が声を上げて泣き始める。
それで彼女は車椅子に座っていたのか。
俺は冷めた目でエレミー嬢を観察していた。
泣いている。確かに泣いている。涙も流れている。
だが——おかしい。
泣いているのに、ハンカチを出すタイミングが完璧だ。涙を拭う手つきに迷いがなく、顔を上げる角度がちょうど列席者たちの同情を最も引きやすい位置になっている。
まるで鏡の前で何度も練習したかのように。
気になって、心眼を使ってみた。
【演技:96% 計算:78% ——泣くタイミングを計っていた。この状況を、楽しんでいる】
——やはり、か。
演技96%。この少女の涙は、計算され尽くした武器だ。
そしてこいつは——この状況を楽しんでいる。リディア嬢が追い詰められていく様を見て。
俺の中で、静かな怒りが灯った。
リディア嬢は両手を握りしめて堪えている。
「そ、そんなこと……わたくしは……」
彼女の声は、周囲のざわめきに掻き消された。
誰にも届かない。
——前世の俺みたいだ。
どれだけ正しいことを言っても、声の大きい人間にかき消される。
だが、今の俺は違う。
「静粛に!」
宰相が再び場を制した。
「リディア! まさかお前がそんな事をするとは思いもしなかったぞ! 恥を知れ!」
「ジェレミー殿下! わたくしはそのような事はやっておりませんわ! 断じてやっておりません!」
「黙れ! お前のやったことは犯罪行為だ! 自覚しているのか!」
「わたくしは無実です。なぜわたくしを信じて頂けないのですか!?」
ジェレミー殿下は罵り、リディアはそれを否定する。堂々巡りだ。
感情と感情のぶつかり合いでは、何も解決しない。前世の会議で何度も見た光景だった。
不思議なのは、宰相がこの堂々巡りを止めようとしないことだ。列席者の騒ぎは制するが、当事者の議論には一切介入しない。
泳がせている——のは分かるが、このままではリディア嬢が消耗するだけだ。
横目でリディア嬢を見る。
息が荒い。目は充血し、声が裏返りかけている。
怒りで我を忘れた人間は、必ず致命的な失言をする。それは前世で嫌というほど学んだ教訓だ。
このままでは——まずい。
「リディア様」
俺は小声で彼女に話しかけた。
「冷静になってください。感情に訴えても問題は解決しません」
だが、リディア嬢の興奮は収まらない。
無理もないだろう。十六歳の少女が、帝国の重鎮に囲まれて犯罪者呼ばわりされているのだ。
だが、俺はあえて言う。
優しい言葉では届かない。前世で俺が一番必要としていたのは、慰めの言葉ではなく、目を覚まさせてくれる一言だった。
「いつまでもそうして喚き続けていなさい。白馬に乗った勇者が現れて、貴女を救いに来てくれるまで」
リディア嬢がキッと俺を睨みつけた。
碧い瞳に、涙と怒りが同居している。その目で睨まれると——正直、心臓に悪い。
だが、狙い通りだ。
怒りの矛先がジェレミー殿下から俺に移れば、冷静さを取り戻すきっかけになる。クレーム対応の基本だ——って、公爵令嬢にクレーム対応テクニックを使うのは不謹慎だが。
リディア嬢は数秒間、射殺さんばかりの目で俺を睨み続けた。
だが、その碧い瞳の奥で何かが変わるのが見えた。
怒りの炎が鎮まるのではない。炎が、冷たく研ぎ澄まされた刃に変わっていく。
「ルークさん、お気遣いありがとうございますわ」
リディア嬢の雰囲気がガラリと変わった。
声の温度が下がり、背筋が伸び、公爵令嬢の気品が全身に戻ってくる。
立ち直り早っ——!
いや、立ち直ったというより、覚悟が決まったのだ。戦う覚悟が。
「わたくしは、もう大丈夫でございます」
リディア嬢は微かに笑い、深呼吸をした。
その横顔を見た瞬間、俺の胸の奥で何かが動いた。
涙の跡が残る頬。きつく結んだ唇が、微かに弧を描く。
弱さを見せた直後に立ち上がるその姿は——強がりとは違う、本物の強さだった。
……いかん。見惚れている場合じゃない。
「リディア様、一つ訊いてもいいですか?」
「なんでしょう」
「リディア様がエレミー嬢に嫌がらせをする隙はあったのでしょうか?」
「確かにそうですわね。ジェレミー殿下の周りには常に取り巻きがおりましたし、エレミーさんはその中の一人です。そこを突いてみましょう」
俺の投げかけた疑問を、リディア嬢は一瞬で反論の武器に変えた。
この子は頭がいい。材料さえ渡せば、自分で最適な形に仕上げられる。
前世の経営企画部で、こういうパートナーがいたら——いや、よそう。
リディア嬢はジェレミー殿下に顔を向けて、言い放った。
「おかしなことを仰いますのね、ジェレミー殿下」
彼女の身体から、何かが溢れ出すのを感じた。
鑑定スキルが自動で反応する——これは魔力だ。リディア嬢の体内から、桁外れの魔力が漏れ出している。
魔法が使えないと言っていたが……魔力量だけなら、この場の宮廷魔導士を凌駕しているぞ。
「どこがおかしいと言うのだ。ぼくを愚弄する気か?」
「いえ、そのつもりは御座いませんわ。ただ、学園ではエレミーさんの傍らにはいつも殿下がいらっしゃいましたし、ご学友を側仕えのように侍らしておりました」
リディア嬢の反論が始まった。辛辣だが、論理的だ。
「いつわたくしにそのような悪戯ができたと仰るのでしょう?」
ジェレミー殿下の顔が赤くなった。目が泳ぎ、言葉に詰まっている。
この反論は想定外だったのだろう。台本にはリディア嬢が冷静に論理で切り返してくる展開は書かれていなかったに違いない。
「なんだと! エレミーが言ったことが嘘だと言うのか!」
殿下が怒鳴る。
討論では怒った方がたいてい負ける——これは前世で学んだ鉄則だ。
「付け加えますと、わたくしは魔法が使えませんし、誰にも見られずにエレミーさんの持ち物を取り上げることなど、不可能でございます」
魔法が使えない、か。
あれだけの魔力を持ちながら「使えない」と言うのは——使い方を知らないのか、それとも制御できないのか。この件は後で確認しよう。
「リディア様、酷いですわ! あんな事をしておきながら……ジェレミー殿下を言いくるめようなんて!」
エレミー嬢が割って入り、激しく泣き始めた。
タイミングが完璧すぎる。リディア嬢が反撃に転じた瞬間を狙って、場の空気を感情論に引き戻そうとしているのだ。
理屈で負けそうになったら泣く——前世の取引先にもこういう手を使う人間がいた。最も対処に困る戦術だ。
「エレミーさん、寝言は寝てから言ってくださいな」
リディア嬢が冷たく言い放つ。
「うわーん!」
エレミー嬢がさらに声を上げて泣く。
泣けばいいと思っているのか。いや、実際に効果があるから厄介なのだが。
それにしてもリディア嬢、悪役令嬢としての風格が出てきたぞ。こっちが素なのか?
「リディア! エレミーを泣かすな!」
ジェレミー殿下が怒鳴る。
エレミー嬢が泣くたびに殿下は冷静さを失っていく。庇護欲が強いのだろう。その感情自体は本物なのかもしれないが、利用されていることに気づいていない。
俺は改めて、この状況の全体像を整理した。
ジェレミー殿下はエレミー嬢に心を掌握されている。殿下自身に悪意はない。彼はただ、信じた相手が間違っていただけだ。
エレミー嬢の背後には、おそらくシャリエ伯爵がいる。資金繰りに困った辺境貴族が、皇子との縁談を手に入れるために仕組んだ茶番劇——
だが、それだけか? 皇帝の御前でここまで大掛かりな芝居を打つ必要があるのか?
この場は、ただの婚約破棄の場ではない。
もっと大きな何かが、水面下で動いている。
考え込んでいると、リディア嬢が不意に俺を見た。
涙の跡が残る碧い瞳。だが、そこにはもう弱さはない。先ほどの公爵令嬢とも、泣きそうだった少女とも違う——穏やかで、真っ直ぐな目だ。
「ルークさん」
「はい」
「……助けてくれて、ありがとうございます」
小声だった。俺にしか聞こえない声量で。
その声が、不思議なくらい胸に残った。
そっと心眼を使う。今この瞬間の、リディア嬢の本心が知りたかった。
【信頼:72% 感謝:58% ——そして、まだ名前のつかない小さな光が、静かに灯っている】
名前のつかない、小さな光。
心眼は万能ではない。本人すら気づいていない感情には、数値ではなくこんな曖昧な表示しか出ないらしい。
だが——その不確かな光が、なぜか俺の胸を温かくさせた。
「お礼を言うのはまだ早いですよ、リディア様。この茶番劇はまだ終わっていませんから」
「そうですわね。ふふっ」
リディア嬢が小さく笑った。
こんな状況で笑えるのだから、この子は本当に強い。
だが、ジェレミー殿下にはまだ手札があるようだ。
それにしてもこの事案——どこへ向かおうとしているのだろう。
そして俺は、いつの間にかこの茶番劇の当事者になっていることに、嫌な予感を覚え始めていた。




