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第10話 あなたを失いたくない

 市内に侵入した魔物の掃討は、思ったよりも早く終わった。


 天使召喚で氷結の天使を呼び出し、市街地に散らばった魔物を各個撃破していく。天使の氷結魔法は精密で、建物への被害を最小限に抑えながら魔物だけを凍結させることができた。


 だが、身体への負荷は帝城の時より明らかに重い。

 連続で召喚を維持しているせいだろう。右腕の痺れが肘まで広がり、視界の端がちらちらと明滅する。

 身体適合率3%——この身体は、女神の力を受け止めるにはあまりにも脆い。


 市内の掃討が完了した頃には、日が暮れかけていた。

 城壁の崩壊箇所は、回復魔法を応用して応急修復した。完全ではないが、魔物の大群が一気に雪崩れ込むのは防げるはずだ。


「ルーク、大丈夫か」


 ギルバートが城壁の上で俺に水筒を差し出した。


「ええ、少し疲れただけです」


 嘘だ。

 鼻の奥がじんじんする。鼻血が出る寸前だ。頭痛も酷い。

 前世で三日連続の徹夜をやった時の方がまだマシだった。あの時は缶コーヒーで誤魔化せたが、この世界に缶コーヒーは存在しない。文明の敗北だ。


「夜間に総攻撃が来るだろうな。魔物は夜目が利く。暗闇は奴らの味方だ」

「ギルバートさんの経験では、夜襲にどう対処すべきですか?」

「松明と照明魔法で視界を確保しつつ、城壁の上から叩く。基本に忠実にやるしかねぇ」


 ギルバートは歴戦の冒険者だ。経験に裏打ちされた判断は信頼できる。


「ぼくは天使召喚で防衛線を張ります。ただ——正直に言うと、もう一度召喚すると身体がもたないかもしれません」

「そいつは厄介だな。だが、使えるカードは全部切るしかねぇ。倒れたら俺が引き継ぐ。さっき約束した通りだ」


 ギルバートが不敵に笑う。

 この男がいてくれるのは心強い。


 そこにリディア嬢が城壁を登ってきた。

 薄暗がりの中でも、金色の髪は目立つ。


「ルーク様、避難民の方々の対応はひとまず完了しましたわ。負傷者はアンネリーゼ様が治療にあたっています」

「ありがとうございます。リディア様がいなかったら、後方は混乱していたと思います」


 リディア嬢は俺の隣に立ち、城壁の外を見た。

 闇の中で蠢く魔物の群れ。無数の赤い目が、暗闇の中で光っている。


「……たくさんいますわね」

「ええ。夜襲が来ます」

「ルーク様は、また魔法を使うのですか?」

「使わなければ、この城壁は持ちません」


 リディア嬢が俺を見た。暗くてよく見えないが、碧い瞳が揺れているのは分かった。


「ルーク様、先ほどから右手が震えていますわ」


 気づかれていた。


「大したことはありませんよ」

「嘘がお下手だと、昨夜も申し上げましたわ」


 その通りだ。この子には嘘が通じない。


「……少し、負荷がかかっています。でも、まだ戦えます」

「まだ、ということは——限界はあるのですわね」


 答えなかった。答えたら、リディア嬢は俺を戦わせまいとするだろう。


「リディア様は後方にいてください。ここは危険です」

「お断りしますわ」


 即答だった。


「わたくしも戦います」

「リディア様は魔法が——」

「使えないと言いました。ですが、使えないのではなく——制御できないのです」


 リディア嬢の声が、僅かに震えた。


「幼い頃、魔法が暴走して、周りの人を傷つけてしまったことがあります。それ以来、怖くて使えなくなりました」


 リディア嬢の秘密。

 あの桁外れの魔力量の裏に、そんなトラウマがあったのか。


「でも——」


 リディア嬢が俺の右手を、そっと両手で包んだ。震える右手を。


「あなたが一人で全部背負う必要はありませんわ。お父様に言われたのでしょう? 『背負いきれないものは、誰かに頼れ』と」


 なぜそれを知っている。

 ——いや、ベルガー伯爵がリディア嬢にも同じことを言ったのかもしれない。


「わたくしは、あなたの隣で戦いたいのです。不完全でも、制御できなくても——」


 その時、城壁の外から地鳴りのような音が響いた。

 魔物の群れが動き始めた。夜襲だ。



 それは、地獄のような夜だった。


 松明の明かりが照らす範囲に、次から次へと魔物が押し寄せてくる。

 ギルバートが衛兵たちを指揮し、城壁の上から矢と魔法の雨を降らせる。冒険者たちが城壁の隙間から侵入しようとする魔物を剣で迎え撃つ。


 俺は天使を再召喚した。

 身体中に激痛が走った。視界が白く明滅する。鼻から血が滴り落ちた。


 だが、天使は応えてくれた。

 氷結の光が城壁の前面を覆い、押し寄せる魔物の第一波を凍結させて砕く。


「「「うおおおっ!!!」」」


 衛兵たちが歓声を上げる。

 だが、魔物は止まらない。第二波、第三波と次々に押し寄せてくる。


 天使の力が弱まっていくのが分かる。いや——俺の力が持たないのだ。

 身体適合率3%。女神の力に、この身体が耐えられない。


 膝が震える。

 視界がぼやける。

 右手の感覚がなくなっていく。


「ルーク! お前、鼻血が止まらねぇぞ!」


 ギルバートの声が遠くに聞こえる。


「まだ……まだ、止めるわけには……」


 この防衛線が崩れたら、市内に魔物が流れ込む。避難民の元へ——リディアの元へ。

 それだけは、絶対に許さない。


 だが、身体が言うことを聞かない。

 膝が折れた。

 石畳に手をつく。


 天使が振り返って俺を見た。心配そうな顔で——光が薄れていく。

 消える。天使が消えてしまう。


 その瞬間——


「ルーク様に触れるなっ!」


 叫び声とともに、凄まじい冷気が城壁の上を吹き抜けた。


 顔を上げると、リディア嬢が両手を前に突き出して立っていた。

 その身体から——蒼白い光が溢れ出している。


 氷の結晶が空気中に生まれ、渦を巻いて城壁の前面に叩きつけられた。

 津波のような氷の壁が、押し寄せる魔物の群れを一瞬で凍結させる。


 桁外れの威力だった。

 俺の天使召喚とは質が違う。純粋な魔力の奔流。制御されていない、だからこそ圧倒的な破壊力。


「な……」


 ギルバートが絶句している。衛兵たちも呆然としている。

 凍らされたのが魔物だけで衛兵に被害がなかったのは幸いだ。労災の申請書をこの世界で書きたくはない。


 だが俺が見ていたのは、魔法の威力ではなかった。


 リディア嬢の顔だ。

 涙を流していた。恐怖で顔が歪んでいた。

 幼い頃のトラウマが蘇っているのだろう。自分の魔法が暴走して誰かを傷つけてしまう恐怖。それでも——俺を守るために、封じていた力を解放した。


「リディア様……」


 リディア嬢の身体が揺れた。

 膝が折れかける。俺は這うようにして近づき、彼女の身体を支えた。


「リディア様、大丈夫ですか」

「ルーク、様……わたくし、また暴走して……誰かを傷つけて……」

「傷つけていません。あなたの魔法は魔物だけを凍らせた。誰も傷つけていません」

「本当……ですか……?」

「本当です。リディア様が守ってくれたんです。ぼくを——みんなを」


 リディア嬢が俺の胸に顔を埋めた。

 肩が震えている。声を殺して泣いている。


 俺は彼女の背中に手を回した。中身は三十二歳だの、年齢差がどうだの、そんなことはもう考えなかった。

 目の前で泣いている少女を、抱きしめることしか考えられなかった。


「お願いです……わたくしを一人にしないで……」


 リディア嬢の声は、城壁の上の喧騒に掻き消されそうなほど小さかった。


「やっと見つけたのに……あなたを失うなんて、嫌です……」


 やっと見つけた。

 その言葉が、胸の奥に深く刺さった。


「失いませんよ」


 俺はリディア嬢の肩を掴み、少しだけ離して目を合わせた。

 涙で濡れた碧い瞳が、月明かりの下で揺れている。


「ぼくはリディア様のところから、どこにも行きません。約束します」

「……約束を破ったら、許しませんわよ」

「破りません。絶対に」


 リディア嬢が涙を拭って、笑った。

 泣きながら笑う顔を見るのは、これで二度目だ。だが、何度見ても——胸が痛い。


 その時、背後から柔らかい光が差した。


「失礼いたします」


 アンネリーゼ様だった。

 聖女の手から温かな金色の光が溢れ、俺の身体を包んでいく。


「これは……」

「浄化と治癒の複合魔法です。ルーク様の身体にかかっている負荷を、少しだけ軽減できると思います」


 嘘みたいに、身体が軽くなった。

 鼻血が止まる。頭痛が和らぐ。右手の感覚が戻ってくる。


「アンネリーゼ様、あなたの魔法はぼくの——」

「はい。使徒様の身体に蓄積された魔力の残滓を浄化して、負荷を取り除くことができます。おそらく、女神様がそのようにお計らいくださったのだと思います」


 つまり——聖女の浄化魔法と俺の天使召喚は、セットで使うことを女神が想定していたということか。

 俺一人では身体が持たない。だが、聖女のサポートがあれば、もう少し戦える。


 アンネリーゼ様は俺とリディア嬢が抱き合っていた場面を見ていたはずだが、何も言わなかった。

 ただ穏やかに微笑んで、治癒を続けてくれている。


 その横顔に——僅かな寂しさが混じっていることに、俺は気づいていた。

 気づいていたが、今は何も言えなかった。


「ルーク!」


 ギルバートの声が飛んできた。


「第二波が来るぞ! 立てるか!」


 俺は立ち上がった。

 右手の震えは止まっている。身体は軽い。


 隣にリディア嬢が立った。目は赤いが、碧い瞳には戦う意志が宿っている。


 背後にアンネリーゼ様が控えている。金色の光が、俺の身体を優しく包んでいる。


「——行けます」


 俺は城壁の端に立ち、闇の中で蠢く魔物の群れを見下ろした。


 一人では無理だった。

 だが今は——一人じゃない。


お読みいただきありがとうございます。

リディアの魔法がようやく目を覚ましました。

彼女がずっと封じていた力を、誰のために解放したのか——書いていて胸が熱くなったシーンです。

皆さまの推しキャラは誰ですか? 感想いただけると嬉しいです。

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