第1話 知らない床と、知らない少女
はじめまして、黒野ぐらふと申します。
この小説は第一部の完了まで書き溜めております。
中途半端な終わり方はしませんので、どうぞお楽しみください。
「知らない床だ……」
なんで俺は跪いて床を見ているんだろう……。
うっ、頭が痛い……目が回る……くそっ。
俺は朝倉琉生、三十二歳。
ブラック企業の経営企画部で十年間こき使われた末に、気がつけば深夜のオフィスで意識を失い——
そうだ、俺は死んだのだ。
走馬灯のように蘇る記憶がある。
毎日終電。休日出勤。数字だけで評価される日々。同期は次々と辞めていき、残ったのは俺ひとり。上司に「お前がいないと回らない」と言われるたびに、それが褒め言葉ではなく呪いだと気づいていたのに、逃げられなかった。
誰かのために頑張っているつもりだった。でも結局、俺の仕事で誰が幸せになったのか、最後まで分からなかった。
——あなた、このまま死ぬのは悔しくないの?
白い光の中で、そんな声を聞いた気がする。
穏やかで、どこか呆れたような、女神と名乗る何者かの声。
——もう一度だけ、チャンスをあげる。今度は誰かの笑顔のために、その力を使いなさい。
そして気がついたら——ここにいた。
ここは異世界。地球とは異なるこの世界で、俺はベルガー伯爵家の三男ルーク・フォン・ベルガーとして十五年を過ごしてきた。
いや、正確に言えば、十五年分の記憶を持っている。前世の記憶が蘇ったのは、たった今だ。
ルークとしての記憶と、朝倉琉生としての記憶が、頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合って気持ちが悪い。
ゆっくりと頭を上げてみると、目の前の壇上には豪華な玉座があった。
金の装飾が施された天井は高く、壁には帝国の歴史を描いたタペストリーが幾重にも垂れ下がっている。
そうだ、俺は今、帝城の謁見の間にいる。
「ルーク・フォン・ベルガー! 皇帝陛下が参られるまで頭を下げておれ!」
「も、申し訳ございません!」
壇上から俺を怒鳴ったのは宰相のボドワンだ。
細身で白髪の紳士だが、声には謁見の間を震わせるほどの威圧感がある。
敵に回したくないタイプだな……。
「ルークさん、どうかしたのですか?」
俺の左隣で同じように跪く少女が、小声で話しかけてきた。
公爵令嬢のリディア・フォン・ブリュネ。
ルークの記憶によれば、帝国随一の名門ブリュネ公爵家のご令嬢で、年齢は十六歳。学園の社交界でも才色兼備と評判の人物だ。
横目でちらりと見ると——なるほど、評判に偽りなし。
金色の髪が謁見の間の光を受けて淡く輝き、碧い瞳は宝石のように澄んでいる。
「大丈夫ですよ、リディア様。少し目眩がしただけです」
「それならいいのだけど、顔色が悪いですわね……」
いや、あんたもだろう。
血の気が引いて青い顔をしているのに、隣の人間のことまで気にかけるのか。
前世では、そんなふうに俺を気遣ってくれる人間は一人もいなかった——いや、いたのかもしれないが、気づけなかっただけか。
俺は今、とてもまずい状況にある。
リディア嬢や俺は表彰のために謁見の間にいるのではない。その正反対だ。
なにかの罪で弾劾されるために、ここに引きずり出されているらしい。
十五歳の俺を何の罪に問おうというのか。ルークの記憶を掘り返してみても、学園で多少サボったくらいで、弾劾されるような心当たりは一切ない。
——いや、待て。
こういう時こそ冷静に状況を整理するべきだ。前世で叩き込まれた「まず現状を把握しろ」という習慣が、こんなところで役に立つとは。
この世界には魔法が存在する。ルークの記憶にもそれはある。
ならば、自分のステータスを確認できるのではないか。
俺はそっと意識を集中させた。
女神にもらった力がどんなものなのか、確認しておきたい。
『ステータス・オープン』
心の中で念じると、目の前に半透明の文字列が浮かび上がった。
やはりこの世界にはステータスの概念が存在するらしい。
名前:ルーク・フォン・ベルガー
年齢:15
レベル:9,999
称号:女神の祝福を受けし者
身体適合率:3%
固有スキル:
鑑定(対象の情報を読み取る)
心眼(対象の感情を数値化して視る)
天使召喚(上位天使を召喚し使役する)
全属性魔法適性
「うっ……まじかよ」
「ルーク!」
また宰相に怒られた。周囲から忍び笑いが聞こえるが、そんなことはどうでもいい。
レベル9,999——ルークの記憶によれば、A級冒険者と呼ばれる人外じみた猛者でレベル100。伝説の勇者ですらレベル200程度だという。
俺のレベルは文字どおり桁が違う。
ひょっとして、俺ってこの世界で最強なのか?
だが気になるのは「身体適合率:3%」という表示だ。
おそらく、十五歳の身体ではこの力を十全に発揮できないということだろう。女神様もなかなか意地が悪い。全力を出したら身体が壊れる——そんな嫌な予感がする。
「ルークさん、何をニヤニヤしてるのですか? 気持ち悪いですわよ」
リディア嬢が俺に顔を近づけて、小声で話しかけてきた。
近い。顔が近い。
金髪から甘い花の香りがして、思わず心臓が跳ねた。
いや落ち着け。中身は三十二歳だ。十六歳の少女にドキドキしている場合ではない。
「もともと気持ち悪い顔なんです。ほっといてください」
「それ以上に気持ち悪いと言っているのですわ。何を考えているのですか?」
「ちょっと、いい事がありました」
「こんな時に浮かれたことを考えているなんて……度胸が据わってますのね。それともただのバカですか?」
——ここで、試してみるか。
俺はそっと意識を集中させ、固有スキル『心眼』を発動した。
リディア嬢の頭上に、薄く光る文字が浮かぶ。
【不安:87% 恐怖:46% 虚勢:62% ——それでも、隣の人間を気遣う優しさ】
見えた。この子の本当の心が。
平気そうな顔をして毒舌を吐いているが、内心は恐怖で押しつぶされそうなのだ。それでも——隣にいる俺のことを心配してくれている。
前世の俺なら、こんな感情に気づけなかっただろう。
「もちろんバカの方ですよ、リディア様」
「ふうん、まあいいわ。そのいい事を訊いてもいいかしら?」
「いいですけど、誰にも言わないと約束できますか?」
「いいですわよ。あなたとわたくしの秘密です」
秘密、か。
この少女と秘密を共有するというのは、悪くない響きだ。
「じつはですね……ぼくは少し神に近づいたかもしれません」
「……もういいです。バカなのはわたくしも同じでした。勝手にニヤついていてくださいな」
「本当のことを言ったのに……」
嘘じゃないんだがな。女神様に祝福されたんだから、文字どおり神に近づいたわけで。
だが、今のリディア嬢にこれ以上話す時間はなさそうだ。
そして俺たちの後ろから、車椅子に乗った少女が従者に押されてきて、リディア嬢の横に並んだ。
この位置からはよく見えないが、彼女は頭と左腕に包帯を巻いている。両足も怪我をしているようだ。
この少女は——ルークの記憶によれば、学園で何度か見かけた程度の相手だ。名前は……出てこない。
その時、リディア嬢の美しい顔が一瞬歪んだ。
すかさず心眼を向ける。
【嫌悪:31% 警戒:58% ——この人は信用できない】
リディア嬢はこの車椅子の少女を信用していない。
理由は分からないが、覚えておこう。
「シャリエ伯爵令嬢のエレミーさんですわ」
リディア嬢が小声で教えてくれた。声音に感情は滲ませていない。さすが公爵令嬢、感情の制御は見事だ——心眼がなければ気づけなかった。
「ありがとうございます、リディア様」
シャリエ伯爵家か。
ルークの記憶を探ると、父ベルガー伯爵から聞いた話が浮かんでくる。北方山脈に領地を持つ辺境貴族で、鉱脈が枯れかけており資金繰りに困っているらしい。悪い噂ばかりの家だ。
ここでエレミー嬢にも心眼を使ってみる。
【演技:92% 優越感:44% ——計算通りに事が運んでいることへの満足】
……おいおい。
怪我をして車椅子に乗っている少女の感情が「演技92%」って、どういうことだ。
怪我自体は本物のようだが、この場に車椅子で登場すること自体がパフォーマンスだということか。
壇上にひとりの男性が宰相の横に進み出た。
俺たちを見下ろす位置に立つその人物は、ルークの記憶によると第三皇子のジェレミーだ。学園の創立記念パーティーで一度拝謁したことがある。
金色がかった茶髪に整った顔立ち。年齢は十八歳。見た目だけなら文句なしのイケメンだ。
そしてジェレミー殿下は、リディア嬢の婚約者でもある。
心眼を向ける。
【虚勢:68% 恐怖:54% ——誰かに見られているという強迫観念】
虚勢と恐怖。
威勢よく壇上に立っているが、内心は怯えている。しかも「誰かに見られている」という恐怖——これは俺たちに対するものではない。別の誰かを恐れている。
操られている? 少なくとも、自分の意志だけでここに立っているわけではなさそうだ。
「ルークさん、あの少女を見てくださいな」
リディア嬢の碧い瞳が、ある人物を捉えていた。
法衣をまとった少女。年齢は俺と同じくらいだろうか。白い髪と金色の瞳が異質な印象を放っている。
「あれは聖女様です」
「聖女様? なぜここに?」
アンネリーゼ——ロマリア神聖国の聖女だ。
女神の祝福を受けた身としては、あまり近づきたくない相手だな。何となく、俺の能力が見抜かれてしまいそうな予感がする。
「わたくし達とは関係ないと思うのですが……」
「そうですね。不思議です……迷惑です」
リディア嬢は眉をひそめた。
同感だ。この謁見の間に聖女がいる理由が分からない。だが今は、目の前の問題に集中すべきだろう。
「皇帝陛下のおなりである!」
ざわついていた謁見の間が、一瞬で凍りついたように静まった。
顔を上げることはできないが、複数の足音が壇上に近づいてくるのが分かる。やがて、玉座に腰を下ろす衣擦れの音。
「二人とも立ち上がってよろしい」
ボドワン宰相の声だ。
リディア嬢と俺はゆっくりと立ち上がった。
壇上には四十代の威厳あふれる男性が鎮座していた。
帝国皇帝アルベリヒ三世。ベルガー伯爵が開いたパーティーで一度お目にかかったことがある。あの時は穏やかな印象だったが、玉座に座る姿からは圧倒的な威圧感が放たれている。
「リディア、ルーク、そしてエレミーよ。久しいな」
皇帝陛下にしては軽い口調だ。
心眼を向ける。
【憂慮:72% 怒り:38% ——だが、それは俺たちに向けられたものではない】
皇帝の怒りは、俺たちではなく別の誰かに向いている。
そしてその視線が一瞬だけ、壇上のジェレミー殿下に向けられたのを、俺は見逃さなかった。
「皇帝陛下におかれましては、ご機嫌麗しゅう存じます」
リディア嬢が完璧なカーテシーを披露した。背筋が伸び、所作の一つひとつに公爵令嬢の気品が宿っている。
内心は恐怖でいっぱいのはずなのに——大したものだ。
「皇帝陛下、ご健勝のこととお慶び申し上げます」
俺の方はといえば、まるで年賀状の挨拶みたいになってしまった。
前世の取引先への定型メールが抜けていないらしい。
「そんなに堅くならなくても良い。何もとって喰おうというわけではないからな」
「はい、畏まりました」
リディア嬢の頑なな態度に、皇帝は苦笑いをしている。
少なくとも、皇帝は俺たちの敵ではなさそうだ。心眼が示す感情からも、それは明らかだった。
エレミー嬢が車椅子の上から挨拶をする。
「皇帝陛下、このような姿で参上したこと、誠に申し訳ございません」
皇帝は一言「構わん」とだけ答えた。
心眼で見たエレミー嬢の感情は変わらない。【演技:92%】——あの数字が、この少女の本質を物語っている。
「エレミー嬢、体の方は大丈夫であるか?」
「宰相閣下、痛みは引いておりますのでご心配にはおよびません」
舌足らずで甲高い声。年齢の割に幼さを感じる話し方だ。
いや——これも演技の一部だろう。心眼がなければ騙されていたかもしれない。
「それではボドワン宰相、あとは頼むぞ」
「お任せ下さい、皇帝陛下」
ボドワン宰相が手で合図すると、ジェレミー殿下が壇上の前面に進み出た。
ジェレミー殿下の心眼データが、僅かに変動する。
【虚勢:68%→74% 恐怖:54%→61%】
怯えが増している。
これから何かを言わなければならないことへの恐怖——いや違う、言わされることへの恐怖だ。
いずれにせよ、これで役者が揃ったということか。
俺はまだこの状況の全体像が掴めていない。だが、心眼のおかげで一つだけ分かったことがある。
この場にいる人間の中で、本当の敵は——ジェレミー殿下ではない。
さて、どんな劇が演じられるのだろう。
鬼が出るか蛇が出るか——
そう思いながら、俺はもう一度だけ、隣に立つリディア嬢の横顔に目を向けた。
白い頬。きつく結ばれた唇。微かに震える睫毛。
恐怖に耐えながら、それでも背筋を伸ばして前を見据えるその姿は——
前世で見たどんなプレゼン資料よりも、心を打つものがあった。
この子は——守る価値がある。
中身三十二歳のおっさんが、十六歳の少女にそんなことを思うのは不謹慎かもしれない。
だが、俺はあの白い光の中で、女神にこう言われたのだ。
——誰かの笑顔のために、その力を使いなさい。
だったら、まずは隣にいるこの子からだ。




