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第九話

「ルルフィ」


 あの騒動が始まって、一番早く私に声をかけてくれたのはエイバルだった。


「僕の家に来るか」


 ものすごく淡泊に言うから、始めどういうリアクションをすればいいのかわからなくて、私はきょとんとしながら自分の髪を撫でていた。


「今朝、寮にオウムが来ただろ。熱病の感染者が出たって」


 確かにあの日の朝早く、一部屋ずつ録音オウムさんが感染症について通告しに来た。


「大事を取って早めにここを離れるべきだ。僕の家族のことだとかは気にするな。みんな歓迎してくれるさ」

「……そのときって、私はなんて紹介されることになるの?」


 私は細いチェーンに通して首に下げているフープピアス——もともとこのチェーンについていた少女趣味なペンダントは取り外した——を服の上から確かめて言った。その仕草を見たエイバルは形容しがたい唸り声をあげ、「それを見て考えてみたらどうだ」と私に言い返す。


 目の前でピアスをじっくりと眺めて、一日くらいわからないふりをしてみたら彼は最終的にどうなるんだろう。タチの悪いいたずらをしてみてもよかったけれど、私は胸を張って答えを言った。


「フィアンセでしょう、わかったわ!」

「あーもうわかったそうやって手紙出すからここ出れる用意しとけよ、あとその間もちゃんと感染には気をつけろよ、次の授業選択だからまた昼にな‼」


 キャンキャン吠えながら逃げていくチワワのような感じで、エイバルは私の声をかき消すように大きな声でいろいろ言いながらだんだん距離を取り、予鈴が鳴るのを合図にそのまま去っていった。

 私はとても満足したので、にまにましながら廊下を彼と反対方向に行った。


 それから数日の間に、私は色んな人に声をかけられた。こんなときだから、みんな用は同じだ。私は服の中の輪っかに触れながら、それをひとつずつ断っていた。


 続々と学校の中でも感染者が出始める。学校を出て家に戻る生徒も日ごとに増えていった。


「ルルフィ」


 その日、振り返ったところに大きなもふもふの耳があるのに、私は慌てて〝とても嫌な気持ちです〟という表情を引っ込めた。


「セドリック?」


 先生からなにか伝言だろうか。それとも、忘れ物でもしたっけ? 私が立ち止まって相手に向き直ると、セドリックは私のすぐ近くまで来て同じように立ち止まった。首から顎までをまっすぐにして背の高い彼を見上げるにはなんとも嫌な気配を感じて、私は一歩下がる。


「どうしたの?」

「ううん……」


 セドリックは張り付けたような笑みのまま首を振った。


「うちもそろそろ家に避難することにしたんだ」


 私は、そう、と短く答えた。


「多分あいつが……もう君に同じようなことを言っただろうけどさ。だけど、もし、なにか嫌なことがあったら、うちはどうせ大家族だし、女の子一人くらい構わないよ」


 狼らしい瞳孔の丸く開いた目を隠すように、セドリックは目を細めて微笑む。


「俺のところにいつでもおいで」

「私、あなたのところにだけは行かないわよ」


 私はにっこりと笑って素早くそう言い返した。


「大切な人を大切にしない人って大嫌いなの」


 セドリックは笑みをくしゃりと歪めて、不意に窓の外に目をやった。それまでぴんと立っていた耳がわずかに伏せられる代わりに、じっと垂れ下がっていたしっぽは小さく揺れ始める。今や希少になった琥珀色の目はやっといつもの穏やかさを取り戻していた。


「ん」


 彼がきゅっと鼻の上にしわを寄せると、耳はまたまっすぐに伸びた。


「俺はダメだね。ダメな旦那さんだ」

「私、そろそろ行かなきゃ」


 私は彼の事情に努めて触れないようにして、そういうふうに話を切り上げた。「ああ、変なこと言ってごめんね、ルルフィ」とセドリックは私に視線だけ寄越して申し訳なさそうに微笑んだ。


「それじゃあね。体調には気をつけて!」

「ええ、あなたたちもね!」


 私はやっぱり相手と反対のほうへ向かい、それでいて、建物の大きな影が太陽の光を遮る暗い廊下を進んだ。なんとなく頭が痛かった。誰かの申し出を断るときはいつもそうだ。決まって気分が落ち込んで、一人で眠り込みたくなる。

 私は部屋に戻ってため息をつきながら横になった。シャツの中からエイバルのピアスを引っ張り出してぼんやりと眺めていると、それだけで少し体が楽になる気がした。


 私は何時間も飽きずにそうして、同室の子がみんな夕食に行っている間に発熱して朦朧としていたところを寮母さんに見つかった。


 運のいいことに、ちょうど私はトランクケースひとつに自分の荷物をまとめておいていたし、その中には別れてしまった義理の家族からのプレゼントも、子どものときからつけている日記帳も、箱と綿の中に詰めたドライフラワーも、私の全てが小さく収まっていた。

 私は病院の大部屋にいても、熱でなにもわからなくなっても、それと彼がくれたピアスさえあればルルフィでいられる気がした。


 私を証明するのは肉体でもなく、戸籍でもなく、私が人間と関わって変化を経た痕跡だ。私の中の、私にしか価値のわからないもの、心、それはトランクケースとフープピアスの形だったらしい。


〈お前は心がトランクとピアスにあると思うらしいが、落ち着け。心はふたつ存在しない〉


 エイバルの手紙にはそういうことが書いてあって、私はぼんやりした頭を傾げてしばらく考えた。そういえばこの間看護師さんが手紙を持ってきてくれて、私は彼女が読み上げてくれるのを聞いてうつらうつらしながら赤裸々すぎる返事を返す夢を見ていた気がする。夢だと思っていたのに。


 私はこの手紙にも返信を書こうと思ったけれど、それはかなり難しいことだった。私の体には水疱が現れ、全身を蝕むその気の狂いそうな熱さに昼夜悶え苦しむことが私に唯一許された行為だった。


 眠り、苦しみ、眠り、カーテンの閉まったベッドで目覚める。


 私はしばらく、いつものオウムさんの声が聞こえないなぁと考えていた。


 ふと、これまでの恐ろしい出来事は全て夢ではなかったのかと自分の顔に触れてみるけれど、そこには昨日と同じように熱を持った水疱がびっしりと並んでいた。カーテンの外からは誰かが苦しむ声が聞こえているのに、なんてバカなことを考えたのだろうと思った。不思議な直感があった。とても合理的ではない、説明のつかない肉体的な直感。


 ああ、私は今日のうちに死ぬのだろう。


 患者のベッドの隣にはサイドテーブルがあって、私は体に傷をつけるから外すようになったピアスを下げたネックレスと一番新しい日記帳をそこに置いていた。それが何冊目だったかは忘れてしまったけれど、毎年一年分の手帳を買うので、少なくともトランクケースの中には六冊あった。私の心の中のうち、記憶を担うものだ。


 懐かしいような気持ちになって、私はそれを持ち上げて開いた。日記帳の真ん中あたりから突然頻繁に登場するようになる、エイバルという名前。私はそれをただれた指先でなぞりながら、くすくす笑ったり、じっと微笑んだり、泣きそうになったりした。


 それから日記帳を後ろから開いて、真っ白のページに鉛筆を走らせる。やっと手紙を書くことができて、私はなにもかもに満足した気持ちだった。

 私が触れたこれは燃やされてしまうのだろうか? 彼に届くことなく? もし届けられたとして、それはきっと私の文章を心優しい誰かが書き写してくれた別のものだろう。


 私のトランクケースが誰かのそれと一緒くたに燃やされて灰になってしまったあとでも、私の心はその手紙に宿ることができるだろうか? その文字列は私なのだろうか?


 絶対にそうだ。そうじゃないと嫌だ。


 少しして私はなんとか書き終わった手紙を手帳から破り取ると、それをサイドテーブルの上に畳んで置いて、重しに鉛筆を乗せた。そのあと、私は自分の包帯だらけの腕に繋がった点滴の管をそっと引き抜き、指輪の下がったネックレスを首にかけてベッドから立ち上がる。


 今日はなんだか体が軽くて、立ち上がってもぐったりと血の気の引いていく感じはしなかった。静かに、よろよろとなにげない感じで、通りがかる白い服の人には会釈をしながら病院の隅まで行って、扉を体で押し開けて外に出た。重い防火扉には水疱の潰れたなんとも呼べない液体がべったりと残った。あまり痛みは感じなかった。


 目の前には晴れた空と静かな森があった。




〈これを見た人は、どうかエイバル・ハンターくんへこれを届けてください


 待ち合わせをしましょう、エイバル! 私はずっと世界のどこかであなたのことを待ってるから、きっと見つけてね。しばらく会えないかもしれないけど大丈夫。私って、実はほんの少し里帰りするだけだから。私たちってキスもしたことないけど……エルフって人間とは繫殖方法が違うのよ、あなたでも知らなかったでしょう? だから、(もう! 書かなくてもわかるわよね? 察して‼)

 とにかく、私のこと忘れないでね。約束よ。あなたに出会えてよかった。私はね、あなたといると、これから私は一人ぼっちだった時間から一秒一秒遠ざかって、きっと寂しい気持ちを思い出せないくらい幸せになるんだわって、ずっと信じられたのよ。

 ほんの少しだけさようなら、私のエイバル。私の大好きな人。

 いつ  そ  に  るわ

 エルフのいるところでずっと待ってるわ!〉



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