第七話
日曜日はエイバルが昆虫採集に飛び出していくので、私は用がなければ一日図書館で勉強をするようにしていた。二人でいるとずっとお喋りしてしまうので、勉学に手がつかなくなっていたのだ。
今日も同じように、朝から教科書やノートをカバンに詰め込んで図書館に押しかけていた。
大きな雷の音がして、私は椅子に座ったまま飛び上がった。気がつくと窓の外は夜のように真っ暗になっており、窓をびりびりと揺らすような雷雨が訪れていた。柱にかかっている時計は二時を指している。
図書館には私のほかにも嵐の中に取り残されてしまった人たちが数人いた。私は図書館の中央のスペースに座っていたので、彼らが少し動揺した様子で言葉を交わしているのが見えた。どうやら雷で停電するかもしれないらしい。
職員さんたちが動物たちを引き連れて慌ただしくしているのから目を離して、私は授業の復習を再開した。停電はしても、まさか屋根がなくなったりはしないだろう。
そうしたら今度はきゃあと図書館の入り口のほうから悲鳴が聞こえるので、私は慌てて振り返った。普段は閉められている大扉の中の小さな扉が開いていて、扉を押さえる職員が一人の男の子を中に引っ張り込む。ちょうど空調が切れたときのためにカウンターに集められていた毛布を二、三人からばさばさとかぶせられつつ、男の子は冷静にぐっしょりと濡れた上着を脱いでいた。
不意にきょろきょろし始めると、私を見つけて笑顔を浮かべる。
「エイバル!」
私はぎょっとして椅子から立ち上がり、急いで彼のいる玄関口まで駆け寄ろうとした。途中で毛布だけでなくハンカチもあったほうがいいかと思って取りに戻り、二枚持って改めて走る。
「走らなくていいって。なぁ、ルルフィ?」
そう言われたけど、走った。
「あなた、やっぱり外にいたの? どうして校舎に戻らなかったのよ……」
「こっちのほうが近かったんだモン」
恋人に会ってさっそくだが、私は雫の伝う彼の顔にハンカチを投げつけた。
「近くないわ! バカ、雷が降ってたのよ!」
彼は裏山がどういう意味だと思っているのだろう。校舎の裏にあるから裏山なのだ。私はおかげさまで相手と同じかそれ以上に肩で息をしていた。エイバルが顔からハンカチを引っぺがしながら満足そうに笑う。
「そう。死ぬかと思ったから会いに来た」
「ふんっ、風邪引いちゃっても知らないんだから」
私は自分の髪を撫でながら、負けないっという気持ちになってつんと言い返した。
職員が電気ヒーターを持ってきてくれたので、エイバルは玄関口に立ったまましばらくそれに当たっていた。たまに後ろを向いたりして体の両面をぬくめるのが火の上のステーキみたいで見ているとだんだん愛おしくなってくる。
私は玄関に一番近い席に移動して、そこで勉強の続きをしていた。相変わらず天気はひどい有様だったけれど、ほかに新しく逃げ込んでくる人はいなかったし、みんなそろそろ落ち着いた様子で仕事や読書に戻り始めていた。
ノートに向かっていると手元が陰るのに、私はエイバルがすぐそばまで来たことに気づいた。まだ肩を毛布でくるんでいるが、髪やズボンも少しは乾いたようだ。日曜日は制服を着なくてもいいから、彼が丈夫そうなやや厚めのカーキのシャツを着ているのが見慣れない。
「悪い」
邪魔をしたと思ったのか、頭を引っ込めて私の周りに置いてある本を見る。
「心理学?」
「そう、授業でちょっと気になるところがあって。課題でもなんでもないんだけどね」
「へぇ」
「エイバルはどう思う? 私たちの心や思考とはなんなのか、私たちの体はなぜ私たちに思考をさせるのか?」
私がなんの気なしに言うと、彼は感情を全部内側に引っ込めて脳のリソースを考えることに割り振ったような、怖い顔をした。しまった、火をつけてしまった、という思いと、なるほど、だからこの人はいつも怖い顔をしていたのか、という思いが私の中に同時に立ち上がる。
私は次に彼が口を開くまで待ってみようと思って、じっと待った。
「……ちょっと待て」
エイバルはそう言うと、丸めた人差し指を口に咥えて指笛を鳴らした。少しすると、一匹のカラスさんが素早く滑空してきて、彼の腕に着地する。その子はずいぶん彼に慣れているようで、頭を撫でる手にすり寄っていた。
「待って、なにそれ。かっこいい~。私もやりたい」
「またあとでな」
「すごーい」
私が目を輝かせて感嘆しているうちに、彼は特別な相棒になにか頼んで書架のほうへ放した。私の正面の席につきながら、紙とペンが欲しいと言うので、私の筆記用具とルーズリーフを好きに使っていいと答えた。
「たとえば。神経科学や脳科学の分野で、生物は知覚や思考を、脳で行っているとある程度検証されてる。実際にどういうことが起きているかっていうと……」
「くわーっ」「ちぃーっ」
そこに本を……持ったネズミちゃんを掴んだカラスさんがやってきて、顔を上げたエイバルがさっと持ち上げた手の中に一冊の重たげな本を落とした。彼はそれを開き、「……そう、脳の中では電気信号と神経伝達物質が……」と考え考えゆっくりと話す。私はなんだか無性に嬉しくて、彼の話してくれる神経科学的な心のメカニズムをメモしていた。
「念力キツネによる水晶占いを可能にしているのも、原理的には念力キツネの持つテレパシー能力が脳の情報伝達の様子を読み取っているのではないかという仮説があるんだ」
「それについては面白い本を読んだことがあるわ!」
私は思わず声を高くして言った。
「念力キツネのテレパシーは私たちの〝無意識〟の領域を認識することができるのではっていう研究をしている人がいて……ちょっと、本を取りに行っていい?」
「ああ」
私が席を立つと、エイバルの相棒のカラスさんがついてきてくれた。私は彼らの力を借りながら『ドクター・ローレンスの念力キツネと学ぶ思考と心のありか』を持って机に戻る。
エイバルが私の話を面白がってくれると嬉しかったし、きっと相手だってそうだったから、私は彼の話にじっと耳を傾けた。お互い参考の本を探しに席を立ったり、頭の中で文章を組み立てる時間が挟まる、リズムは悪いけど密度のある会話を何時間も続けた。
だけど実のところ私たちが交わしていた議論は学生ができることの範疇だったし、車輪の再発明みたいなものだった。
だんだん『心』はまるで私たちが紙の上に書き出せるものではないと気づき始めて、沈黙が長く続いたとき、私は思わず「仮に、今日この場での『心』を結論づけてみる?」と提案した。彼はしばらく机に目を落としたまま考え込んでいた。
「お前はなにについて話したい?」
「……私……」
できる限りこの議論が長く続いてほしかった。
「……私、自由にもっといろんな視点から考えてみたい」
エイバルはこくりと小さく頷いた。雨の音、彼がページをめくる音、ぬるい空調と大切にしている白いドレスのどれもが私を無防備な気持ちにさせた。
「……。僕の一番得意な分野でいいなら、たとえば、エルフや物知りカラス、念力キツネなどの高知能な生物にあるのは人間と同じ心なのか? と思う」
「ふむ……」
私は少し考えてから答えた。
「エルフはともかくとして、ほかの動物も思考のメカニズムは同じだものね」
「違いがあるとするなら……」
「……羞恥心?」
エイバルがちらりと私に視線を寄越す。
「言葉を解す動物は多いけど、まだ服を着たがる動物って人間くらいなんじゃないかしら?」
「知恵の実だな」
私は旧人類の文化の推移について調べたいと思った。カラスさんを呼びよせると、エイバルも同じタイミングで相棒を呼ぶ。彼は動物の脳について情報収集するらしい。参考資料を見繕って机に戻ると、彼はすでに席についていて、眉を寄せながら俯いて本を読んでいた。
私はその正面の席に座って、しばらくそのしかめっ面を見つめた。それからおずおずと本を開いてみるけれど、目は文章をもう追いきれずにいた。
「……ルルフィ、いいか?」
先に考えがまとまったらしいエイバルに、私は慌てて顔を上げた。
とはいえ、彼がヒトと物知りカラスや念力キツネの脳の違いについて話している間、私は半分くらい彼が好きだなぁということを考えていたし、彼が自分の仮説と知識が矛盾していることに気がついて舌打ちしたあと、今度は倍の時間考え込んでいた間、私は今私が身を乗り出してキスをしてみたら、エイバルは驚くだろうかと思案していた。
驚くだろう。どれくらい驚くだろうか? きっと幸せすぎて死んじゃうくらい驚くだろう。私はそうだ。
いつまでもこうやって話していたかった。彼が私のために自分の持っている知識を全部ひっくり返して考えこんでいる隣に座って、その表情を見つめて、あとの人生をずっと過ごせたらどれだけ幸せだろう。
もしかしたら今後、素敵なだけなら彼より素敵な人が現れるかもしれない。一瞬だけなら彼以上に幸せにしてくれるが現れるかもしれない。だけど、私は人生の退屈な時間を彼とこんなふうにして過ごすのが一番楽しかった。
どうかこのたった十七歳の男の子が、たった十七歳の女の子に永遠の愛を信じさせてくれないものだろうか?
「ああ、やっと雨が弱くなってきた」
誰かの声にはっとして、私は慌ててついさっきまで本を読んでいましたよというそぶりをした。エイバルも顔を上げて、話し声のするほうに目をやる。
「今のうちに、みんな帰りなさい。はあ……もうこんな時間だ」
いつのまにか、時計の針は七時を指していた。




