第五話
ばふん、と積もった雪に仰向けに飛び込んで、私は灰色と青の入り混じる空を見上げてぷはぁと息をついた。どうせなんにも集中できないので、普段やらないことをしてみたかった。そう、雪遊びとか。
私はわさわさと両手両足を動かして、そのあと立ち上がって見てみた。スノーエンジェルは意外と難しいという体験を得る。
背中を真っ白にしつつ天使のシルエットが綺麗になるまでそれを繰り返していると、「なにしてるの?」と少し離れたところから声をかけられた。中庭で一人はしゃいでいる私を微笑ましそうに見ているのは、生物学の教師だ。
「風邪引くよぅ、ミス・エリタ」
一番新しい苗字で呼ばれる。私はわさわさ大きく両手足を動かしながら彼女に答えた。
「いいんです、バートン先生、雪で遊んでみたくって!」
「一人で倒れたりしないでくれよ、今は人通りが少ないからね」
「……」
私は大きく口を開いて言った。
「大丈夫です、エイバルと待ち合わせ中なので!」
「彼、今日は出かけているんじゃなかったっけ?」
「ええ、そうなんです」
私は彼女の発言に少し違和感を覚えたけれど、「把握しているなら、まぁいいか」なんて言って彼女が去っていくのをそのまま見送った。
体を起こしてみるとやっと綺麗なスノーエンジェルになったので、次は近くの木の根元に座り込んで地面の上に小さい雪だるまを作り始める。枝や葉を取ってきて、綺麗に飾り付けもした。
そのときだ。しばらく誰も通ることのなかった外廊下のほうから、予想外の声が聞こえた。
「寒ぃ……」
私は唖然として声の主を振り返った。だって、エイバルもみんなと同じように家に帰っているものだと思っていたのだ。彼はいつものようにしかめっ面で、ぐちゃっと着崩した制服で、首を竦めながらこちらへ来る。
嘘が本当になっちゃった。
「お前、風邪引くのはいいのかよ?」
私はただ、みっつ並べた小さな雪だるまの前でぼんやりとしゃがみこんだまま彼を見上げていた。エイバルは近くの雪を払うとそこに座って、寒そうに体を縮める。
「それだけ着込んでたら大丈夫か」
彼が白い息を吐く。視界の端に私の吐いた白い靄が見えた。
「……あなたは家に帰らなかったの?」
「ああ、僕はいつも帰らない。毎週日曜は裏山の罠を見に行くようにしてるんだ」
学校の敷地の中には、時折授業で入るような森があった。私はなんだかとても納得してしまってため息をついた。
彼はずっと、そんなふうに過ごしてきたのだろう。もっと小さなエイバルが森を散策しているところと、もっと年老いたエイバルが森を散策しているところが目に浮かぶようだ。
「罠って?」
「昆虫の」
ひゅうと風が吹きつけるのに目を細めて耐える。
「見るのは昆虫だけじゃないけどな。罠にかかった虫の種類とかから裏山の生態系を毎週観察するんだ。何種かは持ち帰る。たとえば、エルフは……脊椎動物以外にも擬態するのか? って解剖したり」
「解剖……」
私はまだ少しぼうっとしたままオウム返しにした。
「虫さんがかわいそうじゃないかしら?」
エイバルは答えにくそうに眉間のしわを深くした。
「無脊椎生物への倫理観、については……」と言ったあと黙り込んで考え始めるから、私は彼を眺めている間に、その耳にいつもぎらめいているピアスが全部ないことに気づいた。その代わり寒さで真っ赤になって痛そうなので、私は慌てて立ち上がり、痺れる足に身悶えした。
「ええと」
思考にのめり込むエイバルの顔の前で手を振ってアピールする。
「ねぇ、ここじゃ寒いわ。どこか移動する?」
裏山は校舎から遠いし、そこを散策していたなら彼は私より長く外にいたはずだ。
エイバルはやっと顔を上げて、「解剖したことは全部研究に役立っているし、最後はカメレオンの餌にしてるから、僕は命を無駄にはしていないと思うんだ」とひとつ前の話題に答えた。
「あなた、カメレオン飼ってるの?」
「いや、バートン先生の透視カメレオン」
私は生物学の教室にいる、大きな飼育ケースの中のカメレオンをやっと思い出した。よっぽど暖かいところの生き物らしくって、よくケースのガラスが結露でびしょびしょになっているせいでこちらからはほとんど姿が見えない、透視カメレオンのクレーちゃん。
私はだんだん可笑しくなってきて、最後には吹き出してしまった。
「ごめんね、気にしないで。私、かわい子ぶっただけなの……答えてくれてありがとう」
つい、相手の融通のなさにつられて私も暴露した。
「あなたって不器用だけど、真摯な人よね」
エイバルはしばらく返事をしないで、私のことを見つめていた。冷たい風にさらされて赤くなった肌が余計に鮮やかになったように見えた。またなにか考え込んでいるようにも見えた。
「……ルルフィ」
と思えば、今度は立ち上がる。初めて彼に名前を呼ばれた。
「前、お前を侮辱するようなことを言って、悪かった」
私は、やっぱりなんだかこう、間が悪くてとびきり不器用な人だなぁと思っていた。
「今まで謝らずにいたのも、ごめん」
「私、もう怒ってないわ。いいのよ」
首を横に振って伝えると、エイバルはまだなにか言いたげな顔で黙った。ふっと突然私の頭の上へ手を伸ばす。すぐに引き戻されたその手の中には、ふわふわしたオレンジ色の羽根を持つ蝶々がいた。
「火口蛾だ」
……撫でられるのかと思った。
私の動揺には気づかずに、エイバルは大きな蝶——じゃなくて蛾——に目を落として、「これは成虫の状態で越冬するんだ。火口毛っていう特殊な体毛を持ってて、外敵から逃げるときに熱と光を発して威嚇する」とすらすらそらんじる。
私は手袋をつけた手で自分の髪に触れようとして、その冷たさに上の空になりながらそれを聞いていた。
「見てろ」
彼はすっかりくつろいでいる様子の蛾さんを口元に近づけて、ちょうど焚き火のために火口のわたを燃え上がらせるような仕草で息を吹きかけた。その瞬間、ちかちかと蛾さんを包んでいた透明な毛が赤く光って弾け、私は鼻先にその小さな生き物の発する熱を感じた。
火口蛾さんは飛び立ち、火花を足跡のように空中に残しながら去っていく。
「綺麗だろ?」
「うん」
私はまだその後ろ姿を見つめながら頷いた。
「よかった」
珍しい声音に、私はエイバルを振り返った。その瞬間だけは、私も火口蛾に変身したように寒さを忘れていた。
* * *
「エイバル、ルルフィ~!」
私たちは後ろから一週間ぶりの声が聞こえるのに、後ろを振り向いた。びょーんと容赦なく飛びかかってきたセドリックに、エイバルは「ぐはっ」と悲鳴を上げて倒れるギリギリで相手をおんぶする。
「二人とも元気だった? またお土産あるからさ、よかったらもらってってよ!」
「人の上に乗って話続けようとするなって……」
「おっと、ごめんごめん」
がさごそと手に持つ紙袋を開けようとしていたセドリックは、嬉しそうにしっぽを大きく振りつつ、エイバルの背中から降りた。エイバルは腰をさすりながら口をもごもごさせる。
「はい、空イルカのミルクでできたアイスクリームだよ。ちゃんと美味しかったから安心して!」
セドリックは、よく旅行先の選りすぐりの珍味をお土産に持って帰ってくることで有名だ。彼が美味しいと言っても、残念なことにあんまり信用ならない。私は彼に差し出された小さなカップアイスを受け取った。
「ありがとう」
「空イルカ……」
エイバルはまた別の視点からなにか言いたそうにしていたが、それを呑みこんだ。
「……ありがと」
セドリックはきょとんと目を丸くしていた。
「……うん。えっ、うん……エイバルがお礼……⁇ え……⁇」




