第8話
「今日は早いのね、かざみぃ」
店のドアを開けるなりすぐにそう声をかけられて、風美は驚いた。
声の主、店──《2Bee》のマスターは店の準備に視線を下に向けたままだった。
「常連さんは、足音でなんとなくわかっちゃうのよ。そんなに驚かないで頂戴よ」
驚いたままなかなか店の中に入ろうとしない風美に、マスターは軽く微笑みながら説明を加える。
「いや、凄すぎじゃない、それって?」
ようやっと我を取り戻し、カウンターの一席に座る風美。
店内に客はおらず、がらんとしていた。
時間帯的にいつもなら喫茶店としての閉店時間なので、帰っていったところなのだろう。
「別に他の場所で使える特技でもないし、凄くはないわよ。褒められても何も出さないからね」
常連の足音を聞き分けられたといって、日常生活で役立つシーンは訪れない。
そもそもさっきのように大抵、驚かせてしまうだけだ。
「大体、この店の常連さんって決まったメニューとか無いから、誰かだってわかったからって用意するものも無いしね」
夜のバーとしてのドリンクメニューなら決まってる客もいるが、注文前から用意すると温度などがよろしくなくなるだけだ。
「いやいや、それってマスターが気紛れでメニューをコロコロ変えるからでしょ。私、あのほら、キノコのスパゲティー好きだったんだよ。暫く続けて食べてたかったのにすぐ、アレやめたのよ、って言うじゃん」
キノコの和風パスタは、風美が仕事の休憩時間に食べに来るほどお気に入りのメニューだった。
そのお気に入りがメニューに並ばなくなった理由は、作り飽きた、というすがる隙を持たないソッケナイ一言だった。
「ハイハイ、わかったわかった。かざみぃがそんなに言うなら、キノコの和風パスタ復活させるわよ。大分時間も空いたし、飽きも解消されたでしょう。自分でも嫌んなっちゃうんだけど、私ってとんでもなく飽き性だから、そこのとこ上手くやってかないと、ほら、いーーっ、ってなっちゃうでしょ」
くねくねと身体を揺らすマスター。
苛立ちを表現してるらしいが、全体の動きはダンシングフラワーみたいにノリノリに見える。
「それで、最初に戻るけどさ、今日は早いのね、かざみぃ?」
「ん、ああ、早いんじゃなくて、遅いの。まだ仕事の遅い休憩時間。だから、お酒飲みに来たんじゃなくて、昼御飯頂きに参りました」
「昼御飯、ってもう夕方よぉ。一、二時間もしたら晩御飯の時間じゃない。相変わらず、ハードワークね。ちゃんと食事の時間とかきっちり確保して生活リズム整えないと、年取ってからが大変よ」
自分の頬を叩きつつ指を差すマスターに、はいはい、と風美は気のない返事をする。
母親にも同じ様なことを先日言われたばかりなので、余程未来のお肌事情は恐ろしいものなのだろう。
将来の進路を考えるより、よほど億劫に思えた。
十代、二十代前半で言われるならまだしも、少し肌の管理についてわかりだした三十前で言われるのだからこの先の道は険しいのだろう。
「仕方ないの、なんていうか、そういうのは覚悟の上でやってる仕事だもの。いや、うーん、あんまり考えずに始めたのは始めたのだけど、まぁ、なんとなく両方は掴めないよね、ってわかってやり続けてるっていうか・・・・・・」
言葉につまり腕を組む風美に、マスターはコップに水を入れて差し出す。
「あのね、かざみぃ、前から口酸っぱく言っちゃってるけど、貴女だってちゃんと自分の幸せ考えていいんだからね。それは当然の権利で、何があったってあるのが当たり前なの」
「自分の幸せ、かぁ。難しいよねぇ、幸せって。もう十代女子高生みたいに悩んじゃってるもん。私の幸せって何? って」
水を一口口に含み、ゴクンと喉を鳴らす。
置いたコップの中で氷がぶつかり、カランと音がする。
「アレ、そういえば店内ミュージックかけないの?」
「あのね、かざみぃ。多分、ドアのとこで見てないんでしょうけど、今ね準備中なの。昼の喫茶店の時間は終わって夜のバーに移行するお時間。静かな休憩時間とも言うわね」
あ、と風美は口に手を当てる。
腹が減ってることが優先して、たまたま開いててた、と思い込んでいた。
閉店時間が固定ではない故の勘違い。
だとすれば、この時間は買い出しの時間か、マスターの仮眠休憩の時間だ。
「ごめん、マスター、私──」
「いいのいいの、せっかく来たんだし。ご注文は、お客様?」
慌てる風美をくねくねする手で制止して、マスターはウインクを一つ。
続けてマスターは、壁にかけられた緑のボードに書かれたメニュー表を指差す。
また新しいメニューに書き換えられていて、風美はクスッと吹き出した。




