真夜中の魔物4
そして、いつからか月那の「いらっしゃいませ」が、「お帰りなさい」に変わっていった。
それだけ時緒が通いつめているという事だが、月那との間に引かれた線を一歩踏み込めたみたいで、嬉しくなる。言葉通り、仕事の疲れなんて吹き飛んでしまうのに、その嬉しさが、今はどうしても、もどかしく感じてしまう。
もっと月那に近づきたいし、もっと知りたい。客と店員ではなくて、引かれた線をもっと飛び越えたいと思ってしまった。
*
だから、今日はいつもより少しだけ積極的になってみようと思っていた。その為に、お洒落をして、お気に入りのワンピースにおろしたての靴を合わせて、それでも何でもない振りをして、買い物帰りみたいな雰囲気を出して、時緒はいくつも偶然の理由をこしらえながら、意を決して喫茶店“きこり”に向かったのだ。
だが、その気持ちは、行き場を失ったまま持ち帰ってしまった。大きな傷まで背負って。
月那の隣に、女性の姿があったからだ。小柄で清楚な出で立ち、愛らしく微笑む姿は、同性の自分でも見惚れてしまうほど。月那は店前を掃除していたようで、手にはホウキとチリトリがあった。彼は、彼女が手にしていた本だろうか、それを覗き込み、それから、時緒の前では見せない力の抜けた笑顔を彼女に見せ、二人は砕けた雰囲気で、仲睦まじげに店内に入っていった。
多分、きっと、恋人だ。
そう咄嗟に思い、時緒はどうして今までその可能性に思い至らなかったのか、間の抜けた自分の考えに呆れ、笑ってしまった。
素敵な人だもの、恋人がいない筈がない。でもすぐに、自身を笑った唇が震えてきて、時緒はきゅっとその唇を噛みしめた。
いや、恋人の存在を考えなかったなんて嘘だ、ただ考えないようにしていた、だって時緒は恋をしている、不確かな想像が入り込めない程度には、月那のことばかり考えて。だから、自分に都合のいい夢を見ていたのだ、結局のところ、自分のことしか考えていなかった。
結果、確かな現実を目の当たりにして、ショックで、でも泣くなんてみっともなくて、唇を噛みしめたまま、時緒は店の前を後にした。
とぼとぼと歩いて帰る視界には、おろしたてだというのに、輝きを失った靴が目に入る。月那によく思われたくて、見栄を張った。休日は、ちゃんとお洒落をするし、料理だってちゃんとしてるとアピールしたくて、色々と買い込んだ食材が、今はただ重苦しい。バカみたいだと思っても、今更、簡単に手放すことも投げ捨てることも出来やしない。
ショックで、それも分かっていた事だと自分を宥めればまた泣けてきそうで、ぐるぐると巡る思いが落ち着く事はない。急ぎ足で逃げるように家に帰っても、もやもやとした気持ちが落ち着く事はなくて。だから、この気持ちを追いやるように、懸命に頭を回転させた。
次は何をやるんだっけ、手洗いうがいして、部屋着に着替えて、洗濯物を取り込んで、そうだ、買ってきたものを片付けなくちゃ。それで、まな板を出して、フライパンを出して。
「…そうだ、レシピはアプリで見つけたんだ」
スマホを手にしたが、暗い画面に映る自分と目が合うと、なんだかそれ以上は指が動かなくて、時緒は取り出したじゃがいもをシンクに転がしたまま、その場に座り込んでしまった。
そもそも、料理なんてほとんどしない。したとしても、適当に材料を切って焼いたり煮込んだり。料理をしてます、なんて思われたいなんて、見栄を張らなきゃ良かった。どのみち、どう見られていようが、月那の心に自分が入り込む余地なんてないのだから。
結局、意気込んだ割に、無駄に一日を過ごしてしまった、そんな自分がバカみたいで、笑ってみたらまた泣いてしまいそうだから、今度は笑わないでおいた。
これが、今日、時緒が暗い海の底に追いやられた理由だ。
帰って来た時は夕日も見えなかったのに、いつの間にやら、窓の外は、夕日の名残も見えずに真っ暗だ。
こうなればどうしようもないと、時緒は買い置いていた缶チューハイを冷蔵庫から取り出した。酒を飲んだところで、このもやもやが消える事はないと分かってはいるが、それでも飲まずにはいられない、一時でもこの気持ちを晴らしてくれるなら、いくらでも飲んでやる、そんな気分だった。
時緒は、缶からグラスに注いだ酒をぐびぐびとあおり、中身の残った缶と共にグラスを適当に押しやると、眼鏡を外し、大きな溜め息を伴ってローテーブルに突っ伏した。それから、ぼんやりとテレビに目を向けた。
ただ流しているだけのテレビには、芸人達の賑やかな声と笑い声が飛び交っている。いつもだったら、ただ流れる時間を意味のあるもののようにしてくれるけど、それでもこの時ばかりは、この胸に渦巻く気持ちを紛らわしてくれそうにもなかった。




