真夜中の魔物2
「朝は忙しいですから、慌ててしまいますよね」
穏やかな物言いと柔らかな雰囲気、時緒はついぽっと頬を熱くさせたが、すぐにはっとした。
何をぽけっと見惚れているのか、彼はせっせとばらまいた物を拾ってくれているというのに、自分は手を止めてぼんやりして、恥ずかしい。
そうでなくても赤っ恥なのに。時緒はますます顔を赤くして、目の前に散乱させた物をかき集めた。
「す、すみません、いいですから!すみません、お仕事中なのに、」
「いえ。僕、そこの店で働いてるんです。まだ開店前だから大丈夫ですよ」
それから、月那は困ったように笑って、ぱぱっと埃を手で払いながら、落ちた物を拾うのを手伝ってくれた。彼の足元にはホウキがあり、恐らく店前で掃き掃除をしていたのだろう。
時緒は、突然現れた月那の、その柔らかな気遣いに胸を高鳴らせたが、自分を見下ろせば、間抜けにも派手に鞄の中身を道端にばらまいて、恥ずかしいったらない。
「あの、ありがとうございました!」
そんなとんだ失態がただただ恥ずかしくて、時緒はろくにお礼も言えないまま、逃げるようにその場を立ち去ってしまった。
だが、困ったのは、その日の仕事帰りだ。時緒は決まって、喫茶店“きこり”の前の道を通って帰る。それは、この道が一番明るくて人通りが多いからだ。だが、他に道がない訳ではない、まだ夕焼け空が見える時間帯、回り道をしてもそう暗くはならないだろう。
でも。
時緒は胸の中で呟き、“きこり”の前を通りかかる手前で足を止めた。彼とは、今朝が初対面だ、こちらをまさか認識していないと思うが、それでも、彼を避けるように別の道を選んで帰るのはどうなのだろう。正直、朝の事を思うと恥ずかしい、だが、悪いのは自分で、彼は親切をしてくれただけだ、それに、ちゃんとお礼は言えただろうか、逃げるように立ち去ったのは、どう考えても失礼だったのではないか。もし、改めてお礼を言うなら、何かお詫びを持って行った方が良いだろか、いや、それは押し付けがましいだろうか。
そんな風に、止まらない悩みをぐるぐると巡らせながら一人足踏みをしていれば、不意に「こんばんは」と、声を掛けられた。時緒が苦悩しながらも顔を上げれば、そこには月那がいて、時緒は思わず悲鳴を上げそうになったのを寸でで押し込めた。
「今、帰りですか?」
まさか、店の外で会うとは想像していなかった。彼の手元を見れば、買い出しに行っていたのだろう、買い物袋がある。時緒が戸惑いながら視線を上げれば、こちらを見下ろす柔らかな微笑みと目が合って、その優しい雰囲気に思わず見惚れそうになってしまう。だが、時緒はすぐにはっとして頭を下げた。
「あ、あの、朝はすみませんでした、その、助かりました、ありがとうございました!」
「そんな、いいですよ、大した事してませんから」
その穏やかな声に、時緒がそろそろと顔を上げれば、月那は時緒の妙な態度など何も気にしていない様子で、また緩やかに微笑むものだから、時緒の心音は穏やかにいられず熱を上げるばかりだ。このままでは、また恥ずかしさの上塗りをしかねないと、今度こそ、きちんと頭を下げて帰ろうとしたのだが、そんな時緒を月那が引き止めた。
「あの、もし良かったら、ちょっと休んでいかれませんか?」
続けて「僕のおごりです」なんて言うものだから、時緒はぎょっとして、出しかけた足を引っ込めた。
「そんな、いいですから、ちゃんとお金は払いますから!」
「おごり」という言葉に対して全力で時緒が遠慮すれば、彼はおかしそうに笑って、「じゃあ、おまけしますよ」と、どこか嬉しそうに店への扉を開けた。そこで時緒は気づいた、「ちゃんとお金は払う」なんて、店に寄りますと言っているようなものだ。困ったなと思いつつも、「どうぞ」と手招く彼を拒否出来る筈もなく、時緒は躊躇いつつ店へと向かった。
“きこり”の扉の前に来てみると、それが重厚な扉でもないのに、どうしてか緊張を覚えている自分に気づいた。
小さな喫茶店だ、年季を感じる格子窓がついた壁に、古い商店街にそっと佇むような、どこか懐かしさを覚えるような素朴な店構え、控えめな看板。カランとドアベルが鳴って出て来たのは、上品な装いの老夫婦。月那が「ありがとうございました」と声を掛けると、「また来るよ」とにこやかに去っていく。常連客なのだろうか、洒落た老夫婦の姿に、なんだかより緊張が増したように感じた。
「うちの珈琲は絶品なんですよ」
その柔らかな声に扉を開かれ、時緒は思わず胸がとくとくと走り出すのを感じてしまう。
緊張や躊躇い、そわそわと落ち着かないこの気持ちは、彼が隣に居るからだろうか、そう思えば、それらの気持ちが期待に塗り変わっていくようで、そんな自分に、時緒は自分の事ながら少し呆れてしまう。
別になんでもないこと、町にある喫茶店で、珈琲を飲むだけのこと。ドレスコードも何もいらない、ここは普通の町の喫茶店。月那だって、店員だから、時緒を店へと促しただけだ。
時緒だって分かっている、でも、その扉を開けてくれたのが月那だというだけで、まるで、特別な場所にでもエスコートされている気分になってしまうのは、どうしてだろう。
扉の向こうに、なんだか新しい日々が待ち構えているような気がするのは、期待のしすぎだろうか。何か予感に胸が震えてしまうのは、そう思ってしまうのは、全ては月那が柔らかに微笑むから。
「ちょっと狭いんですけど、お好きな席にどうぞ」
きっと、時緒の躊躇いの理由など、月那は知る由もない。
だから時緒は、落ち着かない心に、淡く灯る予感をそっと押し込め、月那の声に誘われるように、その一歩を踏み出した。




