真夜中の魔物16
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「人間を好きになった所で、終わりは見えてる」
何も話そうとしない月那に、アズはぽつりと呟いた。投げやりではない、その声に心配が滲んでいる事が伝わってくる。
それでも、月那は時緖が好きなのだ。
「分かってるよ」
「分かってないだろ、人間にでもなるつもりか?」
「なれたら良いな」
「…重症だな」
アズはやれやれといった様子で、狸へと姿を変えた。
「まぁ、無茶はすんな。何事も慎重にだぞ!お前がヘマやらかしたら、お前のマネージャーをしている俺の可愛い弟までとばっちりを食う羽目になるんだからな!」
そう言って、アズはベランダから去って行った。
口では色々言うが、今こうして様子を見に来たのも、月那を心配しての事だろう。
月那は「分かってる」と呟いてアズを見送ると、ベランダの戸に鍵を掛けた。そして、再びベッドに腰かけると、愛おしむように時緖の頬にそっと触れる。
「…君は、僕に幻滅するかな…」
もし正体が知れたら、彼女は傷つくだろうか、怒るだろうか、気味悪がるだろうか。最悪の結末を幾つ思い浮かべても、それでも彼女の前から去る決断を下せない。
知ってしまった、誰かをこんなにも愛しく思う事。時緖と過ごす時間が好きだ、胸が波打つ音すら心地よくて、手放したくない。
身勝手な思いに、ごめんね、と月那は胸の内で呟いた。
月那は時緖の頭を優しく撫でると、そっと額にキスを送る。月那の体はみるみる内に変化を遂げ、彼女の傍らには、丸くなって眠る灰色の猫の姿が残り、夜を纏ってやって来た“真夜中の魔物”は、夢の果てへと消えていった。
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翌朝、月那が目を覚ますと、目の前に時緖の姿があった。昨夜、カーテンをきちんと閉めるのを忘れていたようだ、朝日がきらきらと部屋に注ぎ込み、時緒の横顔を優しく照らしている。月那は、その温かな煌めきに包まれた彼女を見て、どきりと胸を跳ねさせ、呼吸も忘れてその姿に見惚れてしまった。
そんな月那の思いも知らず、目を覚ました時緒は柔らかに微笑むと、灰色の頭を撫でてくれる。
「…おはよ。何だか不思議な夢を見た気がする」
昨夜の事を夢だと思っているのだろう、月那はようやく我に返ると、ほっとしたような残念なような複雑な思いになったが、それを誤魔化すように時緖の手に頭を擦りつけた。今は精一杯、預かり猫のアトムを演じなくては。
時緖は月那の様子に微笑んで、それからぼんやりと、ベランダ越しの空を見つめた。
「とっても、幸せな夢だったな…」
その柔らかな一言に、月那は思わず声を上げそうになって、慌てて前足で顔を洗う振りをした。
「…私、月那さんの事、好きでいても良いのかな」
ぽつりと零したその言葉に、月那は目を瞪った。
「ほ、ほら、もしかしたら、昨日のは私の見間違いかもしれないし、彼女かどうかは…確かめてみないとじゃない?」
時緒は、焦ったように言い募る。昨夜見た、月那とリズの事を言っているのだろう。月那に彼女がいると思い、会いたくないと、嫌いになりたいとまで言っていたのに、思い直してくれたのだろうか。
そう思ったら、嬉しくて、でも途端に苦しいような、もどかしい気持ちが、じわじわと月那の体に広がっていく。そのまま満ちた思いは涙に変わりそうで、月那は誤魔化すように、ナンと鳴いて、時緖の鼻にキスをした。擽ったそうに笑う彼女が愛しくて、嬉しくて、こんなに幸せな事はないと、彼女を抱きしめたい思いを必死に押し殺し、月那は頭を撫でてくれる手に身を委ねた。
「“真夜中の魔物”は、本当にいたのかも。夢の中の月那さんが本物だったら、どうしようね」
照れくさそうに笑って言う時緖に、月那は特別な予感に胸を震わせた。
言えなかった夢の続きを、伝えても良いのだろうか。もし、“真夜中の魔物”という不思議を信じてくれるなら、彼女は、人ではない自分も受け入れてくれるだろうか。
こんな風に側にいる自分を、時緒は許してくれるだろうか。
縋るように思い、月那は、駄目だと頭を振った。軽蔑されてもいい、それは仕方ない事だ、それでも良いからと、猫になって近づいたのは自分だ。でも、それも終わりにする。
もう、思いは溢れてしまった。
月那は勇気を出して、今夜、仕事帰りの時緖に声を掛けようと思う。
真夜中の魔物の夢を、時緖と共に過ごした夜のこと。
時緖に恋をしてること。
その答えは、いつもの喫茶店で。
了




