真夜中の魔物1
魔物は真夜中にやって来る。
夜にその身を溶かし、大きな口を開けて、ぱっくりとその部屋ごと呑み込んでしまうのだ。
魔物は寂しくて寂しくて仕方ないから。
誰かに側にいてほしいから。
***
「私の前にも現れてくれないかな、“真夜中の魔物”…」
時緖はぽつりと呟いて、側にいた猫のアトムに手を伸ばすも、ふいっとそっぽを向かれてしまう。だが、つれなく顔を逸らしながらも、灰色のふわふわした尻尾で手の平を擽っていくものだから、そのツンデレ具合がなんとも愛らしく、沈んでいた気持ちも、ほっと和らぐようだった。
ここは、時緒がひとり暮らすアパートの一室。このアトムという猫は、時緒が親しくしているアパートのお隣さん、アズという女性の飼い猫で、時折、こうして時緒が預かっている。
どんな理由かは詳しく聞いていないので分からないが、アズも親戚から急遽アトムを引き取ったらしく、その為か、アズにはあまり懐いていないという。それでも、時緒には随分懐いてくれているようで、ツンデレの性格故に分かりにくいところもあるが、初対面の時から自ら足にすり寄ってくれたりもして、猫好きの時緒には堪らない瞬間だった。
「ふふ、アトムは可愛いなぁ…」
そう顔を綻ばせる時緒だが、アトムがもたらしてくれる心安らかな時間も束の間、その心はまたもや重暗い海に沈んでしまう。アトムが悪いのではない、どんなに愛らしいアトムの魅力があっても、背中から覆うようにぴたりと貼りついた記憶や感情は、簡単には剥がれてはくれない。飲み込まれた海の中は、いくらもがいてもその重たさが邪魔をして、ずるずると、誰の手にも届かない場所へと時緒を引きずり込んでいくようだ。
時緒には、寂しくて、会いたくて、会いたいのに、会いたくない人がいる。
こんな風に心を苦しめているのも、全ては、彼のせいだ、憧れの、今は少し憎らしくもある、恋しいあの人のせい。
勇気を出したばかりに、現実を無視して夢を見たばかりに起きた、バカな自分のせいだ。
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この日、時緒は休日だというのに何の予定もなく、それならば、ちょっと勇気を出して、いや、頑張って勇気を出して、憧れの彼に会いに行こうと思い立った。
向かうは、近所にある渋い髭のマスターが営む“きこり”という名前の喫茶店、彼はその店に勤める店員で、月那という。
さらりとした灰色の髪、長めの前髪から覗く瞳は穏やかで、ユニフォームなのだろう、白いシャツに黒のズボンというシンプルな出で立ちが様になっている。
月那とは、店員と客としての、何てことない世間話をする程度の関係だが、その会話の中で、定休日以外は、ほぼ店に出ていると聞いた事がある。因みに、店の定休日は水曜日だ。
*
月那と出会ったきっかけは、仕事に向かう途中、店の前を通りかかった時のこと。着信を伝えるスマホを鞄の中から取り出す際に、鞄の中身を道にばらまいた事があった。
その日は、いつもよりも遅く起きてしまい、時緒は身支度もそこそこに、慌てて家を飛び出していた。そんな風に急いでいたせいもあり、出掛けに書類を挟んだファイルを適当に鞄の中へ突っ込んだのがいけなかったのだろう、鞄の中に手を入れて掴んでいたのはスマホだけなのに、その手に引っ掛かったファイルが、財布やイヤホンまで引き連れ、鞄の外に落としてしまった。それを慌てて拾おうとすれば、更に鞄の中から手帳やポーチやらが落下し、そのポーチもチャックをしてなかったせいで、メイク道具も散乱するという始末。しかも、着信を告げたスマホを見れば、大事な要件などではなく、単なるショップからのお知らせだった。とことん、ついてない。それに、朝の通勤時という人通りの多い時間帯、人目が気になって恥ずかしくて顔を上げられない中、とにかく急いで散乱した持ち物をかき集めていれば、「大丈夫ですか?」と、穏やかな低音が耳に届いた。
「す、すみません、」
そう顔を赤くしながら時緒が顔を上げれば、そこにいたのが、月那だった。
さらりとした灰色の髪が朝日に照らされて、きらきらと揺れている。前髪から覗く伏せられた瞳はどこか色っぽく見え、その整った容姿を持った青年に、時緒は、まるでどこかの物語に入り込んでしまったのかと思った。
彼が、異国の人のように思えたからだろうか、流暢な日本語を聞いたばかりだというのに、なんだか自分とは違う世界の人のような気がしてしまう。
そんな風に、思わず見惚れてしまえば、伏せられた瞳がぱっとこちらを見つめ、時緒はどきりと胸を跳ねさせた。




