薄氷の刻
よろしくお願いします。今日から時間軸戻ります
焚き火の赤が、夜の底で細く呼吸していた。火は風を嫌い、灰の奥へ身を沈めては、また表面へと淡い明かりを押し返す。団長はその縁に腰を落とし、火の揺れに合わせて肩の力を抜くと、向かいに座る祭祀長へ低く問うた。
「祭祀長……これから、どうなる?」
白い髭に煤が点る。祭祀長はしばらく火を見つめ、「わからん」と短く吐いた。
「彼を超える色を持つ者は、しばらく現れぬかもしれん」
「残る蛇狩の皆には、負担をかけてしまいますな」
「それでも、彼が我等に残した時間はある。祓いが巡る間に、背負える量も増すやもしれん」
「……そうですね」
言葉はそこで切れた。火のぱちりという小さな裂け目が、会話の余白を埋める。団長は、今日受け取った重みを思い返す。
封刻へ備え、供台から持ち上げた彼の得物――闇を鋳固めたような長剣――は、金属の重さだけではなかった。柄を握る掌に、長い年月と幾度もの決断の重さが、冷たさとして沈んだ。
重みは腕を沈め、同時に呼吸を深くする。背筋がまっすぐに引き戻され、いつのまにか言葉よりも息の方が揃う。
祭祀長が火から視線を外し、静かに続けた。
「我等は、これから彼の歩みを語り、感謝をする。そして、彼が残したものを少しでも前へ歩かせる。彼の代わりにはならん。が、少しでも呪いを受け止めようではないか。……彼もそれを望むのではないか?」
団長は頷いた。
「そうですね。彼の意思を継ぎ、次へ進む橋になれるよう」
遠く、太鼓はまだ伏せられたままだった。夜は澄みすぎて、吐いた息の白さがやけに目に付く。思えば、静けさほど大きな音はない。
二人は焚き火に背を向けて立ち上がり、帷の方角を見据えた。封刻の刻は、もう指の間に漂い始めている。踏み出す足裏に、土の冷えが薄く移った。
儀場は、火を低く保ち、祭具は影を抱いて並んでいた。供台の木目は長く、そこに置かれた器の縁が夜気を柔らかく受け止める。巫女衆の袖が音なく揺れ、蛇狩たちの列は色の順に静まる。
藍の者の瞳は深く、茶の者の呼吸は落ち、列の隅々まで同じ波が伝わっていく。人の並びが輪になり、その輪の中心に、彼は座していた。白は細く、黒は沈む。荒れはない。黒はただ、深さだけを示す色として、彼の輪郭をやわらげている。
団長が進み出る。供台に置かれていた得物を両手で捧げ持ち、刃を伏せ、柄を北に向ける。手のひらに吸い付くような重さ。息をひとつ落とすと、重みは腕の内側に沈んで安定する。
周囲の視線が集まり、その視線の重さにも温度があることを、団長は初めて知る。彼の視線が一度だけこちら
――自分の持つ得物へ引き寄せられた。
視線は短く、しかし明確だった。覚悟と、託すという意志が一本に束ねられ、刃よりも鋭い線となって心に触れる。
列の端には、新人AとBの顔があった。固く結ばれた唇、濡れた目。だが揺れていない。藍の先輩も、兄も、誰もが同じ重さでこちらを見ている。色は違っても、目にあるものは同じだ。受け取るという形と、返すという形。その二つだけが、場の隅から隅へと反響する。
団長はわずかに顎を引いた。祭祀長が祝詞を短く重ね、神楽が静かに巡り始める。歌は高からず低からず、呼吸の深さに合わせて敷かれる。太鼓の皮はまだ鳴らない。
足裏に、土の冷たさがすっと通り、踵の奥に重さが沈む。儀は音で進むのではなく、沈黙の層を一枚ずつはがして進むのだと、場が教えてくる。
「封刻の儀を行う」
祭祀長の声が置かれ、巫女衆の歌が低く支える。団長は息を落とし、両腕を確かに伸ばす。刃先は揺れず、柄の巻きは汗を拒まず、掌は重みを受け止めて微かに鳴る。
火は小さく、煙は地を這う。輪の外へ流れないよう、風は今夜だけは遠慮深い。神楽の音がすっと薄くなり、場の気配が一度だけ深く吸い込まれる。
刹那、すべてが静止した。刃の位置、掌の温度、彼の頷き。巫女衆の袖の端、太鼓の縁の光、供台の角に溜まった目に見えない冷気。ゆっくりと、振り下ろす寸前の世界が、一枚の薄い氷のように張りつめる。
割れれば音が出る。割らなければ、呼吸が止まる。どちらにせよ、この薄氷の上で足を滑らせてはならない
――団長は、両腕のわずかな震えを、腹の底へ押し返した。
彼は動かない。動かないことが、場の支えになると知っているからだ。沈んだ黒の中に、短い光の筋が一本だけ走る。誰にも見えないほど細く、しかし確かにそこにある。託すという意志が、その筋に重ねられているのがわかる。
団長は呼吸をもう一段落とし、刃の重さをその筋へ滑らせるように意識した。受け渡しは音ではなく、重さで行う。重さは手から手へ、息から息へ、輪の中心から外周へと移っていく。
列の端で、新人たちの喉が同時に鳴った。恐怖ではない。息を置く音だ。藍の先輩が目だけで頷き、兄がわずかに足幅を広げる。祭祀長は視線で太鼓の縁を示し、巫女衆は歌の高さを一段落とす。
場は音のない合図で満ち、誰もがその合図を取り違えない。長く続けてきた型が、こうして言葉の代わりを務める。
団長は刃をほんのわずかに持ち上げ、肩の線を整えた。薄氷が、きしりとも鳴らずにさらに薄くなる。張りつめたままの世界は、しかし崩れない。崩れないように、皆が立っている。
彼の白は細く、黒は沈んで――荒れてはいない。この瞬間のためだけに、すべての時間がここに集められたような、静かな密度があった。
刃は、まだ落ちない。落ちないまま、世界は息を合わせている。団長は一度だけ眼を伏せ、もう一度だけ開く。視界はそのわずかな間に澄み、刃の縁が夜の底で細く呼吸しているのが見えた。
封刻の儀は、いま、この薄氷の上にある。終わらせるためではなく、渡すために。彼が残した重みを、次へ進む橋へと変えるために。
団長は、腕を伸ばした。音はまだない。場はまだ、静かだ。が、その静けさの奥で、輪は確かに息をしている。誰もが、同じ位置に立っている。色はそれぞれのまま、形だけが揃っている。
薄氷は、割れない。割らせない。
――その確信を胸に、団長は、振り下ろす寸前の刃を、なおのこと正確に支えた。