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とぐろ  作者: バトレボ
1章
8/27

分け前の息

よろしくお願いします

 新人の朝は早い。夜がまだ土の匂いを離さないうちに起き、冷たい水で顔を叩き、布を締め、得物の柄に掌を馴染ませる。


 藍色になった者も早い。薄闇の中、型を反復し、吸って落とし、吸って落とす。身に宿る蛇呪は呼吸に似ている。息を置き忘れれば、刃が勝手に動く。


 刃が勝手に動けば、自分か誰かを殺す。だから彼らは、息を止めるように、それでも止め切らぬように、内と外を微かな合図で行き来させる。


 その朝、新人Aと新人Bは稽古場の端で拳を握っていた。彼の封刻の儀を遅らせたい。抗議したい。言葉は喉で硬くなり、吐けば砕けそうだ。意を決して一歩、藍色の先輩の前へ出る。


 言い切る前に、頬へ乾いた一撃が入った。痛みは浅い。先輩の目に溜まった涙の方が深かった。「おまえらの気持ちは皆おなじだ」それだけ言って、先輩は型へ戻る。


 AとBは、泣く代わりに素振りの回数を増やした。悲しさを忘れるために、出来ることを増やすために。火の番、子の見張り、水の運び

――求められる手を、黙って足す。朝の忙しさは、二人を沈めも支えもした。


 二人はこの一団で生まれた。幼い頃から、いまは藍色になった兄に素振りを教わった。兄の背は高く、刃は静かで、叱る声は短い。


 はじめて「彼」を見た日の衝撃は、同じ場所で息を呑んだ記憶として残っている。兄の色より濃い蛇狩を、見たことがなかった。恐怖が先に来た。次に来たのは、目だ。


 彼は幼い二人を見つめ、悲しそうで、しかし嬉しそうな目をした。その目が恐れを少し引かせ、手の中の木刀を急に軽くした。


 最初の蛇呪狩りは、今でも覚えている。彼がついてきてくれた。歩幅の合わせ方、石を踏む位置、風の向きの見方、呪いに触れた指先をすぐ温め直すこと。


 頭を落とせば次には二つになること、胴を貫けば風穴を抱えて戻ること――七つの輪をどう違う角度で潜らせるか。


 刈り型は壁であり、門でもある、と彼は短く言った。Aの膝は震え、Bは柄を握りすぎて手の皮を剝いた。彼は怒らず、戻り方だけを教えた。戻れたから、二度目があった。


 焚き火の端でBが言った。


「なぜ、あの人が。最前線で俺たちを守ってきたのに、どうして俺たちを生かすために亡くならなくちゃいけないんだ」


答えはない。封刻の儀を行うと告げられたときには、彼はすでに幽閉に入り、初七刻を始めていた。死は怖くないのか。なぜなのか。問いは胸の中で丸まり、ほどけず、眠りの底でまた固まる。


初七刻が過ぎれば会える

――そう聞いて、AとBは帷へ向かった。


 足は早いのに、影は遅くついてくる。帷の前で立ち止まり、互いを見ない。聞きたい。だが、聞くことすら怖い。隙間から冷えた香の匂いが流れ、指先が乾く。呼ばれて、中へ入った。


彼は座していた。白は細く、黒は深い。だが荒れてはいない。沈んだ黒が輪郭をやわらげている。Bが口を開き、声が出ない。Aが代わりに訊いた。


「……死ぬことは、怖くないのですか」


「怖いよ」


彼は淡々と答えた。


「怖いから準備をしている。怖いから皆と呼吸を合わせたい。封刻を通して、俺の考えを渡せるだけ渡したい。死をどう見るか

――それを儀の場で全員に渡せたらいいと思ってる」


怒りがAの胸で一度燃え上がった。


「死についての考え方……? 渡す……? 何を言っているんです。生きてほしいって思う人が、ここにいるのに」


掴んだ膝の上で指が音を立てる。


彼はうなずいた。


「その通りだ。生きていてほしい。俺だって本当は生きたい。

――だから、これまでは狩り続けた。

これからは、俺がいなくても回るように、渡す。死に方は生き方の続きだ。俺が最後にどう息を置くかを見てもらえれば、次の息の置き場が少し見えやすくなるかもしれない」


 静かな言葉が、怒りを少しずつ削る。Bは彼の手を見た。柄の跡が浅い河床のように残り、節々にこびりついた黒が骨の形を正直に浮き上がらせる。


 Aは目を落とし、はじめて刃を受け損ねて叩きつけられた日の、背中いっぱいの痛みを思い出した。彼は叱らず、立ち上がらせ、踏み込みを一つだけ直した。立ち上がれたから、今日がある。


 怒りは、ゆっくり別の形に変わる。理解と呼ぶには早い。だが胸の真ん中の固まりが少し崩れ、息が入る余白が広がった。


「おまえたちの兄は藍になった」


彼が言う。


「藍は藍のまま、茶は茶のまま。それぞれの位置で黒の際に立てる。俺の色は、もう深すぎる。深くなりすぎた色は、封じて分けないと、誰かの色を呑む。

――封刻は、分け前を作る儀だ」


Bは唇を噛み、Aはうなずきも首を振りもせず、ただ息を置く。帷の外で砂利がひとつ鳴った。時間はすでに彼らの足もとを流れている。


「わかりました」


Aが言った。今度の声は、思っていたより低い。


「当日、聞きます。あなたが伝えることを、受け止めます」


「俺も」


Bも続けた。


「……怒ったこと、すみません」


「怒ってくれて、助かる」


彼は目だけで笑い、口元は動かさない。


「怒りがなければ祓いは鈍る。怒りの置き場を間違えなければ、刃は正しく重くなる」


 二人は頭を下げて帷を出た。外の空気は思いのほか温かい。太鼓はまだ伏せられ、火は低く、煙は地を這う。藍の先輩が遠くで型を踏み、兄は子らの見張りから戻って水を飲んでいる。誰もがいつもの位置に立ち、いつもより慎重に息を合わせていた。


 その日からAとBは、訓練と手伝いの量をさらに増やした。怒りを鈍らせないため、置き場を間違えないため。小刀の刃を磨き、太鼓の皮を張り直し、供台の埃を払う。


 兄は多くを語らず、二人の握りを一度ずつ直した。藍の先輩は遠くから目だけで頷く。彼の帷の前では、刻ごとに訪いの範囲が広がっていく。声の刻、影の刻、手の刻

――そのすべてに、二人の呼吸は遅れず重なった。


 夜が深くなるほど輪は静まり、静まるほど空気は濃くなる。Aは寝床で目を閉じ、彼の言った「分け前」という言葉を反芻した。


 分けるために封じる。封じるために渡す。渡すために、最後の息を皆で見て、皆で吸う。Bは布団の上で掌を見つめ、自分の手にも薄く柄の跡が刻まれ始めていることに気づく。彼の跡ほど深くはない。けれど、まったく無いわけでもない。


 朝はまた早く来る。水は冷たく、土は固く、火は低い。AとBは同じ時刻に起き、同じように身支度をして、得物を握った。藍の者は藍の型を踏み、茶の者は茶の息を整える。


 輪はひとつでありながら、色はそれぞれ。彼が残そうとしている呼吸の置き場は、きっとその違いの上に乗るのだろう。


 帷の方角を振り返ると、風が細い筋を描いて通り過ぎた。二人は顔を見合わせず、同じ方角へ一礼する。生きてほしいという思いは消えない。だが、その思いを刃に変える術は、少し手に馴染んだ。


 あの人は、もう先を見ている。死を超えた先を。ならば自分たちは、今を確かに踏む。彼の息が落ちるとき、次の息を落とす場所が見えるように。


 太鼓がまだ鳴らない静けさの中で、AとBは歩き出した。輪の端へ、そしていつか輪の中心へ。彼が残す分け前を受けるために、まだ見ぬ誰かへそれを渡すために。風は薄く、空は低い。朝はいつもより長く感じられたが、二人の足取りは、昨日より確かだった。



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