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とぐろ  作者: バトレボ
1章
7/26

影の濃淡

時間軸封刻の儀の前に戻ります。今日もよろしくお願いします

初七刻。


 帷の内は薄く冷え、布に染みた香の名残が舌の奥で乾いた渋みになる。外を巡る見張りの足音は、砂利に小さな輪を刻み、一定の場所で必ずひとつ沈む。その規則は心拍に似ているが、皮膚ではなく土の下で鳴っていた。


「こんな静かなのは、初めてかもしれないな……」


 彼は瞼を閉じ、茶色の頃を思い出す。いつ襲われるとも知れぬ恐怖に追い立てられ、影の濃淡で時を量っていた日々。


 濃ければ遠く、淡ければ近い。黒は静まらないが、荒れもしない。水たまりに点じる雨粒のように、胸の奥で小さな衝動が生まれては消え、輪紋だけを置いていく。


 息を吐くたび、帷の縁が揺れ、その揺れに合わせて闇は人のかたちを忘れ、とぐろを巻いた。指先は無意識に柄の跡をなぞり、冷えた皮膚の下で固くなった腱が微かに軋む。封刻の始まりは、いつだってこうだ。音は少ないのに、内側は騒がしい。


「儀式をして、何を残せる? 呪いへの耐性か。次の蛇呪を狩る強力な得物か……それでは“振るう側”が健在であることが前提だ。振るう側が倒れない芯を持たなければ、終わりなき戦いの中で折れてしまう」


問いを胸の中央に据える。


最後の願い

――何を望み、何を手放し、何を残すのか。


 言葉を選ぶのは刃を選ぶのに似て、誤れば黒に余計な波紋を与える。だが選び直すほどに、むしろ言葉ではなく、掌の荒れや喉を通る息の重さ、足裏に残った土の温度こそが、答えに近いと感じ始める。


「終わりなき戦いを、倒れず一歩一歩歩み続けた俺は、何を握って戦い抜いた?」


 帷の向こうでは火が低く保たれ、太鼓はまだ伏せられたまま。輪は組まれ、彼はその中心に置かれている。


 事の大きさは、音の少なさで測れる

――その単純さに、今さらのように頷いた。


 吐息をひとつ落とすと、香の渋みが肺の奥でやわらぎ、影の濃淡がほんの一段、淡くなる。


 今まで支えてきた一団の顔が、濃淡を交えて浮かんでは散る。


 移った先々で、彼らは土を起こし、水を備え、火を寝かせ、子を寝かせた。誰かが手を裂けば誰かが布を裂いて巻き、誰かが泣けば誰かが太鼓の皮を叩いて息を揃える。


 彼は先に立つ者であり、同時に後ろを振り返る者でもあった。藍の者には藍の型を、茶の者には茶の息を。


 踏み込みの深さ、刃を受ける角度、夜の土の冷たさをどう膝へ逃がすか

――言葉になり切らないものを、体の重さごと渡すことを覚えたのは、彼らがいたからだ。


「昔は、もっとひどかった。あの頃へは戻りたくない

――その一心で蛇呪と戦った。自分には何もなかった。だからこそ、一歩は軽かった」


 最初から恵まれてはいない。村が滅び、何もかも燃え、風が焼けた匂いで重くなったあの日、彼はただがむしゃらに振った。


 やけくそで踏み込み、やけくそで受け、やけくそで生き延びた。よくも残ったものだと、今なら呆れる。だが運ばれた先で立ち続ける足は、自分で作るしかなかった。


 骨の角度、筋の張り、呼吸を落とす位置。そうして作った足が、一団の歩幅とやがて重なる。


「今は背負うものが多すぎる。だから一歩が重い。

――倒れないための芯がいる。周りのため、だけでは、背負うものが増えるばかりだ。自分の中の、確かなる芯が……」


 耳を澄ますと、今も内側から声がする。『熱い』『苦しい』『うらやましい』『どうして』。怨嗟の断片は泡のように弾け、また生まれる。


 言葉の筋は呪いの底でほどけ、音だけが骨へ触れた。彼もまた蛇呪によって場所を追われた。怒りは刃を研ぎ、憎しみは夜を長くする。


 けれど六度の移転のうちに、いくつかの声は別の響きへ変わった。『ありがとう』『寒い』『眠い』。誰の口から出たか確かめようとした瞬間、言葉は音へ戻って消える。


 名を呼ばず、ただ通り過ぎる。通り過ぎるたび、彼の手の内に残るのは刃の重さではなく、その重さを担い続けた時間の手触りだ。


 柄の跡は浅い河床のように掌に残り、そこへ流れ込む冷たい血潮が、今日もまだ温いことを知らせる。彼はゆっくりと息を置き、帷の向こうの低い火音と内側の泡立つ声とを重ね、再び影の濃淡を見定めた。


 ふと、思う。


 蛇呪はどうなのか、と。自分が生まれる前からこの土地に根づき、生きものへとぐろを巻きながら深く重く沈んでいたものの前に、なにがあったのだろう。


 夜の水脈のように、声も名も持たないまま流れていた時間

――祈りと呼ばれる前の手の動き。


 水を導き、土を冷やし、影をつくり、誰かの喉を潤しただけの季節。呪いは後から生まれる。ならば、蛇呪の「前の姿」もまた、確かに息をしていたのではないか。


 もし、あの夜を見ていなかったなら。自分の村が燃え、風が焼けつく匂いを運んでくるのを嗅がなかったなら。自分は蛇呪に恨みを持てただろうか

――問いはぐるりと巡って、同じ場所へ戻る。


 狩らねば狩られる。言い争いはやがて水掛け論に沈む。


 輪の中央に立ったまま、彼は足裏に体重を置き直した。円にいるからこそ、外周へ力を渡せる。祓いとは、止めることではなく、回す向きを少し替えること

――その定義を、もう一度体の奥に刻む。


 六度の移転は、ただの移動ではない。土が固く、火が弱い土地で、彼らは夜を短くし、子の泣き声を笑いへ変えた。


 井戸が濁った場所では、最初の一杯を順番に譲り、喉を湿らせる権利を皆で分けた。蛇呪のうねりが高い場所では、太鼓が日ごとに鳴り、音が恐怖の水位を下げる。髪に藍が差した夜、鏡代わりの水面を覗き、見知らぬ目にわずかに頷いた。


 遠い風が葬黒の匂いを運んだ朝には、舌の根に金属の味が残った。畑が横へ広がり、井戸が澄み、夜が短くなるまでに、何度も何度も同じ型が踏み直される。型は壁であり、門でもある。


 越える者は越え、残る者は残る。封刻の場で自分が手放そうとしているのは、壁の厚みであり、門の蝶番の鳴り方だ。音が変われば開き方も変わる。開き方が変われば、通る者の肩の位置も変わる。


 黒は帷の下辺に触れては戻り、また寄せては退く。息に合わせて揺れるその潮に、考えがとぐろのように巻かれ、ほどけ、また巻かれた。その輪の内側に、細い踏み分け道が見えはじめる。


 呪いであれ、感謝であれ、感情は次へ渡るための糸になる。刃は糸を切るのが早い。だが刃を持つ者ほど、切らずに手渡す感覚を、掌のどこかに温めておかねばならない。


 彼は掌を開き、指の腹に残る硬さを確かめる。浅い河床のような柄の跡に、血が静かに行き来した。


 ここで終わるのだろう

――思いが胸の底へ沈むと、同じ深さから別の声が浮かぶ。


 ここからも続く、と。終わりと続きは、いつも同じ場所に重なって、見え方だけが入れ替わる。帷の外、火の低い音がひとつだけ強くなって、また引いた。


 輪は崩れていない。崩れないうちに、渡す方へ自分の重みを傾ける。それが、今の自分に残された動きだ。彼はゆっくり頷いた。


 封刻の儀は、刻を薄く削り取りながら進む。初七刻の孤は彼を静かに囲い、同時に外の輪と細い糸で結びつける。


 鎮まった呪言の底で、誰かの息が揃う音がする。遠く、しかし確かに。六度の移転で積み上げてきた明かりは、ここで消えない。形を変え、別の背中へ移る。その移り方こそ、この儀の残酷さであり、優しさでもある。


 俺はここで終わるだろう。だが、この生き様は、これから生き続ける者から見たらどう映るのか。彼は首の後ろで息を抜き、胸の内側に空をつくった。


 死に方は、生き方の延長にある。ならば、最後の一歩まで歩き方を整えるのが、筋だ。


 わずかでも未来への希望が、これからの苦難の前で膝をつきそうな誰かを支える杖になるなら

――ここまで狩り抜いた意義は、確かにあったと言える。


 杖は硬ければよいのではない。握りやすい太さ、汗で滑らない皮の手触り、重みの置き場。言葉も型も呼吸も、そんな風に残ればいい。


 藍の者は藍のまま、茶の者は茶のまま。色を変えずに黒の際へ並ぶとき、彼の歩幅が、誰かの膝を折らせずに済ませる助けになるなら、それでいい。


 輪の外で太鼓の皮がわずかに鳴り、すぐに静まる。合図ではない。準備の音だ。


 彼は目を開いた。帷の内側、己の影はもう人の形を保っていない。とけた影が蠢く闇に混じり、輪の外の黒とゆっくり呼応する。


 闇の底に、細い光の糸が一本だけ、ほどけもせず、結ばれもしないまま震えている。名のない糸だ。だが、たどることはできる。彼はそれを見つめ、かすかに笑った。笑みは誰に向けるでもなく、次の者に道を譲るための息の形だった。


「よろしく頼む」


 声は低く、短い。けれど輪はそれを受け取り、土はそれを抱える。足裏へ戻ってくる重みが、ほんの少しだけ軽い。


 太鼓がいつ鳴ってもおかしくない静けさが場を満たし、火は低いまま広がらず、煙だけが地面近くを這う。黒は重い。けれど、運べる。運ぶほどに、どこかで誰かが息を継げる。


 彼はその理を最後まで離さず、影が闇へと完全に溶け切るまで、目を逸らさなかった。輪は崩れない。崩れない輪の内側で、彼の最後の息は土に落ち、土はそれを明日のために温存する。


 空気はひとつ頷き、風は向きを持たないまま帷を撫でて通り過ぎた。



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