封刻の儀
よろしくお願いします
彼は帷の内で目を閉じていた。初七刻。面会は禁止。外を巡る見張りの足音は、砂利の上で円を描き、一定のところでかすかに沈む。
その規則は鼓動に似て、しかし皮膚の上ではなく土の中で鳴っている。黒は静まらず、しかし荒れもしない。
水たまりの表面に雨が一点ずつ落ちて、輪紋だけを残して消える
――そのさざめきに似た脈動が、胸の奥をゆっくり往復している。
吐く息は冷たく、帷の布の匂いは乾いた土と古い香の名残をまぜ、喉の奥に薄い渋みを置いた。
死へのカウントダウンが、音を立てず始まっていた。彼はそれを数字ではなく、影の濃淡で測る。濃ければ遠く、淡ければ近い。
濃淡は呼吸ひとつで揺れ、揺れるたびに輪郭を失いかけた思考が、もう一度形をとり直す。
最後の願い――何を望むのか。
何を手放し、何を残すのか。問いを胸の中央に据え、余計な言葉を追い出す。追い出された言葉は、帷の内側で霧になり、布に触れて消える。
六度の移転が淡い光で点る。
初めての土地、土は石のように固く、種は眠ったまま、火は湿った布のようにすぐ消えた。
二度目、井戸が濁り、子の泣き声が夜の底を長く引き延ばした。
三度目、蛇呪のうねりが高く、太鼓は日ごとに鳴り続け、足裏は絶えず震えた。
四度目、髪に深い藍が差し、鏡代わりの水面を覗くたび、見知らぬ自分にわずかに頷いた。
五度目、遠い風の匂いの中に葬黒の気配を嗅ぎ取り、舌の根が金属の味に変わった。
六度目、畑は横へ広がり、井戸は澄み、夜は短くなった。どの土地も「いっときの明るさ」を手に入れ、その余韻を次の土地へ手渡せる程度に、火は安定した。
六度は道であり、橋だった
――彼はそう呼吸に刻み直す。
内側の呪言は、今は泡だ。『熱い』『苦しい』『うらやましい』『どうして』。泡は静かに弾け、また生まれる。弾ける瞬間だけ、表皮の内側でだれかの顔がかすかに浮かび、すぐに引いていく。
額の裏に残るのは輪郭だけで、名は上がってこない。名は呼ばない。呼ばずに通り過ぎる。通り過ぎながら、胸の底にひとつだけ言葉が沈殿していく。
――渡す。
指でなぞれば崩れるほどの薄い字だが、崩れず残る。
帷の裂け目から夜の息がさし込み、肌に細かな鳥肌が立つ。影は心持ち淡くなり、外の気配が一段近づいた。祭祀長の言葉どおり、七刻のたびに訪問の範囲は広がる。
声の刻、祝詞がひと節だけ流れ、すぐ途切れる。影の刻、帷の縁に人の影が一つ重なり、ためらいの気配を残して離れる。手の刻、布越しに掌の温みが一度だけ伝わる。
誰の手かは見ない。見れば、手放しが利かなくなる。温みは短く、しかし骨まで届き、消えたあとに小さな空洞を残した。
二度目、三度目の七刻が過ぎる。火は低く、声は短い。外の輪は静かに整えられ、内の黒は呼吸に従う。ときおり、砂粒が帷の下で転がる小さな音がした。
執行の刻が現実味を帯び始めたころ、遠方で土が微かに蠢くのを、足の裏が先に知った。祠の方角だと断じるには曖昧だが、黒の気圧が上がり、風が僅かに重くなる。
重みは宣告のように静かで、誰の肩にも均等に落ちた。誰も口にしない。口にしない代わりに、準備の手だけが速くなる。
次の葬黒との戦いは、もう地の底で始まっている
――その合意が、言葉の代わりに輪を締めた。
彼の耳にも、その重さは届いていた。だが動かない。動けるようにするために、動かない。封刻は戦いの拒否ではない。別の仕方で戦う約定だ。息を数えるように約定を反復する。
吸って、落とす。落とした息が腹の底で音もなく割れ、呪言は砂になって沈む。沈むたび、渡すという言葉の縁が濃くなり、紙片の中央へと線が集まっていく。
「……よろしく頼む」
帷の内で自分に向けて言う。武器でも黒でもない。次へ続く者たちへ。六度の明かりを見て泣いた者たちへ。藍から茶へ、茶から藍へ、また黒へ
――変わりながら残る者たちへ。
言葉は息に混じり、息は土へ沈む。沈んだ先で、土はそれを受け取り、冷たさをやわらげる。
外では、太鼓がまだ伏せられている。それでも、誰かの心の中で最初の一打が鳴った気がした。空気の密度がわずかに変わる。帷の下辺に触れていた風が、向きを替える。遠い犬の吠え声にも似た、聞こえない音が、耳の奥でひとかたまりになってほどけた。
「始める」
帷の外で足音が止まり、祭祀長の声が置かれる。団長の応えは短く硬い。
「ああ」
帷が静かに上がる。布の擦れる音が闇の輪郭を描き、彼の視界に火の臍が現れる。彼は立ち上がり、ひとつだけ頷いた。白は細く、黒は深い。だが荒れてはいない。沈んで、渡すための形になっている。
皮膚の内側を流れる寒気は、刃の冷たさに似ているが、刃ではない。もっと鈍い、もっと長く続く冷たさだ。
儀の場の中央、彼の得物は刃を伏せ、柄を北に向けて横たわる。闇を固めたような重さは地に預けられ、刃は人の目から離されている。
柄革に残る手の跡は浅い河床のようで、その浅さに積み重ねた年月の深さが宿っていた。巫女衆が短い祝詞を重ね、蛇狩たちが呼吸を揃える。
藍の者は藍のまま、茶の者は茶のまま。各々の色で、黒の際に立つ。色と色の間には、言葉にできない温度差があり、その差が輪を保っていた。
祭祀長が掌を差し出し、団長が隣に立つ。二人の背に、一団の息が集まり、輪となる。
「封刻の儀を行う」
言葉は少なく、手は確かだ。印が結ばれ、火が一つ落とされる。火は地へ移り、煙は高くは昇らず、低く這って拡がる。歌が低く流れ、地面の下で細い川が流れ出すように、音は輪の足元を撫でて通った。
彼の内で渦を巻いていた呪言は、細かな砂に変わって沈む。『熱い』『苦しい』『うらやましい』『どうして』
――意味の殻が剥がれ、音だけになり、土に吸われる。
土はそれを、明日のために抱く。胸の真ん中に、さきほど据えた問いだけが残る。何を手放し、何を残すのか。彼は答えを言葉にしない。言葉にすれば欠けが生まれる。息で伝え、骨で渡す。
祭祀長の掌が額に触れる。冷たくはない。乾いた温もりが、皮膚よりも先に骨に届く。団長の掌が肩に触れる。重くはない。重いものは彼の内の黒であり、その重みはいま輪に分けられつつある。
帷の外の闇は、いつもと同じ闇だ。だが、その底で新しい音が生まれている。黒を分かち持つ輪が、ごく小さく軋み、広がる音。人の耳には届かないが、背骨はそれを聞き分ける。
「次へ」
祭祀長が言い、団長が重ねる。二つの声は同じ高さで、同じ長さだった。彼は返事のかわりにひと息落とした。
落ちた息が土をわずかに震わせ、遠い方角の黒が微かに応える。呼応は合図ではない。確かめ合うだけの、短い握手のようなものだ。ここで一つが封じられ、次へ一つが渡る。
とぐろは解けず、形を変えて続く。輪の外で芽吹きを待つ畝が、短い音もなく息をしたように見えた。
太鼓が三打、間を置いて鳴る。火がもうひとつ落ちる。巫女衆の歌はさらに低く、蛇狩たちの息はさらに静かに整っていく。彼は目を閉じ、顔を上げ、わずかに笑った。
「よろしく頼む」
笑みは、彼自身に向けたものではない。列の端にいる若い蛇狩へ、太鼓を伏せ持つ巫女衆へ、輪の外で火を守る老人へ、そしてまだ見ぬ次の土地へ。彼の言葉は短く、しかし手紙の末尾の名のように、確かな重みを残した。
団長が彼の得物を、印の中央めがけて振り下ろす――。