息を整える
よろしくお願いします
立ち上がった北の団長は、炎の明かりの縁に半身を置いた。背は高くない。だが腕を組む角度と言葉を選ぶ間の確かさが、ここで暮らす者たちの芯を示していた。
「このままでは輪が持たぬ。祭祀長とも話した。まずは呪いの発生源を調べてほしい」
命じる響きではない。けれど、逃げ道を許さぬ言い方だった。綴は喉の奥がひやりと狭まり、胸の奥に細い緊張が一本通る。求められている
――その手触りを、言葉の端で確かに受け取った。
ゼンが一歩進む。足裏が乾いた土を軽く押し、声は静かに落ちた。
「承知しました」
押しつけの硬さはない。けれど地面に重みが残る返事だった。団長は短くうなずき、輪の外周へ視線をめぐらせる。
「北の者から数名をつける。共に行け」
呼ばれた蛇狩が前へ出る。頬に疲れの影、刃を持つ手には細かな傷と荒れ。それでも瞳の奥は消えていない火で濡れている。名乗りは要らなかった。互いの目が合うたび、明朝の出立の並びと役割が、自然と形を取っていく。前を張る者、合図を見る者、祈りを守る者。息の置きどころが近い者同士が、黙って隣へ立つ。
綴は顔ぶれを見渡し、心の奥に小さな火が灯るのを感じた。恐れはある。黒い気配が皮膚の内側を撫でるたび、背筋はこわばる。それでも隣にゼンがいる。足音のそろい方で、今夜の輪が過度にばらけていないことが分かる。合わせられる
――合わせて進めば崩れない。
そのとき、新人のAが言い淀みながら口を開いた。
「……発生源とは、どんなものなんでしょう。形があるんですか」
火がぱち、と弾け、Aの頬に赤い影が揺れる。問いは幼くない。眠れぬ夜に何度も喉元まで来た疑問の形だ。輪から一歩出た北の蛇狩が答える。年のほどは分からない。低い声に砂利のようなざらつきが混じった。
「見たことはない。ただ、輪の外から影が沁みてくる。黒い水みたいにな。形を問うな。形を与えると飲まれる」
Aは息を止め、Bが無意識に帯を握り直す。言葉は冷たい。けれど虚勢の光はない。綴はその言い方を胸に刻む。見たいと願う目の癖に気をつける。名を急いで与える手つきに気をつける。名前と輪郭は、時にこちらを縛る。
「明日は最初、北北東へ薄く入る」団長が続ける。
「昼の手前に古い祠がある。そこで祈りを一度落とし、息を合わせ直せ。奥へ踏み込むのは、その後だ」
祭祀長が杖の先で土を軽く叩く。乾いた音が二度。巫女衆がうなずき合い、布包みから清めの器を取り出した。水面が焚き火の赤を反射し、わずかに揺れる。
「道々、倒れた枝と割れ目に注意を。地が沈めば、影も沈む。踏み抜いた足をそのまま引かず、斜めに流して片方ずつ浮かせて抜け」
実務の言葉が続く。綴は脳裏で動きを反復した。足の幅、肩の角度、視線の高さ。ゼンが短く目をやり、うなずく。呼吸の調子が合っている合図だ。
火の明るみを離れたところで、風が細く鳴る。遠い木立の間で何かが擦れ合う。呪いの匂いは、鉄と湿りの混じった嗅ぎ慣れた悪い匂いだ。輪の縁で見張る蛇狩の肩がわずかに上がり、すぐ下りた。緊張は連鎖する。けれど、伝え方しだいで強さにもなる。
綴は新人ふたりのそばへ歩み寄り、灯りから半歩外れた暗がりで声を低くする。
「怖いのは普通。怖くないふりは要らない。いまは深く吸って、長く吐く。明日の朝、歩幅が合えばそれでいい」
Aは小さくうなずき、Bは鼻から長く息を抜いた。肩の高さが揃う。揃ったところで、綴は黙る。言葉は少ないほうが残る。
輪の内側では、ゼンと北の蛇狩が地図代わりの木片を前に地形の記憶を照らし合わせている。浅い窪地、獣の道、湿地の縁。語尾を跳ねさせない簡潔なやりとりが続き、やがてふたりは手短に頷き合った。明朝の初動は決まったらしい。
祭祀長が祈りの結びを落とすと、空の冷えがひときわ深まった。焚き火の温度は変わらない。けれど肌の受け取り方だけが変わる。夜は、こうして音もなく強くなる。
輪を囲む火は、次第に低く、丸くなっていった。薪が崩れる音が小さく連なり、金属を布で拭う擦過音が点々と夜気を切る。巫女衆は器を片づけ、最後の清めを手の甲に馴染ませた。香の薄い匂いが一度だけ立ち、すぐ消える。
ゼンは剣身の曇りを息で曇らせ、布で拭うと鞘へ戻す。音は立てない。わずかに首をめぐらせ、綴を見る。
「明日からだな」
短い言葉。余白はあるが、迷いはない。綴は小さくうなずき、北の空を仰いだ。低い雲が星を隠して重く垂れ込める。空全体が一枚の板のように動かず、暗さに厚みがある。けれど、その向こうに行くべき場所がある。行くと決めれば、足は前へ出る。
風が頬を撫で、焚き火の灰がふわりと舞った。灰は熱を失い、肌に触れても痛くない。綴は拳を握り、帯の結び目を一度確かめる。汗で滑らないか、指の腹で感触を測る。手の震えは消えていた。恐れが消えたわけではない。ただ、震えに形を与え過ぎないよう呼吸をゆっくり通す。
隣にゼンがいる。闇の向こうには、今夜名を交わした北の蛇狩たちの背もある。剣の響きはまだ眠っているが、必要なときは起きてくる。合図が重なれば、道のほうが顔を出す。
黒の太鼓が示した北の道。その果てに待つものは分からない。大きいのか、小さいのか。いまは測らなくていい。測りようのないものは、歩きながら耳で確かめる。綴は思いを胸に沈め、まぶたを閉じた。
浅い眠りが輪の内側に降りてくる。寝息は短く、ばらつきがある。それでも間隔は保たれている。見張りの交代を告げる小さな合図が遠くで二度。火を足す音が一度。夜の巡りは静かだ。
眠りは浅い。けれどそれでいい。浅い眠りは、呼ばれればすぐに立てる眠りだ。
夜明け。合図。足音。
その先に、まだ名のない影がある。
綴は胸の奥に小さく灯った火の明かりをたしかめ、音もなく、もう一度だけ息を整えた。




