北営の間(あわい)に息を揃える
よろしくお願いします
辿り着いたのは、北の一団の営みだった。斜面を背にした広場に、布の張りと木枠の影が整然と並ぶ。粗末でも乱れはない。
道具は磨かれ、刃は布で包まれ、祭祀の器には欠けひとつ見当たらない。壊れたものは隅に寄せられ、直す順に束ねられていた。長年の厳しさに晒されてきた手の跡が、隙のない並びにうすく残る。
ここにあるのは緊張ではなく、戦の前だけに漂う用意の気配だった。綴は歩みを緩めず、視線で輪郭をなぞる。火の跡は小さく、灰は薄く均されている。水汲みの線が土に細く引かれ、「手前で汲むな」と無言で告げていた。迷いのない暮らし。呼吸も足さばきも、場に馴染んでいる。
迎えに出たのは、北の団長と祭祀長。二人の目はまず測り、驚きはすぐに隠された。隠しきれぬ緊張の筋だけが額に薄く残る。
ゼンが一礼し、まっすぐに名を告げた。北の団長の瞳がわずかに見開かれる。
「……その名は、我が兄だ」
空気が一度止まった。周りの足音も、焚き火の音も、薄い膜の向こうへ退く。綴は息を短く保ち、胸の律を乱さない。背後でAとBの気配が固まる。
ゼンは目を伏せず、ただ礼を深くした。余計な言葉は要らない。その少なさが、敬意の形になる。祭祀長が小さくうなずき、場の流れを整えるように口を開いた。
「遠い道を、よく来たの。ここは、お前たちの足を休めるにふさわしい」
受け入れの形が、その一言で整う。綴は胸の力をほんの少しだけ抜いた。抜きすぎない。抜ききれば次の一歩が鈍る。
ゼンが姿勢を正し、意図を明快に告げる。
「我々は調査のために北へ来ました。可能であれば、この一団を休憩地として使わせていただきたい。乱れた者の調子を整え、道具を点し、明日に進むために」
団長は腕を組み、しばし思案する。眉間に深い皺が寄り、視線が場の隅から隅へと移る。ここが負う重さと、来訪者の覚悟の重さとを量っている目だ。綴は拳を膝の上で固めた。膝は震えない。震えのかわりに帯の結びが、小さくきしむ。Aは唇を噛み、Bは喉を鳴らす。
祭祀長が団長の横で目を閉じ、一度だけ深く息を落とした。底まで沈めた呼吸はすぐに浮上し、言葉を運ぶ力になる。
「道はお前たちをこちらへ連れてきた。だが、ここも呪いの影に蝕まれておる。休むだけでは、場の調子は濁る。払い、綴じ、つなぐ手が要る」
団長がうなずき、綴へ視線を移す。測る目ではない。問う目だ。
「恐れはあるか」
綴は逃げずに答える。
「あります。けれど、抱えたままに進む技量を学びました」
静かな声。空でない重みが、言葉の芯を支える。ゼンが横でうなずき、短く添える。
「我らは道でその稽古をしてきた。恐れを脇へはねず、体の芯に通す。やるべきことは変わらない」
団長の腕が解ける。場に張っていた糸が、ほんのわずかに緩む。緩めすぎない、締めすぎない。その加減を綴は目で覚えた。ここは、学ぶに足る場だ。
やがて団長は低くうなずいた。
「よかろう。だが、ここも呪いの影に侵されつつある。共に戦う覚悟があるなら、受け入れよう」
言葉はまっすぐだ。条件は多くない。多くない分、重い。
ゼンは迷いを見せない。
「承知しました。我らはそのために来た」
短い返事が場の芯に落ち、揺れずに留まる。祭祀長がうなずいて手のひらを下ろす。巫女衆が太鼓のまわりを整え、刃を置く布を広げる。
Aは戸惑いを押し込み、Bは一度深く息を吸ってから道具を拭いた。動作はまだぎこちないが、乱れてはいない。
綴の胸に、あの一定の刻みがふたたび宿る。恐れは消えない。喉の奥に小さな棘のように残る。だが、それはもう重りではない。支えだ。支えがあるから力が回る。寄せる場所があるから手を離せる。歩いてきた時間がそれを教えた。
夜は早く訪れた。北の空は低く、星は少ない。けれど、遠くで黒に染まった太鼓がわずかに響きを返し、闇の剣が低く応える。見えない道の先を、音が指す。綴は北の空を仰ぎ、次の一歩を心で決めた。その一歩はほどなく体へ降りてくる。
火の輪の外を、細い風が抜ける。冷たさはある。刺すほどではない。Aは指先の震えを手のひらで包み、Bは帯の結びをもう一度確かめた。ゼンは鞘の口にそっと指を添え、奥の呼吸をひとつ深く通す。祭祀長は太鼓の縁に掌を置き、音のない合図を座へ預けた。
団長が最後に言う。
「行きも帰りも、同じ間を保て。沈黙に焦るな。沈黙は敵ではない。濁りを見たら、まず息をそろえ直せ」
それは教えであり、約束でもあった。綴はうなずき、ゼンは目で合図を返す。もう言葉は要らない。場の調子は揃っている。
夜の深さは増す。闇は厚い。だが、足裏の下に土があり、帯の結びには志が通っている。恐れは胸の前に静かに在り、形のまま静まっている。
綴は火から半歩離れ、暗さに目を馴らした。北へ続く黒い道は、まだ見えない。けれど、律動は確かにそちらへ伸びる。その細い道筋に、自分の呼吸を重ねる。短く一つ、長く一つ。




