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とぐろ  作者: バトレボ
三章
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濁りの道

よろしくお願いします

 ゼンと綴は数人を連れ、北へ歩を進めていた。新人のAとBも列にいる。朝は白く、昼は薄灰、夕は早く、夜は長い。息はすぐ冷え、吐けばほどける。足もとは次第に黒い土の湿りを帯び、踏み込むたびに重みがゆっくり沈んだ。


 背には昨夜の焚き火のぬくもりがかすかに残り、胸の奥では一定の鼓動が細く続く。歩くたび、その刻みを確かめる。乱さぬように。一歩を前へ決めるために。


 三日目に入ると、景色は濁り始めた。木々の間に漂う霧が、ただの靄ではないとすぐ分かる。匂いが違った。湿った葉と土に、古い鉄の味が混じり、舌の奥がしびれる。


 髪の毛一本ほどの細さで、誰かが耳に触れてくるような気配。囁きは意味を持たないのに、呼ぶ。ただ呼び寄せる。


 それは唐突に起きた。Aの瞳がわずかに曇り、足どりは雪解けの土のように崩れる。Bは肩の高さを失い、笑っていないのに口角が上がった。綴が駆け寄り、二人の呼吸を手前で合わせるように見て、低く短く告げる。


「気をしっかり持って。足の重みを地面に感じて。三つ数えて、吸って――吐け」


 ゼンが前へ出て、葬黒を振るう。剣の奥から低い響きが「トン」と一つ。空気の皮膜がそこだけ薄くなり、囁きは途切れた。


 さらに「トン」。濁りが引き、Aの肩がふっと落ちる。Bは乾いた息を吐いた。意識が正位置に戻る。


 綴はゼンの背を見る。広くはないが、揺れない。呼吸が乱れない背だ。恐れはまだ胸の前にいる。去らない。けれど、剣の響きが恐れの輪郭をくっきりさせる。形が分かれば抱えられる。


 抱えたままでも足は進む。新人たちの足音は揃いきらないが、崩れもしない。歯のかみ合わせがぎしりと鳴る。それでも歩く。


 昼と夜の境は早い。止まる場所を決め、輪を小さく整える。焚き火を起こすと、湿った薪が泣くように煙った。Aは刃を拭き、Bは紐のほつれを指でなぞる。


 綴は帯の結びを確かめ、ゼンは鞘口に指を添え、奥の呼吸を一度だけ深く通した。きょう何度も取り憑きを断ったあの低い合図が、火のはぜる音の裏で細く続いている。


 四日目、道はさらに痩せた。木々の影は細長く伸び、地の色は黒へ寄る。霧は渦を含み、空気の粒が重い。昼の真ん中なのに、風は冷たい。綴の指先に、目に見えないざらつきがまとわりついた。嫌な合図だ。


 周りの音が、ひとつずつ消えていく。呪いの囁きも、風が木を撫でる音も、薄い布の向こうへ押しやられたみたいに遠い。沈黙が深まるのではなく、何かが身をひそめてこちらをうかがう気配――。


 ドォォン……どこかで低い音が揺れた。

 ドォン……! 次の居場所を探すように、音の芯が移動する。

 ドン……ドン……間隔が詰まり、足もとから胸へ響く。


 前方で地面が波打つ。土がふくらみ、割れ目から黒いものが這い出した。蛇呪が姿を見せる。輪郭は一定でない。太く見えたと思えば、瞬時に縮み、牙だけが先に立つ。呼吸と噛み合わせで、見る者のリズムを乱そうとする。


 咆哮が霧を巻いた。囁きが意味を持つ前に、ゼンが剣を抜く。綴も半身を崩さず、息をそろえて踏み込んだ。足を据える。腰を通す。肩を揃える。腕は振らない。振るのは最後だけ。


 葬黒の光と祓刻の輝きが交差する。霧の層にナイフで切り込みを入れるように、細い道が開いた。蛇呪はすべり込んでくる。鋭い。執念深い。だが、二人の動きは迷わない。


 綴は恐れを握ったまま斬り下ろす。怖い。そのまま刃を通す。狙うのは牙ではない。始まる端だ。胴が波打つ、その最初の盛り上がり。そこへ斜めに斬線を据え、通す。


 ゼンは一呼吸遅れて重ねた。遅れではない。間合いだ。綴の斬りが作った隙を、一息ぶんだけ広げる。剣の底が低く鳴り、霧がきしむ。


 後方でAが呻いた。視界の端に黒い影がちらつき、足裏から冷えが這い上がる。Bは歯を食いしばり、口の中に鉄の味を覚えた。綴は短く命じる。


「足、踏み締めて。視線は散らすな。肩の高さを揃えて、戦え」


 言葉は少ない。少なさが効く。余分が入ると、全体の調子が濁る。


 蛇呪が尾を振る。地の砂が一斉に跳ね、目に刺さる。ゼンは左へ半歩流れ、綴は右へ半歩抜いた。二人の間に空白が生まれ、尾が空を切る。綴が短く踏み込み、祓いの軌跡で根元を縫う。蛇呪の形が一瞬たわみ、霧がそこだけ薄くなる。


 その時、横手から影が走った。一人の蛇狩が低い姿勢で滑り込み、刃を横に走らせる。蛇呪の動きが断たれた。知らない顔。だが、息は合う。合える手つきだ。


「右から始まり、落ちるぞ」


 風に混じって届く短い声。ゼンがうなずき、綴が応じる。


「了解。こちらが合わせよう」


 綴は恐れの位置を胸の前で正す。支えに変える。右の動きが生まれる前、胴の内側へ細く刃を滑らせる。ゼンが重ねる。刃筋が一点で重なり、二人の呼吸がひとつに噛み合った。


 蛇呪は裂け、深層へ沈む。長く居座る場所を失い、土の奥へ帰る。霧がわずかに晴れ、匂いの底にあった鉄気が薄れ、喉の苦さがほどけた。AとBの肩から力が抜け、ひざ裏がふわりと軽くなる。


「助かったな」


 ゼンが短く礼を言う。蛇狩は顎を引いて頷いた。顔に若さはない。年も分からない。目だけが、いまの調子と合っている。


「ここから北は、もっと濃い。うちの一団へ来い」


 誘いは命令ではない。けれど、進む向きははっきりした。綴は呼吸を整え、AとBの歩をそっと前へ促す。ゼンは後ろを振り返り、全員の間隔を見て歩幅を合わせた。崩れはない。小さな乱れはある。小さい乱れは、歩きながら整えられる。


 列は再び動き出す。霧は名残を引きずり、背後で細くちぎれた。風は冷たい。骨に刺さるほどではない。蛇狩は先頭に立ち、無駄に急がない。歩の間は一定だ。道の端の砕けた石を避け、泥の深みを回し、視線はときどきだけ後ろへ返る。案内の手つきに、長くここを歩いてきた癖が出ていた。


 Aが小さく問う。「さっきの……あれが蛇呪、ですか」


 蛇狩は顔だけ少し傾ける。「あれはまだ浅い。深いのは、音がしない」


 Bが唾を飲む音がした。綴は二人の間に入り、穏やかに言う。「呼吸を合わせて。踏み込む場所だけ見て」


 やがて霧の濃さはひと区切り落ち、空が少し高くなる。それでも匂いの底に鉄は残る。蛇狩は足を止めずに言った。


「ここから先が境だ。うちの輪は近い」


 返事の代わりに、ゼンは歩を半分だけ速める。綴も同じだけ上げ、AとBの背に軽く圧をかけた。声は出さない。息と歩幅で意思を伝える。列を広げず、狭めすぎず。全体の調子は保つためにある。


 この先に何が待つかは分からない。けれど、いまの刻みは途切れていない。それで、十分だった。



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