交わらぬ一太刀
よろしくお願いします
綴は一歩、前へ出た。つま先が灰の円の内側を踏む。それだけの動作に、体の重みと志の重みを一緒にのせる。半身の角度は変えない。
刃を構えなおさない。腕を大きく振らない。ただ、前に置く。置くとは、ここで生きる位置を選ぶことだ。
拍がひとつだけ長く伸び、遠い太鼓の返しのように胸を撫でた。綴は振り抜く。振るとは、切るためだけでなく、道を開くためにもある。
志で振るとは、何を選ばないかを選ぶことだ。綴は、致命を選ばない。選ばないまま、振る。肩から肘、肘から手首へ、重みが滞らずに流れ、刃のない刃が空を割った。
刃の軌跡が、向こうの長の半歩と重なる
――はずだった。交わることは、なかった。
呼吸がひとつ、長から外へ押し出され、綴の胸へ流れ込む。風のない風が、灰の円の縁を撫で、場の皮膜をやさしく撫でた。長の輪郭は薄くなり、闇がほどけ、白が薄れ、外套のような層が音もなく地へ落ちていく。
置いていくのだ。自分の持っていた手つきと、半歩と、「恐れを抱えたまま渡す」という選び方を。
綴は追わない。追わないとは、渡されるのを待つことだ。視線を逸らさず、足を返して据え直す。据え直しは小さい。小ささが、逃げない意志になる。耳の奥で、ゼンの声が静かに通る。
「間は保て。刃を見るな。足と帯を見ろ。――そのままだ」
祭祀長は気配だけで祝詞をほどき、団長は外縁の列を二重に固める。巫女衆の掌は太鼓の縁からわずかに浮いたまま、場の拍だけが細く通る。
鈴は鳴らさない。鳴らせば乱れるものがあると誰もが知っている。焚き火は赤を内に畳み、灰の円の内側だけが呼吸を保った。
長の影はさらに薄れ、綴の足裏で白と現の輪郭が重なる。彼女は帯の芯へ重みを置き直し、喉の手前で半歩をずらして、返しの角度を奪う形を整える。
致命は来ない。最後まで来ない。来ないまま、長はひと呼吸ぶんこちらに何かを渡し終え、影は静かな灰へ変わって座の中から見えなくなった。
ゼンの闇の剣は鞘の奥をことんと閉じ、供台の揺れが止まる。静けさは重くはない。むしろ軽い。軽さの奥で、細い拍がつづく。トン………トン………と、骨の奥で光るように。
音が戻るより先に、色が変わった。綴の皮膚の浅いところを、夜の底のような黒がゆっくり走る。腕の鱗は葬黒の光で縁取られるが、すべては黒に沈まない。
名のない明るさが黒の外縁で細く脈を打ち、二つの色は噛み合うところで止まる。混ざり、交わりながら、どちらにも堕ちない。綴は息を整え、恐れを手の中に持ったまま、持ち場を選び直した。
巫女衆の目が供台へ走る。太鼓の皮が、黒く変わっていた。染めたのではない。夜の屑が静かに降り積もり、内側から黒になったような色だ。
つい先ほどまで叩かずに微かに震えていた皮は、震えを止める。音は出ない。出せないのではない。出さないことが、ここでの意味になった。沈黙の拍が場に残り、骨の奥でトン………トン………と細く続く。
ゼンが歩みより、距離を測るように目を細める。「綴。立てるか」
「立てます」
綴は答えた。声は低いが、芯がある。恐れはそこに在る。志もそこに在る。
祭祀長は祝詞の端を結び直し、団長は外縁の列をさらに締める。巫女衆は鈴の紐だけを静かに整え、鳴らさない。座はまだ開かれている。開かれているとは、拍を受け渡せる形が残っていることだ。
ゼンは闇の剣に掌を添え、奥の呼吸を一度だけ深くした。
「交わらなかった。それでいい。お前は踏んだ。受け取り、置き、渡した。それが今夜の務めだ」
綴はうなずく。向こうの長は消えた。だが、消えたものはすべて失われたわけではない。半歩はここにある。恐れを抱えたまま踏むという選びは、ここに残った。葬黒の黒と、自分の明るさは、互いの境で綴じ合っている。
ほどければ綴じ、綴じれば渡す。むずかしくしないために、簡単に言えばいい。置くとは止めること。渡すとは手放すこと。踏むとは選ぶこと。名を呼ぶとは、そこへ道を通すこと。
綴は黒くなった太鼓の縁にそっと手を置いた。冷たい。けれど拒みではない。音は出ないが、拍は消えない。沈黙は、いまは座へ拍を預ける形だ。掌の下で、黒は静かに呼吸している。
白の余韻は目の裏に薄く残り、闇の名は皮膚の下で静かに息をする。葬黒と自身の色が交わった姿
――それは呑み込むためではなく、綴じるための色だ。
夜明け前の風がかすかに抜け、焚き火の赤が灰へ沈む。巫女衆は列を崩さず、団長は目で合図を送るだけにとどめた。誰も余計な言葉を足さない。言葉の前に、いまは拍がある。
ゼンは綴の横に立ち、声を落とす。
「起こりを小さく、志を大きく。次も同じだ。置いて、渡せ」
「はい」綴は短く返し、帯の結びに指を添えて締め直す。小さな動作で、体の向きを半分だけ整える。顎は落とさず、肩をそろえ、足の親指の付け根に重みを置く。置いた重みは動かさない。次の半歩のためにとっておく。
座は静かだが、静けさの底で細い光が行き来する。太鼓は黒のまま、鈴は鳴らないまま。けれど、誰も不安にはならない。沈黙を選ぶことで、拍が濁らずに渡っていくのを見ているからだ。
綴は半身を保ったまま、灰の円の内側で一度だけ深く息を置いた。恐れはそのまま。志もそのまま。次に拍が詰まるとき、また踏めばいい。交わらなくていい。渡せばいい。置けばいい。
遠くで鳥が一度だけ鳴く。輪は崩れない。名のない明るさが黒の外縁で静かに脈を打ち、座はその脈を受け取って、黙って綴へ返した。綴は目を伏せずにうなずき、足をそろえ、次の半歩を前に置く。




