一歩前へ
よろしくお願いします
伏せた太鼓の皮は鳴らずに震え、灰の円はしっとりと灯りを呑みこんでいた。綴と向こうの長――闇をまとう葬黒――は、互いに半歩の空白を挟んで向かい合い、ひとつの像のように動かない。
鈴は鳴らず、焚き火の破裂はどこか遠い。祭祀長も団長も、息を細くして見守る。供台の上、ゼンの闇の剣は鞘に収まっているのに、奥だけがかすかに開き、場の薄闇を梳いては戻す。
拍が、骨の奥で淡く光った。トン………トン………と、遅い脈のように。
綴は、恐れを隠さなかった。封刻の座に入ってから幾度も刃を交わし、なお押され続けている。技の層は自分より深い。それでも逃げないと決めている。逃げないとは、足を前に置くことだ。
踏むとは、怖さを抱えたまま踏むことだ。己にそう言い聞かせ、綴は胸の内側で拍を一本にそろえた。半歩の空白は薄い。だが十分だ。前へ出られる。
白い気配が、足裏から立ちのぼる。空気の縁がほどけ、音の皮が一枚ずつ剥がれる。綴は瞼の裏に、床も天もない白の空間を見た。夢ではない。現実の半歩と、白の半歩が重なる場所だ。
向こうの長は顔を持たぬまま、確かにこちらを見ている。その目はないのに、まちがいなく目だと分かる。綴の喉が小さく鳴り、息が細く伸びた。
「怖いままで来い」と、どこからともなく声がした。年は定まらない。枯れても若くもない。
「怖さを置いてくるな。置いた恐れは、あとで拾えない」
綴は頷いた。恐れは手放さない。握ったまま踏む。それが、今この座での約束だ。彼女は踵からつま先へと静かに重みを渡し、半身を崩さぬよう肩の高さをそろえる。帯の結びの芯が、呼吸に合わせて微かに締まる。
白の余白は冴えている。そこでは、起こりがひとつずつ、はっきり見えた。半歩の出入り。二本刻みの口金。右から左へ回す帯の結び。向こうの長が身をひるがえすたび、面の移ろいに宿る理由が、布をめくるように現れる。
綴は見た。見るとは、受け取ることだ。受け取ったなら、置く。置くとは、しかるべき場所に重みをのせ、動きを止めることだ。肩に重みを置けば、返しは遅れる。
脛に重みを置けば、半歩は浅くなる。帯を芯にすれば、起こりはここに集まる。彼女は視線を低く保ち、足の指で地を掴み、置いた重みをほどかない。
ゼンの声が届く。距離はあるのに、耳のすぐそばで囁かれるような明瞭さだ。
「間は保つ。綴、顔を上げろ。刃を見るな。足と帯を見ろ」
綴は白と現の輪郭をそろえた。白で見た筋を、現へ持ち帰る。持ち帰るとは、渡すことだ。渡すとは、自分だけに置かず、場へ開くことだ。彼女は喉の手前で半歩ずらし、帯の芯へ重みを置き直し、脛を払って返しの角度を奪う。
向こうの長の足元で、砂がわずかに沈む。致命は来ない。打てるのに、打たない。半歩を差し出し、起こりを見せ続ける。その見せは教えだ。教えは渡す手だ。
「綴」
ゼンが短く呼ぶ。
「そのまま。起こりを小さく、志を大きく。置いて、渡せ」
志は、言葉にすれば簡単だ
――ほどけを責めず、ただ綴じる。
綴は胸の底でそれだけを固め、白と現の半歩をひとつに合わせる。恐れは消えない。消せない。だが、消す必要はない。握ったまま踏めばいい。指先の震えを隠さず、震えを支点に変える。
祭祀長は沈黙の祝詞をほどき、団長は列の弛みを外縁で押さえる。巫女衆の掌は太鼓の縁からわずかに浮き、場の拍だけが細く通る。鈴は鳴らさない。鳴らせば乱れるものがあると、皆が知っている。焚き火は小さく沈み、灰の円の内側だけが呼吸を保つ。
綴は片膝を柔らかく抜き、腰の角度をほんのわずかに整えた。肩は上下させない。顎は落とさない。刃は見ない。足の親指の付け根に重みを置く。
置いた重みは動かさない。相手の帯の結び目に、目に見えない糸がかかる。その糸を強く引かず、切らず、手の内でやさしく回す。向こうの長の外套の影が、白の縁でわずかに揺れた。
「踏むのは今だ」とゼン。「踏んだら、ためない。渡せ」
綴は一度だけ息を短く吸い、同じ長さで吐いた。白はまぶしくない。現は暗すぎない。二つは重なる。足裏の皮膚に、地の温度がはっきり乗った。彼女は一歩、前へ出る。
つま先が灰の円の内側を踏む。それだけでじゅうぶんだ。半身の角度は変えない。刃を構えなおさない。腕を大きく振らない。ただ、前に置く。置くとは、ここで生きる位置を選ぶことだ。
拍がひとつだけ長く伸び、遠い太鼓の返しのように胸を撫でた。綴は振り抜く。振るとは、切るためだけでなく、道を開くためにもある。志で振るとは、何を選ばないかを選ぶことだ。
彼女は、致命を選ばない。選ばないまま、振る。肩から肘、肘から手首へ、重みが滞らずに流れ、刃のない刃が空を割る。白の縁がひと筋だけ細くたわみ、音の皮がさらに薄く剥がれる。
向こうの長は、綴の一歩を見届けると、わずかに刃先を下げた。稽古場で「よし」と言うときの角度だ。呼吸がひとつ、長から外へ押し出され、綴の胸へ流れ込む。
風のない風が、灰の円の縁を撫で、場をひとつ撫でていく。長の輪郭は薄くなる。闇がほどけ、白が薄れ、外套のような層が音もなく地へ落ちる。綴は追わない。追わないとは、渡されるのを待つことだ。
彼女は足を返し、据え直す。据え直す動きは小さい。小ささが、逃げない意思になる。ゼンの剣は鞘の奥を静かに閉じ、供台の揺れが止まる。
祭祀長の口元から祝詞の尾がほどけ、団長の肩がわずかに落ちる。誰も声を足さない。足すべき拍は、すでに通っているからだ。
綴は、帯の芯へもう一度だけ重みを置く。置いた重みは、次の半歩のためにとっておく重みだ。向こうの長の内側で、何かがこちらへ手渡される感触がある。言葉ではない。
けれど確かに、渡されている。半歩の差し出し方。恐れを抱えたまま選ぶという選び方。致命を選ばないというためらいではない決意。彼女はそれを受け取り、落とさないように胸の前で支える。
「綴」ゼンが、同じ調子で告げる。「起こりを小さく、志を大きく。置いて、渡せ」
「そのまま」ゼンが言う。「刃を見るな。足と帯を見ろ。間は、もうお前のものだ」
綴は視線を落とさない。足と帯を見るために、顔は上げたままにする。白で見た筋が、現の場で同じ形になる。恐れは胸の前にある。
落とさないように、しかし握りしめすぎないように、手の中で温度を保つ。拍は細いが切れない。鈴は鳴らないが、鈴の重みが空気をたしかに整えている。
綴は片足をわずかに退き、もう一方を半歩だけ送る。送った足は、地に深くは沈まない。沈みすぎると返しが遅れる。浅すぎると起こりが浅くなる。ちょうど良い深さがある。
彼女はそこに置き、止め、待つ。待つのは攻めないためではない。渡すためだ。受け取ったものを場へ渡すためだ。
白はまぶしくない。現は暗すぎない。二つは重なり、綴の足裏で一枚になる。




