向こうの長の縫い目
よろしくお願いします
焚き火の微かな破裂がほどけ、巫女衆の衣擦れが遠のき、伏せた太鼓の皮の震えさえ静止画のように止まった。残ったのは拍だけ
――トン………トン………トン……
その拍もやがて、骨の奥に淡く灯る印へ変わる。
綴は気づく。白い余白のなかに立っている。床はない。天もない。名も温度も匂いも剝がれ落ち、ただ半歩の空白だけが二人の間に置かれていた。
向こうの長がまっすぐこちらを見る。顔は無いはずなのに、視線の重みは確かだ。刃も構えも無い。ただ、近づけば触れてしまうほど薄い距離。
「……怖かった」
どこからともなく降る声。枯れてはいないが、若くもない。
「封刻の儀が、怖かった。自分が自分でなくなるのが。名が上書きされ、家の手つきが私の手を奪っていくのが。怖かった」
綴は息を吸う。胸は上下しないのに、呼吸だけは往き来する。
「だから、葬黒へ落ちたのですか」
「落ちたのではない。走った。逃げて、戻ろうとした。戻るには名が要った。名を呼ぶ者が要った。……誰も呼ばなかった。私を、私のまま呼ぶ者が」
「だから、こちらへ来た」
言葉は白へ溶けるが、届く手応えは確かだ。
「お前たちの座は道を開けた。お前の名は縫い目だ。ほどけに針を通すための。私は見せた。半歩を、刻みを、結びを。私が何者で、何をまだ持っているかを。……技は置き場所を失っていた。誰かに渡したかった」
「俺に?」
綴が問う。長は肯定も否定もしない。返事の代わりに、半歩の空白が差し出される。
「お前は弱い。だが逃げない。弱いものがまず踏み込む流儀を、まだ忘れていない。だから教えは残せる。封刻は怖い。だが、その怖さを抱えたまま渡す手が要る」
綴は目を閉じる。白の内側で、自分の影がひとつ呼吸した。
「俺は……呼びます。ほどけを責めず、ただ綴じるために」
白が薄れ、遠い拍、衣擦れ、焚き火の音が戻ってきた。まぶたを上げれば、現実では二人とも構えたまま動かず、灰の円は崩れず、鈴は鳴らない。
皆の視線が集まる中、ゼンだけが静止の質を見て、供台の刃の奥をそっと、もう一分だけ開いた。場の薄闇が一手ぶん軽くなる。
時間は再び動き出す。ただ、急がない。綴は半身を保ち、呼吸を一本に揃えた。向こうの長の半歩が、今度は明瞭に見える。膝の抜き、帯の軸、二本刻みの返し――どれも致命ではない。渡すための手だ。綴は受け、返し、また受けて返す。ゼンの声が遠くで短く落ちる。
「綴、脛から帯、帯から肩。間を切るな」
従う。刃の腹で脛を払い、返しの帯を芯に肩へ圧を置く。長は半歩引き、半歩戻す。柄は鳴らず、息だけが鳴った。熾烈さは増すが、刃の色は濁らない。
祭祀長の祝詞は細く途切れず、団長の指示は簡潔に流れ、藍の先輩は外縁を掃き、新人AとBは太鼓の縁に掌を添え続ける。輪は崩れない。
綴は気づく。伝えられているのは技だけではない。恐れを抱えたまま踏み込むこと、名を置き、名で呼ぶこと、半歩を差し出し半歩を受け取ること
――それらすべてが一続きの舞だ。
向こうの長は、いまも致命を選ばない。選べないのではなく、選ばない。渡すことを先に置いているからだ。
長が起こりを大きく見せ、面を切り替える。綴は喉前のずらしで半拍の空白を挟み、返しの息に合わせて帯を芯に肩へ置く。押しは強い。だが受け切れば、次の一手が置ける。綴は脛、帯、肩――目印の線を静かになぞり、致命を外しながら、返すべき角度だけを返していった。
刃が触れるたび、鋼の甲高い音は生まれず、代わりに稽古の夜に擦れ合った木と汗の記憶が、薄い香のように場へ沈む。
「向こうの長」
綴はもう一度呼ぶ。
「綴が呼ぶ。ほどけを責めず、ただ綴じる」
長の刃先がわずかに沈む。拍が半拍だけ伸び、遠い太鼓の返しが胸に触れた。ゼンは刃の奥を保ちながら、場の黒を梳き続ける。
封刻の座は夜をまたぐ。決着は急がない。教えも急がない。押されながらも綴は切らさず踏み、致命は避け、受け流しながら、白の中で聞いた言葉を胸底へ据え直した。
――怖かった。封刻は、怖かった。自分が自分でなくなるのが。
ならば、と綴は思う。自分を自分のまま呼ぶ。そのために呼ぶ。名は刃ではない。渡すための道具だ。太鼓は鳴らず、灰の円は微かに光り、鈴はまだ鳴らない。
トン………トン………トン……
拍は切れない糸のようにお互いを結びつけ、長の半歩と綴の半歩がそこへ正確に重なる。呼吸が二つ、同じ深さで上下した。
やがて明け方の鳥が遠くで一度だけ鳴く。次に詰まる瞬間、刃はまた交わるだろう。封刻は長い。焦らず、崩さず、呼んで、受けて、渡す
――その務めだけが、座の中心で静かに燃えていた。輪は保たれ、名のない明るさが、闇の外縁で薄く脈を打つ。




