表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
とぐろ  作者: バトレボ
2章
34/43

向こうの長の教え

よろしくお願いします

 伏せた太鼓の皮が鳴らずに震え、湿りを含んだ灰の円が灯りを吸い込んで黒みを増していく。綴は踵をわずかに浮かせた半身で、向こうの長――闇まといの葬黒――と向き合った。


 二人の間にあるのは、紙一枚ぶんの半歩だけ。最初の打ち合いで、綴は嫌でも思い知った。型は同じ、枝は違う。だが層の厚みが違う。


 肘の内で抜く斜め上がりを置けば、長は手首の返しひとつで空へ逃がし、戻りの息で肩口へ見えない重みを載せてくる。致命は来ない。けれど圧だけは絶えず届き、肺の底が薄く焦げ、包帯の内側で古傷が汗に滲んで熱を持った。


「綴、歩幅を半拍落とせ。右の踏み石を使え」


 ゼンの声は低く短い。供台の刃は抜かれぬまま、奥が一分だけ開き、場の薄闇を梳いていく。綴は足裏で石の冷たさを探り当て、半拍落として半歩引き、半歩戻す。


 喉の筋を伸ばし、起こりを小さくまとめる。長の返しはなお速い。だが致命の角度は避けられ、掠めた刃背が肩に焼け跡のような痛みを置くだけで済む。


 焦りが足首から這い上がってくる。綴はそれを喉の奥で噛み止め、思考を無理やり前へ押し出した。


――なぜ、長は葬黒となって現れた。なぜ致命を打たず、半歩を差し出し、起こりを見せ続ける。試し? 伝え? 誰に。自分にか、ゼンにか、座そのものにか。


 刃の間で考えを回すたび、太鼓の皮は鳴らずにかすかに震え、灰の円が呼吸の深さを測るように色を沈める。巫女衆の衣擦れは音にならず、藍の見張りの気配だけが輪の外縁を掃いた。


 打ち合いは短い連なりで深くなる。喉前でずらす二の手を置けば、長は膝の抜きひとつで面を入れ替え、空白へ刃先の速さを差し込みに来る。綴は刃の腹でそれを受け、肩越しに空へ逃がす。


 軌道は読める。読ませてくる。稽古の間合いでありながら、容赦のない場であることを、双方が確かに理解している。


「左の肘内、溜めが半拍長い。次は帯を軸に返す。脛を打て」


 ゼンの助言が視界の端に目印を置く。綴は呼吸を長く伸ばし、間を半拍ずらす。長が起こりをわざと大きく見せた瞬間、刃の腹で腕を払い、その戻りで足の甲を掠めた。


 長の姿勢が一拍だけ沈む。押し返せる――そう思った刹那、帯の結びを芯に身を捻り、二本刻みの返しで刃元を抑え込まれる。柄は鳴らず、息だけが鳴った。膝が地を掠め、乾いた砂が星のように跳ねる。


「綴、顔を上げろ。刃を見るな。足と帯を見ろ」


 短い声が刺さる。顎をわずかに上げると、半歩の出入り、結びの癖、呼吸の深浅がはっきり見えた。長はやはり致命を選ばない。打てるのに、打たない。


――教えたいのか。やり残しを渡したいのか。胸の奥にともった疑問が小さな灯りになり、刃の起こりが急にゆっくり見え始める。


 押しと受け流しが幾度も重なる。肩は焼け、前腕は痺れ、足は鉛のように重い。それでも折れない。ゼンが場の黒を梳き、拍を半拍ずつ整えるたび、綴の呼吸に紙一枚ぶんの余白が戻る。


 焦りは消えない。だが、考えられる。脛から帯、帯から肩――視線の線で次の道筋をなぞり、致命は避け、技量で受けて返す。鋼の金属音は生まれず、代わりに、道場の夜に擦れ合った木と汗の匂いが、記憶の底から淡く立ちのぼった。


 長の半歩は、綴の半歩より軽く、深い。膝の抜きに迷いがなく、置き直しが無駄を持たない。同じ半歩でも、面の移ろいが一枚厚い――綴はそこに距離を測る。


 足裏の石がかすかに滑り、体の軸が揺れそうになった瞬間、「右、踏み直せ」とゼンが押す。綴は拇指球で地を掴み直し、喉の筋をもう一度伸ばし切る。半歩引き、半歩戻す。呼吸の線と足の線が、遅れてやっと重なった。


「起こりは見えている。間は合う」


 ゼンの声が遠くで沈む。供台の刃の奥がさらに一分だけ開く。場の薄闇が一手ぶん軽くなり、長の腰の結びが光のない光で輪郭を持った。


 右から左へ渡る癖――綴が呼んだ名と座の向きが一本に通る。灰の円の欠け目からひややかな風が薄く入り、太鼓の皮は鳴らずに震え、鈴はまだ沈黙を守っている。


 綴は焦りを改めて噛み潰し、思考を澄ませる。なぜ致命を選ばない。なぜ半歩を差し出す。もしこれが試しで、伝えであるのなら、受け方にも手順があるはずだ。刃で受けすぎるな。


 足で受け、帯で受け、呼吸で受け、刃では最後に返す。道場で叩き込まれた順番を、いまさらのように身体が思い出していく。


 長が面を切り替え、肩口へ重みを置きに来る。綴は刃の腹で薄く擦り上げ、空へ逃がし、返しの帯を芯に肩へ圧を返す。小さな手順が重なって、押しの波がわずかに分散する。


 追い打ちの刺突には喉前のずらしで半拍の空白を挟み、足の甲への返しには踵を割り込ませて角度を潰す。呼吸の長さがそろい、視界の隅で灰がたゆたう。


「綴」


ゼンが名を呼ぶ。短い、しかし芯のある音。


「脛から帯、帯から肩。間を切るな」


「はい」


 綴は答えずにうなずいた。声を出せば乱れると、体のどこかが知っている。半歩の出入りが、互いの胸骨の裏で同じ拍に結びつく。


 長の刃はなお速い。だが、その速さが何のための速さなのか、綴の目はもう取りこぼさない。殺すためでなく、渡すための速さだ。


 渡される側が取り落とせば、ただの斬撃になる。受け止めた瞬間に、別の名を持つ手順へ換えていくのが務め――そう理解した途端、綴の足は重さの中に軽さを見つける。


 呼吸の隙間で、古い師の声が遠くから響く。


「弱いものがまず踏み込む」


 綴は喉の奥でそれを繰り返すだけにとどめ、目の前の半歩を見続けた。長はやはり致命を選ばない。選ばないからこそ、圧は強く、舞は厳しい。


 受け損ねれば即座に倒れるが、受け切れば次の一手が置ける。綴は脛を払い、帯を芯に肩へ置き、肩から喉前へずらし、ずらしから足の甲へ返す。小さく、小さく、しかし確かに。


 鋼が歌わないまま、場は熱を帯びた。祭祀長の祝詞は細く伸び、団長の指示は簡潔で、藍の先輩は外縁の影を払い、新人AとBは太鼓の縁に掌を添えて揺れを殺している。


 輪は崩れない。供台の刃は吸って吐くの間を乱さず、奥の黒が糸のように往復して、綴と長のやり取りの余白を作り続けている。


 綴の肩が焼け、前腕に痺れが走るたび、灰の円の中心が静かに息を吸い、吐く。半歩の重なりが、少しずつ別の意味を帯びはじめた。


 押し返すためではない。切らさないためだ。受けて、返す。その薄い往復の中に、向こうの長の意図が、教えとして、やり残しとして、確かに混ざっている。


 刃と刃が触れる。金属の硬い音はせず、代わりに、稽古場の夜に擦れ合った木と汗の記憶だけが、静かに場へ沈んでいった。


 拍は細く、切れず、半歩と半歩の間に通い続ける。綴は呼吸を一本にまとめ、視線を帯へ、足へ、そして半歩へと巡らせる。焦りはまだある。だが、その上に置くべき順番も、もう忘れてはいなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ