祈りの綴じ目
よろしくお願いします
準備は、水面に落ちる細雨のように静かに重なっていく。巫女衆は結びの末を一本ずつ指腹で撫で、湿り具合まで確かめてから結び目を寝かせる。AとBは外縁の影に小さな目印を置き、踏み跡の乱れを草の向きで均した。
藍の先輩は灰の円の隙を指でなぞって埋め、団長は足音が重ならぬよう通り道を入れ替え、合図の順を短く指で示す。祭祀長の祝詞が一度だけ切れ、言葉の織りが解かれた空気が、素のまま場に立つ。その空白へ、遠い拍が薄く乗った。
トン………トン………トン……。
「始まるぞ」
ゼンは刃を抜かない。柄へ添えた掌の内で、刃の奥だけを一分ほど開く。闇の膜を受ける器を、息の深さで整える。綴は太鼓のそばで膝を立て、帯の結びを握った。
掌に吸いつく麻のざらつきが、逃げ場を塞ぐかわりに置き場を与えてくる。声にする名は一つだけ。間は、ゼンが取る。
帷の手前で暗がりが凝り、ほどけ、ひとつの影に収まった。二本刻みの口金。半歩引いて戻る足。刺突の直前に鳴る、乾いた柄の音。稽古場の空気をそのまままとった気配。影は踏み込まない。起こりだけが用意され、半歩の空白は“試し”のまま差し出されている。
「いまから、こちらの番だ」
ゼンは低く言い、刃の奥で吸って吐く。胸骨の裏の間に合わせ、闇の皮膜が薄く剥がれ、糸くずのように地へ落ちた。黒粉は土が淡々と飲む。鈴は鳴らない。焚き火の芯が一度だけ息を継ぎ、光が帷の縁を撫でた。
綴は口を開く。かすれると思った声は、喉の奥で芯を持って出た。
「向こうの長。父の兄弟弟子。――綴が呼ぶ。ほどけた縁を、ここへ綴じ直す」
影は動かない。だが、見ている。名に反応し、半歩の空白に呼吸が乗る。祭祀長の祝詞がふたたび重なり、団長の指が最後の動線を示す。AとBが太鼓の皮へ両の掌をそっと添え、藍の先輩が綴の背に平らな掌を置く。複数の息が一拍だけぴたりと揃った。
灰の円の中で、欠片がそれぞれの位置で静まる。二本刻みは円の西、結びの帯は北、踏み跡の砂は南へ。東側には供台。四方が息を分け合い、すべてが向きを持ち、座に馴染む。
ゼンが刃の奥をもう一分だけ開く。影の腰の結びが、光のない光で輪郭を持った。右から左へ渡る癖が、縫い目の返しのように浮かび上がる。綴の確信が、やっと骨に落ちた。
「封刻に移る」
祭祀長の声が座に落ちる。綴の呼気がひと筋、灰の円へ入り、太鼓の皮が鳴らずに微かに震えた。縁は道になった。刻む順番が、皆の胸の内で並び替えられていく。
封刻の座は開かれ、灰の円は保たれたまま、場の温度だけが薄く降り積もる。祭祀長は祝詞を結び終え、巫女衆が道具の向きを揃え直す。団長は受け入れの列を半歩外へ引き、見張りを二重にして、交代の順を目だけで回した。輪は崩れない。
闇をまとう葬黒の者は動かない。半歩身を引き待っている。
ゼンは闇の剣を構え、綴の前に腰を落とす。刃の冷たさが掌に残り、その冷えが言葉を澄ませる。
「震えは、残っているか」
「残ってます」
綴は正直に言い、指先で帯の角をつまんで離した。
「でも、声は出る。名は、もう逃げません」
「それでいい」
ゼンは頷く。
「縁を逆に辿る封刻は、距離長い。急げば途切れる。呼んで、受けて、渡せばいい。次に拍が濃くなれば、俺が先に取る。綴が間違えた話を綴じろ。」
綴は帯の結びを掌で押さえ、太鼓の皮に指先をそっと添える。布越しの張りが、胸の間に同じ張りを作る。
「はい。綴じます。ほどけを責めず、ただ綴じます」
藍の先輩が外から戻り、布包みを祭祀長へ渡した。
「刻みも結びも、座に揃いました」
「よい」
祭祀長は灰の円の片隅を指で均す。そこには米粒ほどの欠けがある。欠けは縁の入り口だ。そこから呼び、そこから返す
――小さく頷き、指を離した。
団長が輪を見回し、短く言う。
「この儀は夜をまたぐ。交代を回す。――崩すな」
焚き火の匂いがすこし深くなる。帷の外では風向きがわずかに変わり、乾いた草の匂いが一筋まじった。遠くで鳥が一度だけ鳴く。鈴は鳴らない。鳴らないことが、場の正しさそのものだった。
「綴」ゼンが呼ぶ。
「はい」
「お前の名は、ほどけを責めぬための名だ。断つためではなく、渡すための名だ。忘れるな」
「忘れません」
綴は細く笑った。震えは、もう恐れだけではない。任の重さが、静かに体の芯へ沈む。
闇まといは、動かず待つ。縁をたどりついた先へ伸ばした。だが今は、座があり、名があり、道がある。封刻の儀は縁を逆へ返すために開かれ、輪は崩れない。
灰の円の内側で、名のない明るさが薄く脈打つ。




