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とぐろ  作者: バトレボ
1章
3/25

黒の手向け

よろしくお願いします。今日も2話連続更新です。こちら1話目です。

 葬黒の得物を、彼は土に突き刺した。


 刃は鈍い音をたて、乾いた地面に根のように沈む。葬黒まで至った蛇狩は、最後は身体ごと朽ちる。残るのは得物だ。村や集団ごとに扱いは違う。


 祓った葬黒の得物を次の狩りに用いるところもあれば、土へ休ませて墓標とするところもある。彼の一団では、ここに眠らせるのが習いだった。


「安らかとは言わないが、今は眠れ……」


 囁きは風に混じって失われる。刃に映る自分の白目は、わずかに藍を帯び、縁に黒が差していた。いずれ自分も七祓いの果てに、この土へ得物を立てるのだろうか。


 死ぬことは怖い――どうなる? 


 問いだけが胸の中をとぐろのようにめぐる。その隙間に、これまで六祓いしてきた蛇呪たちの呪言が滲み出す。


『熱い』『苦しい』『うらやましい』『どうして』


 声はどれも短く、息の切れ端みたいに途切れがちだ。彼は刃元へ指を置き、ゆっくりと離した。


「家族や村を襲われた気持ちはこちらも同じだ……。身体朽ちるまで狩り続ける……」


 土の匂いに錆がまじる。風は浅く、雲は低い。最初は茶色、次に藍色。狩るほど、黒へ。もっと黒へ。やがて闇と混じるほど黒く


――その色を葬黒という。


 生きながら、蛇の呪いと混ざりきった蛇狩の呪い。葬黒となる者は呪いへの親和が強く、蛇呪との戦いを有利に進め、村と一族の守り人であり、同時に蛇呪になる運命を抱く。守り刀が、いつか牙にかわる。そんな理を、彼は己の皮膚で覚えつつあった。


 彼は得物から手を離し、背を正した。


「俺もそのうちそっち側へ行く……恨みはその時言ってくれ」


 言って、踵を返す。踏み出した、その瞬間だった。色が堕ちた。皮膚の内側で、黒がすっと水を吸う布のように広がる。白目の縁に染みていた藍は溶け、闇が立ちのぼる。胸が詰まり、息が千切れた。


「はっ……はっ……はっ……」


 喉がうまく働かない。頭の内側で、呪言が洪水になる。藍の頃のざわめきとは別物だ。『熱い』『苦しい』『うらやましい』といった独り言が、すぐに彼自身へと針を向け、言葉は鋭さを増していく。


『燃えろ』『苦しめ』『堕ちろ』


 耳で聞くのか、骨で聞くのか。違いはそれだけだ、と一瞬思う。だが、その一瞬が長い。内側の声は肉に喰らいつき、心拍に合わせて増幅する。


 視界の端で石が歪み、地平がわずかに波打つ。足首に力を込めたつもりが、指先にまで届かない。


「頭が割れそうだ……。うっ……くうっ!」


 藍の時分には制御できていた身体の変化が、呪言と歩調を合わせて押し寄せる。腕には深い鱗が重なり、汗の上に沈む。指は三つの爪へまとまり、踝から伸びる尾が足取りを操作する。


 背中の筋は音もなくきしみ、骨はわずかに組み替わる。もはや、人であるとわかるのは二本の脚で立っていることくらいだ。彼は歯を噛み、舌の血の味を確かめる。


「うるさい……だまれ……」


 吐き捨てた声の先で、意識は寸断された。闇は一枚の布のように落ち、音は裏返る。どのくらい、落ちていただろう。時間は砂のように無音で、彼の上をさらさらと流れた。


 目覚めると、荒れ狂っていた呪言は水面めいて静かになっていた。波紋は残るが、底が見える。耳の奥で鼓動が一拍ずつほどけ、冷たい空気が肺の底へ届く。彼は額の汗を拭い、空を仰いだ。雲はまだ低いが、動いている。


「ついにこの時が来たのか……帰ろう」


 喉は掠れている。得物に小さく礼をして背を向ける。刺さった刃は夜の芽のように地面から覗き、風に触れても揺れない。黒はなお濃い。


 だが歩ける。歩くほかない。足裏に土のざらつきが戻るたび、彼は呼吸を深くした。


 歩きながら、彼は自分の白目に残るわずかな明と、縁を侵す暗さを意識する。藍から黒へ。もっと黒へ。その過程は技ではなく、日々に紛れて進む。


 蛇呪を祓えば祓うほど、黒は親しげに寄ってくる。親しさは刃に似ている。頼れば切れるし、怠れば刺さる。六祓いの記憶が、足の動きに絡む。


『熱い』『苦しい』『うらやましい』『どうして』


 声はもう彼を責め立てない。ただ、そこに在る。土の中の根のように。彼はその根を踏まずに進む術を、長い年月で覚えたつもりだった。


 だが、いまは違う。根は自分の内側に伸び、骨の隙間へ入り込んでいる。踏もうとしても踏めず、避けようとしても避けられない。ならば


――持ち運ぶしかない。


「……」


 言葉は浮かんでも声にならない。彼は肩を落とし、尾の重みを均す。人の形をかろうじて保ちつつ、歩幅を少しずつ広げる。黒は歩みに合わせて沈み、わずかに薄まる。


 薄まるというより、重さの置き場が変わる感覚だ。持ち運ぶ。残すために、動く。祓いとはそういう営みだったはずだ、と彼は思い直す。


 石が転がり、靴先にあたる。彼は足を止めず、石を脇へ払う。遠くで鳥が鳴いた。陽は低い。影は長い。彼の影は、人のそれより少し濃く、輪郭が揺らいでいる。


 揺らぎは呼吸のたびに広がり、すぐに元へ戻る。黒は波だ。寄せ、返す。寄せるときは呑み込もうとし、返すときは置き土産を残す。土産は疲労になり、痛みになり、ときに眠りになる。


 彼は一度だけ振り返った。土に立つ得物は、静かに夜を吸っている。刃に映る空は浅く、雲はほどけかけている。あの刃は墓標であり、祈りであり、明日へ渡す印だ。


 今日ここで止まった黒が、別の場所で薄くなることを、彼は経験から知っている。だからこそ、歩く。歩いて、黒の置き場をつないでいく。


 とぐろを巻くように、過去と現在と未来が絡み、ほどけ、また絡む。その真ん中に、彼は立っている。


「そのうちそっち側へ行く……」


 先ほど口にした言葉が、遅れて胸に降りる。恨みはその時に


――そう言った。


 言葉は約束ではない。ただの合図だ。合図に従って動くのは、いつも身体のほうだ。膝、腰、肩、肘、手首。順にほどいて、順に結ぶ。呼吸を足裏まで落とし、土と自分の重みを一度だけ確かめる。


 風が少し強くなり、草の穂が一斉に揺れた。彼は目を細め、耳の奥に残る波紋を数える。『燃えろ』『苦しめ』『堕ちろ』の棘は鈍り、言葉は芯のない泡に戻っている。


 泡は弾け、空は広がる。黒はそこにある。だが、黒のすべてが敵ではない。黒があるから、火は映え、影は涼しい。彼はそのことを忘れないよう、歩調に言い聞かせた。


「……帰ろう」


 もう一度だけ言って、彼は歩き出す。足音は乾いた土に吸い込まれ、やがて道の音に紛れた。背後で刃が小さく光り、前方で空がわずかに明るむ。夜は深い。風はやはり少ない。


 だが、その澄み過ぎた空気の底で、次の祈りの音が確かに生まれていた。彼はそれを合図と受け取り、何も振り返らずに進む。


 黒は重い。けれど、運べる。運ぶほどに、誰かが息を継げる。彼はそれを知っている。知っているから、歩く。歩くほか、できることがないから。


 土の匂いは少しだけ温かく、胸の奥のざわめきは、遠雷のように遠のいていった。



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