縁の返答
よろしくお願いします
最初の一太刀は、男のほうからだった。致命ではない。肘の内で抜く斬り上げ――稽古場で何千度も繰り返し、合図のように身体に染み付いた起こり。
影はそれを、ほんのわずか手首を返すだけで空へ逃がす。柄は鳴らない。代わりに、足が半歩だけ引かれ、すぐ戻る。戻りの呼吸に合わせるように、男は二の太刀を送った。
これも致命ではない。喉の前で半歩ずらす、互いに知っている型。鋼ではなく、記憶と記憶が擦れ合う音が、静けさの底でかすかに鳴った。
「……合わせている」
ゼンは胸の内で呟き、二人の間に残った闇だけをさらに梳いた。黒が薄くなり、皮膚の呼吸が通い始める。影の肩の落ち方、腰の置き場、柄の握りの深さ
――すべてが、忘れたくても忘れられない何かを思い出させるための誇張に見えた。
殺しの手なら、こんなに丁寧に見せない。
男は三の太刀へ移る。刺突。踏み切る直前、柄がかすかに鳴った。乾いた木と硬い手の音。影は受けない。受け止めない。半歩だけ身を引き、その戻りで男の刃の背を軽く叩いた。
叱責にも、労いにも取れる、稽古場の触れ方だ。打突の重みは削がれ、残るのは「見せる/受ける」の確かさだけ。
男の肩が、僅かに震えた。喉の奥で、固くなっていた何かがほどける。
「――そんなの、昔、叩き込まれた三手だ。半歩引いて戻す、鳴らしてから刺す、肘の内で抜く……」
影はなお動かない。だが、見ている。男の起こりだけを、息の深さだけを、確かめるように。場の拍は薄く一定で、鈴は沈黙したまま、焚き火の芯だけが小さく呼吸した。
やりとりは殺気のやりとりではなく、手順の確認に近い――それでいて、寸分でも崩れれば即座に血へ転ぶ緊さを保っている。
ゼンは闇の剣の奥をさらに一分開く。剝がれ切らずに残っていた薄い膜が、風に攫われて消えた。その一瞬、影の腰に括られた細帯の結び目がはっきりと見える。二本の刻み。右から回して左で留める結び
――あの家のやり方。細工の甘さではなく、意図の癖。そこにだけ素顔が出る。
男の目が見開かれ、すぐ細く結ばれた。声は出ない。代わりに、刃先がわずかに下がる。呼吸が一段深くなり、口の中で名のない呼び方が形をとる。
「……親の代で別れた師筋――父の兄弟弟子。」
小さく吐き出す。
「俺が子のころ、道場で一度だけ見た背だ。二本刻みも、鳴らしも、結びも……間違えようがない」
影はそこで初めて、わずかに刃先を下げた。致命の一歩手前で止まり続けた姿勢のまま、男の起こりを受け止めたと告げるように。見極めは済んだ、という合図。そののち、顔のない顔をゼンへと向ける。拍が一度だけ長く伸び、遠ざかる太鼓の返しになった。
「離れる」
ゼンは刃を伏せる。
「切れてはいない。まだ、繋がっている」
影は薄灰の層にほどけるように消えた。黒粉はもう舞わず、土がすべてを飲み込む。風が場の温度をひとつ戻し、焚き火の匂いがまた静かな支配を取り戻した。残されたのは、呼吸の深さと、胸骨の裏に細く残る糸だけだ。
拍は遠のいたが、消えない。トン………トン………――細い糸は北東へ伸び続けている。ゼンは闇の剣を収め、男へ視線を移した。男は得物を鞘へ戻し、ゆっくり膝をつく。膝が地を打つ音は、どこにも跳ね返らない。場がそれを受け止める。
「確かめは済んだか」
「……済んだ」
男は短く返す。掠れた声に、しかし迷いは薄い。
「名は呼ばない。呼べない。だが、誰なのかは分かった。親の代で別れた師筋の、父の兄弟弟子。うちでは『向こうの長』とだけ聞いていた人だ」
ゼンは頷く。
「なら、辿れる。結びの癖も、刻みも、鳴らしも――全部が道になる」
男は顔を伏せたまま、拳をゆっくり握り直す。震えは怒りではなく、位置の決まり直しだった。挑む相手が、抽象ではなく具体へ降りたとき、人は初めて歩幅を測り直せる。
帷の陰から祭祀長と団長が歩み出る。祭祀長は祝詞をひとつ結び、場の澱みをほどく。団長は配置を指でなぞるだけで伝えた。
「次に向く道が見えたな」
「見えました」
ゼンは静かに応じる。
「ただ急がない。いまは息を揃え、輪を崩さない。――拍は俺に先に触れる。ヤツの気配が濃くなれば、また受ける」
「助かる」
団長の声は短い。短いほど、重い。
男は顔を上げる。
「俺も……いけるようにする。挑戦は弱いものがまず踏み込む。次は、俺が踏む」
ゼンは否定しない。
「踏むときは、俺が間を取る。お前はただ、確かめたとおりに進んでくれ」
「はい」
男の返事は小さいが、骨に届く。
帷の外で風向きがわずかに変わり、乾いた草の匂いが細く混じった。巫女衆は鈴を足元に置き直し、藍の者は見張りを入れ替える。
輪は保たれたまま。供台の刃は相変わらず吸って吐くの間を乱さず、奥の黒を細く往復させている。ゼンは柄の冷たさを掌に薄く入れ、肺の底でひとつ拍を合わせた。遠い糸が、たしかに揺れ返す。
その頃、外縁では灰の匂いが薄れ、湿りの層が一枚剥がれていた。戻ってきた藍の先輩は布包みを供台の脇へ置き、短く報告する。
「二本刻みの口金、太鼓縁の縫い返し、右から左の結び。踏み跡は半歩引いて戻す癖。傷ついた蛇狩の流派の別筋で間違いない」
「拾えたか」
「必要なだけ」
藍の先輩はそれ以上を言わない。必要以上は、語らない。
トン……。遠くでひとつ、短い拍。返しはない。だが糸は切れない。祭祀長が目だけで合図し、団長が頷く。場は自然に息を整え、音のない音に耳を澄ます。




