武の流れ
よろしくお願いします
帷の内は眠りの温度をわずかに残し、薬湯と炭の匂いが薄く漂っていた。だが輪は働いている。巫女衆は結び目を確かめては締め直し、藍の者は外縁を掃き、焚き火は芯だけを保って帷の端に淡い色を落とす。供台の闇の剣は吸って吐くの間を乱さず、刃の奥の黒を糸のように行き来させていた。
「まだ、拍は続いている」
ゼンは刃に掌を添え、胸骨の裏でその間を測る。トン………トン………トン……トン……。遠いはずの太鼓が、皮の張りを少しずつ増して近づいてくる。
傷ついた蛇狩は壁に背を預け、水で喉の渇きだけを濡らしながら場の気配を目で追っていた。耳は拍を拾おうとしているのに、鈴は沈黙を守る。静けさは、嵐の前のものだ。
ゼンは男の前に膝を折った。
「作戦を伝える。――あれは、お前たちの一団と縁がある。闇まといに襲われたのも、切れずに残った枝のせいだと、俺は見ている」
男の眉がわずかに寄る。
「……縁、ですか」
「まず、俺が闇を梳く。葬黒の者がまとう層だけを剥がす。顔は見えずとも、手は見える。起こりも刻みも、足も。お前はそこで確かめろ。『誰なのか』を、ここで決める」
包帯の下の指が鞘口を探すように動く。男はゆっくり頷いた。
「やれるか」
「やる」
ゼンは短く返し、立ち上がる。
「合図は二度。最初は俺の祓い、次がお前の出だ。列は崩さない。俺が前で受け、間を開ける。お前はそこへ踏み出すだけでいい」
男は目だけで礼を言った。
「……挑戦は、弱いものがまず踏み込む」
低い声に、骨へ染みた掟の固さがあった。
拍が一段濃くなる。トン………トン………――場の端が薄く削がれ、風の層の重さが半分だけ増した。焚き火の灰が小さく崩れ、空気が一度だけ収束する。ゼンは刃を半寸抜き、伏せて腰を落とした。喉の奥で呼吸をひとつ沈め、胸で半拍ずらす準備を整える。
トン…トン、トンッ。間が詰まる。暗がりが帷の手前で凝り、ほどけ、ひとつの影に収まった。顔はない。だが印は揃っている。二本刻みの口金。半歩引いて戻す足。刺突の直前、乾いた木と硬い掌がこすれる柄の鳴り――稽古場の空気を帯びた音。
「いま」
ゼンは声にせず、刃で合図を送る。闇の剣の奥を一分だけ開く。吸って、吐く。黒が薄膜のような闇の層を梳き取り、地へ落ちる。
黒粉はすぐ土へ吸われ、鈴は鳴らない。影の輪郭の内側――手首の角度、肘の畳み、肩の沈みが、濡れた紙から文字が浮くみたいに際立った。
葬黒の者は動かない。起こりだけが用意され、踏み込みは半歩手前で止まっている。ゼンはもう一度、刃の奥をわずかに開き、まとわる闇を解いた。
目に見えぬ皮膜が二重、三重に剝がれ、空気の温度がすこし上がる。互いの半拍は、ぴたりとずれたまま揺れない。
「――いまだ」
ゼンは息を押し、背へ合図を落とした。
傷ついた蛇狩が前へ出る。歩幅は大きくないが、足裏の置き場に迷いはない。鞘の口金を親指で弾き、半身で角度を切り替える。肩を一枚落として喉の筋を伸ばし、起こりに遅れを出さぬよう刃の重みを掌へ移す。
「挑戦……は弱いものがまず踏み込む」
自分に聞かせ、同時に誰かへ届けるように言う。細いが途切れない糸の声が場の拍に乗った。
影は薄灰の層にほどけ、黒粉は舞わない。土がすべてを飲み、風が場の温度をひとつ戻した。
――同じころ、藍の先輩と新人A・Bは襲われた一団の跡へ入っていた。湿りを吸った土が足跡の縁を柔らかく膨らませ、倒れた太鼓の皮は風でかすかに鳴る。Aが膝をつき、草に半ば埋もれた口金をつまみ上げた。
「二本刻み……」
Bは倒木の陰から切り落とされた紐を拾い、
「結びが右から左へです」
藍の先輩は太鼓縁の麻を撫で、「縫いの返しも近いものを感じる。半歩引いて戻す足――この踏み跡、踵の砂の寄りでわかる」と静かに告げた。三人は目だけで頷き、拾った欠片を布へ包む。縁は切れていない――痕跡の形で、確かに残っていた。
「このことを伝えよう。帰還するぞ」
外では風向きがわずかに変わり、乾いた草の匂いが一筋まじった。巫女衆は鈴を足元に置き直し、藍の者は見張りを入れ替える。輪は保たれている。供台の刃は相変わらず吸って吐くの間を乱さず、奥の黒を細く往復させていた。
トン……。遠くでひとつ、短い拍。返しはない。だが糸は切れない。ゼンはその細さを胸に入れ、目を閉じた。導入は済み、展開は整い、転機は刃の起こりに潜む。余韻は静かな温度とともに沈み、次に向く時を待っている。二本刻みの起こりが、確かに道を選び取りつつあった。




