二本刻みの型の源流
よろしくお願いします
帷の内には薬湯と炭の匂いが薄く漂い、眠りの温度だけが残っていた。だが輪は働いている。巫女衆は布の結び目をほどいては締め直し、藍の者は刃の脂を拭い、焚き火は芯だけを明るく保つ。
供台の闇の剣は吸って吐くの間を乱さず、刃の奥の黒を糸のように行っては戻した。ゼンは負傷者の額に触れて熱を量り、次いで新人AとB、藍の先輩を呼ぶ。
「向こうの一団を洗う。倒れた太鼓、祭具の破片、得物の欠片――拾えるだけ拾え。拍の残り香は風下に溜まる。二手で入って合流、報告は短く早く」
「はい」
Aは即答し、Bは土の上に小さく印を刻む。
「外縁は私が行きます」
藍の先輩は穏やかに頷いた。
「戻りは二刻め。拍が濃くなれば、こちらが先に下げる」
「頼む」
ゼンは三人の目を順に受け止めた。彼らが帷の陰へ消えると、胸骨の裏の拍がわずかに強まる。遠いところから寄ってくる、あの間だ。配置をひと呼吸で見直すと、祭祀長が視線で了承を返し、団長は半身で見張りの交代を指した。
壁に背を預ける救助の蛇狩は、場の動きを目だけで追った。ゼンが近づくと椀を受け取り、水を一口含んでから低く言う。
「空気が……重くなってきますね。何かが近いのか」
「こちらで取る。お前は起きていていい。ただ、動かないことだ」
男は小さく頷く。鈴は鳴らない。だが風の層が一枚重くなる。輪の誰もが、音のない圧を皮膚で聴いた。
ゼンは供台から闇の剣を抜き、刃を伏せて腰を半寸落とした。喉奥の息を一段沈め、胸の裏で拍を受け、半拍ずらして返す。間が詰まる。前髪を押し返す風が一転、冷たく収束した瞬間、暗がりが手前で凝り、ほどけ、ひとつの影に収まった。
闇を纏うそれに顔はない。だが印があった。二本刻みの口金。半歩引く足。刺突の直前、乾いた柄の鳴り。ゼンは見るより先に体で受け取る。
「――葬黒の者よ、なにを求める」
返答は刃だった。正面の刺突、右斜めの斬り、背からの斬り上げ、左の打ち
――どれも拍の齟齬を生まず、遅れも作らない。
列が揺れぬ角度だけを正確に衝いてくる。受ければ一拍遅れる。遅れた分、次が噛む。だから受けない。ゼンは流す。刃はごく浅く伏せて鱗で擦り、三の爪で角度を欠かせ、尾骨の記憶で衝きを殺す。
黒粉がほろりと舞い、地が吸う。致命に届く手前で、必ず止まる。見せるための一太刀、二太刀。読みを確かめる舞だ。
帷の端で男が喉を鳴らす。影の足もとを射抜くように見つめ、指先は無意識に自分の鞘口の刻みをさぐった。
「……二本刻み。肘の内で抜く高さ。柄の鳴り――」
ゼンは振り向かない。だがその言葉は刃の起こりの裏側で確かに届く。影は半歩引いてまた寄せた。こちらの半拍ずらしに合わせ、さらに半歩の空白を差し出す。誘い。試し。伝え。
正面の突きが来る。ゼンは喉の前で半歩ずらし、突き足の爪先を軽く噛むように三の爪で押さえた。右からの斜め
――肩越しに折って、力の行き場だけ空へ逃がす。
背からの斬り上げは肘の内で抜き、残った風を尾の名残で払い落とす。左の打ちは柄で止めず、床の石へ滑らせた。刃は鳴らない。鳴るのは向こうの柄だけだ。
「磨かれているのに、わざと見せる手だ」
ゼンは息だけでつぶやく。
「殺すなら、もっと汚す」
拍が最も濃くなった刹那、闇は間合いの外へふっと退いた。刃は消えない。ただ位置を変える。ゼンが追わないと見るや、影はみずから半歩寄る。空白が開くたび、こつ、と柄が鳴る。昼間、傷ついた男が語った音と重なる。
壁際の男が呟く。
「親の代で分かれた縁……あの足だ。半歩引いて戻す。二本刻みは、向こう筋の印」
声に震えはない。ただ遠くを見る目だ。ゼンは角度だけをさらに細く変えた。受けず、殺さず、流す。影はそれを読み、なおも“見せる”。
刺突の起こりを大きく、斬り上げの溜めを丁寧に。殺しの手なら小さく速いはずのところを、あえて見せる。教える者の手つきだ。
「――見せる理由は、どこにある」
ゼンが問いを刃で投げると、拍の形が一度だけ緩む。遠ざかる太鼓の返し。影は致命の一歩手前で止まり、刃先を地に一分下ろした。顔はない。それでも視線だけがあった。刻みを見せ、足を見せ、柄を鳴らし
――次のために印だけ置いて、薄灰の層へほどけて消えた。
「逃げたのではない。離れただけだ」
ゼンは柄を握り直す。胸の裏の糸は切れず、北東へ細く続く。拍は遠い。だが在る。
男がゆっくりと立ち上がる。ふらつきはない。
「今のは……俺たちの流れの葬黒です。親の代で別れた師筋。二本刻みと、あの鳴りで間違いない。――あんたに、見せていた」
ゼンは男の顔を見る。頷きも否定もしない。ただ言葉を置く。
「受け取った。次は、こちらが辿る。だが、あいつを倒すのは、お前だ」
拍が遠のくと、場の温度が戻ってくる。巫女衆は静かに息を継ぎ、藍の見張りが外縁を払い直す。団長は短い指示を二つ、祭祀長は目の合図をひとつ
――輪は崩れない。
ゼンは闇の剣を供台へ戻し、手のひらに残る冷たさで自分の呼吸を均した。
「藍の先輩と新人が持ち帰る欠片で、確かめが利く」
団長が低く言う。
「二本刻み、半歩、鳴り――同じ向きを指すはずだ」
祭祀長は祝詞をひと筋結んだ。
「拍はまずお主に触れる。待つだけでなく、縁を辿れ」
ゼンは壁際の男に視線を返す。男もまっすぐ受けた。
「行けるようにします。……誰なのか、自分で見たい」
「息を整えろ。形は、こちらで取る」
ゼンは抑えた声で置き場を示す。言葉以上の約束を、互いに踏み出さないための距離だった。
外では風向きがわずかに変わり、北東の湿りに乾いた草の匂いが一筋混じった。胸の内で拍をひとつ合わせる。黒は細く往復し、糸は切れない。導入は済み、展開は整った。
転機は刃の起こりに潜み、余韻はこの静けさの底で深くなる。やがて藍の先輩と新人たちが戻るだろう。二本刻みの口金の欠片、擦れた太鼓の皮、乾いた木の鳴り
――拾い上げたものが今夜の“見せ手”と同じ方角を指すかどうか。
それを確かめ、縁を辿る。葬黒の者は遠ざかった。だが切れてはいない。見せて去ったということは、次があるということだ。
ゼンは供台の前に立ち直り、柄へ掌を一度だけ添えた。黒い呼吸が手の内で淡く脈を打つ。遠い。だが確かだ。名のない明るさが、闇の外縁で薄く灯る。輪は保たれている。次に向くとき、もう迷わない。二本刻みの起こりが、細く、しかし確かに道を選び取っていた。




