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とぐろ  作者: バトレボ
2章
24/43

起こりの問いかけ

よろしくお願いします

 闇は形を持たないまま、刃だけをこちらへ送ってくる。前、後ろ、左右――湿った草のこすれが先に鳴り、その直後、折れた槍の癖、使い込まれた刃の重み、柄のきしみが空気ににじむ。


 ゼンは一歩も退かず、迎えず、流す。受けてしまえば拍は一拍遅れる。遅れた分だけ次が噛み込み、列を揺らす。だから受けない。


 闇の剣の刃をわずかに伏せ、変異の鱗で擦り、三の爪で角度を欠かせ、尾の骨で余勢を打ち消す。脇をかすめる薄刃は肩の外で弾き、背からの斬り上げは肘の内で抜き、正面の刺突は喉の前で半歩ずらす。黒い粉がほろり散り、土が吸う。吸われた分だけ、場の匂いがわずかに人へ戻る。


「……致命に至る攻撃がない」


 呼気の深さを変えず、胸の裏で独り言が転がる。放たれる一太刀、一太刀の狙いは正確だ。間と角度は澄んでいる。技量がなければ致命に落ちるだろう。


 だが、届く前の“起こり”が、あまりに分かりやすい。首筋の産毛が立つほどの予告があり、刃の根元に溜まる気配が、誰かの稽古場の空気のように素直だ。見えれば避けられる。流せる。


 殺しに来る手はもっと汚い、と体が言う。闇はそれでも拍だけを合わせてくる。トン――、トン――。呼吸と呼吸の間へ粘りを差し入れ、焦らせ、急かす。


 ゼンは縦に裂けた瞳孔で暗がりの揺れを拾い、闇の剣の柄で軽く吸って吐き、拍を胸へ移していく。胸骨の裏で、細い糸がぴんと張られる。


 刃は増えたり減ったりしながら、こちらの合わせを観るように角度を変える。右からの斜めは鱗で鈍らせ、左からの打ちは柄で止めず、床の石へ滑らせる。受けない。受け止めない。


 当てず、殺さず、ただ流す。流すほど、向こうの“起こり”はこちらへ見せられてくる。足首を斬る構え、腋の下を突く気配、喉の間へ差し入れる角度

――致命を知りながら踏み込まない足取り。


 刃は人を落とすためのもののはずだ。だが、これはどこか違う。“伝えるために振るわれている”気配が、刃の根元の素直さにまじっている。


「何かを求めるような攻撃に感じる」


 ゼンは足裏で土を測り直し、吸って吐くの間を半拍だけ引き伸ばす。前からの槍を肩で折り、背の突きを尾で掃き、正面の刺突は喉前に半歩を差し入れてのぼせさせる。流れる黒粉が土に沈み、沈むたび、闇の層が薄皮一枚ぶん後退したように感じられる。


「葬黒の者よ」


 闇の奥へ、声にならぬ声を投げる。


「なにを求める。闇の奥にいるんだろ」


 返事はない。


 あるのは刃の数と、拍の粘りだけだ。だが、その拍がわずかに形を変えたことを、胸の内側が先に知る。トン……トン……。間が伸びる。


 遠い太鼓が谷ひとつ隔てて返ってくるときの鈍さ。刃の群れは次第に薄くなり、重なりはほどけ、草と土の匂いが勝ちはじめる。


「読みやすい」


 ゼンは低く言う。


「磨き上げられているのに、わざと見せている。……意図がある」


 遠目の誰かへ説明するでもなく、自分に向けて言い落とす言葉だった。刃があらわす“起こり”が、たしかにこちらへ提示される。殺意の角が少し丸い。踏み込めば落ちるが、引けば見える。


 その繰り返し。試されているのか。呼吸の置き場を、足の置き場を。あるいは、どこかに残った“縁”の名残りが、ここまで届いているのか。


 闇は答えない。けれど、拍の合い方がさらに変わっていく。トン……トン……トン……。一拍ごとに遠のき、厚みを失い、空気の湿りに溶ける。ゼンは最後の一筋を肘で抜き、柄で吸わせて地へ落とした。暗い層は残る。だが、震えは退いた。拍はある。遠のいている。切れてはいない。


 ゼンはひと呼吸だけ大きく息を落とし、鱗の気配を肌の内へ収める。三の爪は指へ戻り、尾の骨は背の奥へ沈む。変異の名残りが静まるにつれ、耳の内側で鳴っていた糸の震えも微かな線へ細った。


 風が道を撫で、草が平たく倒れる。遠くで鳥が一度だけ鳴き、同じ高さで空気がたわむ。


「まだ、切れてはいないな」


 誰にともなくつぶやき、ゼンは闇の縁を見回す。刃の群れが引いたあと、地面には擦れた跡が交差していた。槍の尻が叩いた丸い痕、足の裏がひねった浅い楕円、刃が石をなめた白い線。


 いずれも新しい。だが、人の体温の匂いがない。あったのは、たしかに刃だけだった。刃にすがる何か。刃を通じてこちらへ何かを渡そうとする手。もしそれが葬黒の者なら――


「なぜ、見せる」


 ゼンは自問する。見せるくらいなら、叫べばいい。呼べばいい。刃の代わりに言葉を寄越せばいい。けれど、あの夜のことを思い出す。


 封刻の儀が乱され、舞の末に交わした最後の言葉。良き舞だった、と。彼我の間に残ったものは、言葉より先に、技と拍だった。


 ならば、いまも同じなのかもしれない。言葉の届かないところを、刃でつなぎ直そうとしているのかもしれない。問いは答えに変わらず、胸の裏で丸くなる。


 風の向きがわずかに変わった。湿りは薄く、乾いた草の匂いが一筋混じる。闇はまた、トン……トン……と遠くを指した。


 ゼンは柄に添えた掌をわずかに押し、闇の剣の奥で呼吸を一度だけ長くさせる。吸って、吐く。黒が細い糸になり、土へ落ちる。場の拍が整う。


「切れてはいない。……なら、まだ届く」


 ゼンは片足を前に置き、肩の力を抜く。ここから戻るべきか、追うべきか。答えは出ていない。だが、出す必要もいまはない。拍が遠のいている。刃の群れは薄い。列は崩していない。


 ならば、呼吸を整え、歩幅を戻し、次に合う拍の準備をするだけだ。胸骨の裏に残った糸は、まだ北東を指している。遠いが、細いが、たしかに。


 足元の草が、ひとすじ音を立てた。ゼンはそちらへ目をやり、また闇の縁へ視線を戻す。闇はもう、刃を送ってはこない。ただ、遠いところでゆっくりと拍を刻む。トン……トン……。


 息を合わせろ、と言わんばかりに。ゼンはその拍と自分の拍を重ね、肩で一度だけ深い息を落とした。場の温度がほんの少し下がり、土の匂いが濃くなった。


 闇は去ったのではない。遠のいただけだ。切れてはいない。ならば、いつかまた、見せられる“起こり”がある。その時に遅れぬよう、受けず、迎えず、流せるよう、今はただ、拍を保つ。


 ゼンは刃を伏せ、静かに立つ。胸の内側で細い糸が、まだまっすぐに延びていた。



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