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とぐろ  作者: バトレボ
2章
21/43

拍の縁

よろしくお願いします

 谷の奥のさらに奥、岩棚の陰に、小さな祈りの跡がしがみついていた。短く結ばれた祝詞の帯は風に細くちぎれ、石の面には薄灰の粉が円を描いている。


 ゼンの胸骨の裏で鳴る拍は、その円からさらに細り、山裾の暗い樹間へと吸い込まれていった。襲撃したモノ

――葬黒の者か、その縁か。


 呼びは縁であり、弱りでもある。届かなければ、そこで切れる。切らせない。ゼンは浅く息を落とし、糸の張りを確かめた。


 痕跡をなぞって進むと、樹間の陰に組まれた簡素な囲いが現れた。枝と縄で急ごしらえに組まれた柵の向こう、まだ戦える蛇狩たちが身構える。


 刃先がこちらを測り、目の底で疑いが揺れる。闇の濃さに応じて呼吸は短くなり、しかし視線は折れていない。ゼンは得物を下げ、声を落とした。


「待て。俺たちは呪者じゃない。そちらの一団の生き残りが、我らの陣へ助けを求めに来た」


 互いに視線を交わし合ったのち、年長の蛇狩が一歩出る。


「ありがたい。助けが来た。……皆、もう少し踏ん張れ」


 囲いの奥で誰かの肩がわずかに上下し、安堵と疲労が同じ息に混ざった。乾いた血と薬草と煙の匂い。ここまで耐えてきた時間の層が、声の端に乗っていた。


 ゼンは頷き、新人AとBへ目で指示する。Aは退路の草を踏んで固め、目印を刻む。細い枝へ裂いた布をくくり、低木の影に連ねていく。


 Bは外縁の死角を一つずつ潰し、寄せてくる黒の気配を掃いた。地の上の粉を払い、足場の緩む場所には短い合図を置く。動作は速いが荒くはない。訓練の拍が身体で鳴っている。


 「来たのは葬黒の者……の“ようなもの”。ひとつの影が、時に群れのように増え、薄れては溶けた。刃を当てると音が遅れて返り、太鼓の拍が合わなくなる。最後は形を崩しながら闇へ沈んだ」


 年長の報せは切り分けられ、無駄がない。ゼンの耳の奥で糸がかすかに震える。呼びは薄く、しかし切れない。掌の闇の剣は一定の拍で応え、遠い拍と互いを探り合っている。


「撤退路は三本作る。Aは東の浅い沢、Bは西の尾根筋。俺は中央の谷筋を掃く」


「はい」「了解しました」


 歩ける者が歩けぬ者を支え、帯が列の間に渡される。闇の濃い箇所では帯がわずかに震え、鈴が息ほどの音で答えた。


 額の汗は冷たく、喉は渇いているが、列は崩れない。ゼンは刃先で細い障りを梳き、人の歩幅と拍の向きを合わせていく。闇はまだある。だが、運べる。


 退路に入ると、呪者がまた立った。黒粉をまとった膝が折れながらも、拍に引かれてこちらを向く。骨の継ぎ目だけが器用に働き、残った肉は音の遅延のように揺れる。


 ゼンは半歩、二歩と間を測り、肩の付け根と肘の間を抜いて動きを止める。Aは背を守り、Bは列の後尾で粉を払う。恐れは消えない。だが置き場はずれない。呼吸の位置、踏みの深さ、視線の高さ

――語らずにそろう。


 谷の口が見えはじめた頃、風向きが変わった。北東からの重い湿りがわずかに退き、乾いた草の匂いが一筋流れ込む。


 地表の薄い砂がかすかに鳴り、空気が一段軽くなる。1団がいた場所にいた生き残りも連れてきた。襲われてはいないようで安心した。


「ここで一息。水を回せ」


 ゼンが声を落とす。皮袋が順に渡り、喉を通る音が生の重さを確かめさせる。掌から掌へ移る冷たさに、列の緊張がわずかにほぐれた。


 遠くで鳥が短く鳴き、誰かが顔を上げる。空は薄灰。だが灰は動いている。雲の向こう側で、日にわずかな意思のようなものが張っている。


ゼンは年長に向き直る。


「拍は聞こえるか」


年長は目を瞬かせた。


「……拍、とは?」


別の者が首を振った。


「何も。風と倒木の軋みだけです」


「わかった。こちらで合わせる」


 ゼンは胸骨の裏と刃の拍を揃え直す。彼らに届かぬ音でも、歩幅は重ねられる。拍は目に見えない道標で、呼吸の置き場所だ。列はふたたび動き、浅い沢の水が足首を洗った。


 冷たさが一度、身体の縁を確かめる。呪いの匂いが薄皮一枚はがれたように軽い。東の斜面の目印に差しかかり、Aが先に上って手を伸ばす。Bは最後尾を見渡し、取りこぼしのないことを確かめた。


「助かった。……助かったで済まぬが、言わせてくれ」


 年長は息を短く吐いた。声の奥にまだ震えが残っている。ゼンは首を横に振る。


「言葉は軽くない。受けて、前へ渡す」


 受け渡しは祈りの一部だ。鈴がひとつ、帯に触れてかすかに鳴る。響きは小さいが、列の背骨がそれを拾った。


 山陰の向こう、環守の方角から、かすかな応えが戻ってくる気がした。気のせいかもしれない。だが、闇の剣は一定だか、北東からの呼びが降りていた頃より近づいてきている。


 今日の務めはここで切るべきだ。列を崩さず、息を失わせず、戻すこと。戻してから、もう一度向きを定めること。


 尾根に乗る直前、ゼンは一度だけ振り返った。祈りの跡の岩棚へ、薄灰の糸がまだ伸びている。耳の内側で、聞き取れない囁きがかすかに触れた。意味は結べない。だが、在ると知ることはできる。存在だけを受け取り、歩みを前へ返す。


 斜面の向こうへ出ると、風の層が替わった。湿りがほどけ、代わりに薪の匂いが微かに混じる。遠い方角、環守の陣の焚き火の気配かもしれない。列の足取りが一様にわずか軽くなる。


 Aは前を見て、足元の小枝を払う。Bは後ろを見て、帯の緩みを締め直す。年長は肩で一度息を受け、支える腕の力を配り直した。皆、自分の色のままに立っている。そこへ、ゼンの拍が薄く上から重なる。誰ひとりはみ出さないように、誰ひとり置いていかないように。


「ここを越えたら、いったん視界が開く。そこで列を整え直す」


 ゼンが合図する。言葉は少なく、足音は揃う。草いきれに混じって、土の底のざわめきがかすかに遠のいていく。闇はまだある。だが、運べる。


 運ぶほどに、どこかで誰かが息を継げる。ゼンはそれだけを胸の芯に置き、闇の剣の拍と皆の歩幅をひとつにした。


 尾根を越える風の手触りが変わる。皮膚に沿って走る冷たさの線が、先ほどより細い。灰色の空は相変わらず低いが、灰は薄く動いていた。列は崩れない。崩さないために、今は戻る。戻ったのちに、もう一度北東へ向き直る。


最後尾が尾根に乗り切ったのを確かめ、ゼンは再び振り向かずに歩き出した。灰の拍は徐々に近づいてきている。次のために、今日の呼吸を整えておく。


 足裏で土の強さを測り、背で列の熱を受け、胸で刃の拍を受け渡す。祈りの円から延びた糸は切れていない。環は、まだ守られている。



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