呼ぶ拍に導かれて
よろしくお願いします
鈍い朝の匂いが地面に張り付き、夜露を吸った土は指で押せばゆっくり戻った。草の先の水粒は薄曇りの空を小さく抱き、風は湿りを含んで重い。
ゼンは得物を肩へ滑らせ、新人Aと新人Bを連れて山道へ入る。供台を離れても、闇の剣の拍は胸骨の裏で淡く打ち続け、北東へ細い糸を引いた。
尾根を踏み越えると、空気の密度が一段変わる。葉の表面に浮いた鱗めいた紋が黒光りし、土の匂いの奥から古びた鉄のにおいが糸のように立ち上がる。Aが囁いた。
「ゼンさんが封刻の儀で闇の剣を受け取ってから、闇と呪いを久しぶりに感じる」
Bは息を短く切り分ける。
「ないほうがいいのですが、ないと落ちつかない。呪いがあると……感覚が鋭くなりますね。呪いの臭いがします」
「鋭さは頼りにも刃にもなる。置き場を間違えるな」
ゼンは足を止めず言う。
「耳が地の奥とつながるようです」
Aは感じる。Bも続く。
「甘い腐れの手前、湿った粉の匂いがします」
闇が身近になるほど二人の声は余計な水を落とし、対照的にゼンの輪郭は薄闇の中でわずかに明滅した。Bが問う。
「呪いと闇の感覚は変わりますか」
「濃くなっている。呼びが強い。拍が急がせる」
ゼンは斜面の傾きを測り直し、低く告げる
「注意して進むぞ」
「右肩下がりで足場が悪いです」
「三歩先に倒木があります」
AとBが情報を告げる。
「一旦、息を置け。拍に合わせろ」
灌木の切れ間から斜面が抜け、谷底の気配がまとまって立ち上がる。生き物の匂いの上へ、別の層がかぶさるのが分かった。
山を降りきった先は呪いで満ち、倒れた者が黒を吸っては吐き、やがて立ち上がる。ほんの少し前まで人だった影が、闇の方角へ顔を向けた。
ゼンは腰の拍をひと段落として身構え、AとBへ伝える。
「生者の匂いは薄い。だが、完全じゃない」
「呪者が起きる。来るぞ」
草の陰から最初の影が立った。黒を含んだまま骨の継ぎ目だけで動き、潰れた眼窩の奥で拍に反応する。ゼンは半歩踏み込み、刃を伏せて肩口を断つ。
溢れたのは血でなく黒い粉。粉は地へ落ち、地が吸う。闇の剣は呼吸をひとつ置き、また一定に刻んだ。
「右、二」
Bの声。Aは踏み足を低くして一体の膝を払って倒し、喉から上を切り離す。Bは背に回り、腰を抜くように払って関節をまとめて落とした。訓練の型が、恐怖で早まることなくそのまま出ている。
「前へ。生き残りを探す。無理はするな」
ゼンは拍を二つ打ち、歩幅を再開する。
谷の中央へ近づくほど戦いの痕は濃くなった。倒れた太鼓、砕けた祭具、柄だけになった得物。呪者になり切らず横たわる蛇狩の口元に乾いた黒がたまり、掌はなお土を掴む形だ。
「……息」
Aが指した荷駄の影に、小さな呼吸の起伏。若い蛇狩だ。胸の中央で黒が鈍く鳴る。ゼンは柄を胸元へ添え、吸って吐くの間に刃の奥をひと瞬開く。黒は糸になって剣へ移り、地へ落ちた。
「まだ大丈夫だ。ここで待て。A、目印を」
Bは外縁の呪者を掃き払い、二呼吸で戻る。
「奥に拍がある。人の拍です。弱いが連なっています」
「呼びの方向と合うか」
「合致します」
さらに奥、浅い窪地で群れが蠢いていた。中心に倒れた太鼓。風で皮がかすかに鳴るたび、動きが一瞬遅れる。
「皮が鳴ったら入る。俺が左、Aは右から、BはAのヤツを背から首を落とせ。三歩で終わらせる」
拍を三つ数え、四つ目で踏み込む。刃が音より先に走り、ゼンは肩と肘の関節を抜き左にいた呪者の首を、Aは右の呪者を誘導し、BはAが誘導した呪者の脊から首を払う。黒が舞い、地へ降る。
三歩で輪が崩れ、中心に三人の蛇狩が寄り合うように倒れていた。全員が浅く息をし、胸の上で黒が鳴るたび太鼓の皮が返すように微かに揺れる。
「生きています」とA。
「二人は軽い、ひとりは深い。でも拍はあります」とB。
ゼンは順に胸へ柄を当て、吸う間をわずかに長くした。濁りが薄れ、喉が少し楽になる。呼ぶ拍は強くも弱くもならず、ただ北東のさらに奥を指し続けていた。まだ終わりではない。
助けた者を襲われないように降りてきた山の方へ連れていき、保護した。呼ぶ拍は谷の奥のさらに奥、届かなければ、そこで切れる。切らせない。ゼンは浅く息を落とし、糸の張りを確かめた。




