北東の先に呼ぶモノ
よろしくお願いします
負傷した蛇狩のまぶたがかすかに震えた。視線は最初、帷の継ぎ目をぼんやりとなぞり、次いで天井の暗布を滑り、最後に祭祀長の白い髭で止まる。
「ここは?」
「環守の陣だ。安全は保っておる」
祭祀長が脈を数え続ける指先は乱れない。
「俺はゼンだ。楽にして、息を整えろ」
蛇狩は焦点を合わせるのに少し時間を要し、やがてゼンの顔に視線を結ぶ。
「ゼン……その色は」
かすれた声が驚きと戸惑いを同じ割合で含む。暗い帷の内でも、彼の輪郭には白とは呼べぬ明るさが、冷たい燐のように薄く灯っていた。
新人Aが膝をつき、椀を差し出す。
「呪いは抜け始めております。水をどうぞ」
団長が短く問う。
「誰に襲われた。数は」
傷ついた蛇狩は水を飲み答える。
「ありがとう。襲ってきたモノは葬黒の者ひとり。だが、群れのようでした」
水は喉の砂利をゆっくり流し、乾いた胸腔に人の重さを戻した。蛇狩は胸に掌を当て、脈の震えを確かめてから言葉を継ぐ。
「北東の尾根で空気が重くなり、太鼓がひととき合わなくなった。闇の塊が人の形へ収まり、そこから刃が出る。斬り結ぶ手は、見えない周囲の何かにも同時に抗っていた。音の届かない場所で、音だけが反響している……そんな戦いでした」
ゼンは黙って耳を傾け、眼差しだけで続きを促す。団長は時と距離、人数の推移を手早く並べ替える。祭祀長は脈の速さを掌で確かめ、「わかった」とだけ言って肩の力を抜かせた。
蛇狩は眉間を寄せ、低く吐き出す。
「葬黒の者の呪いは身体深くまで入っていました。黒が骨の裏で鳴る感じがして。でも、ここへ着いてから……抜けました。闇が土に吸われるみたいに」
「供台の刃が吸ったのじゃ」
祭祀長が穏やかに答える。
「この地の拍が、おぬしの闇を分けた。いまは息に差し障りはない」
ゼンは供台へ視線を送り、柄の冷たさを思い出す。
「呼びはあなたの一団の方角とも合う。葬黒の者か、その縁か。なぜ剣が呼ぶのかは、向こうを見ないとわからない」
「行くのか」
「承知しておる」
団長が短く言い、祭祀長が重ねる。
巫女衆は包帯を締め直し、目だけで〈ここは任せよ〉と告げた。薬湯の香がわずかに強くなる。
偵察で拾った拍、蛇狩の言葉、闇の剣の震え――三つの情報が同じ面に置かれ、北東の一点で重なる。近くはないが、遠いとも言い切れない距離。呼びは縁の呼びであり、弱りの呼びでもある。呼ばれる側は、自ら呼んでいることに気づいていないかもしれない。
ゼンは立ち上がる。輪の端で新人AとBが並び、鞘の口をもう一度確かめた。Aの手の甲は汗で濡れているが、握りは深く安定している。
Bの視線は低く、列の歩幅を測るように床の編目を追う。団長は三呼吸で配置を決め、祭祀長は道を記す短い祝詞を置く。巫女衆は薬湯の火を落とし、負傷者の枕元へ小さな鈴をひとつ置いた。鈴は鳴らず、ただ在る。
ゼンは闇の剣に掌を添える。氷のような冷たさはすぐ、掌の熱で馴染みに変わる。刃の奥の黒が呼吸と同じ間で脈を打ち、北東へ薄い糸が伸びた。帷の内の音が一瞬だけ退き、拍だけが浮かび上がる。理由は歩きながら問えばよい。いまは拍をもらい、拍を返す。
「出る」
それだけ告げて帷をくぐる。地の固さが足裏に戻り、空の底の灰色が目に入る。背後で祭祀長が「守れ」と短く言い、団長が「任せた」と重ねる。
「はい」新人二人の声が同じ高さで返り、列の呼吸が一段落ちた。
北東から風が少し強まる。葉の鱗模様が光り、遠くで鳥が短く鳴く。土の底のざわめきに、先ほどよりはっきりした拍が混じった。呼びは確かだ。
縁がほどけぬうちに、こちらも歩を乱さず届くこと
――それが、いまの仕事のすべて。
帷の内では清水が額を冷やし、鈴がかすかに触れ合う音を立てた。闇はまだある。だが、運べる。運ぶほどに、どこかで誰かが息を継げる。ゼンは刃の拍と自分の拍を重ね、北東へ向かった。




