新たな縁
よろしくお願いします
鈍い朝の匂いがまだ地面に張り付いていた。夜露を吸った土は指で押せばゆっくり戻り、草の先に残る水の粒は薄曇りの空を小さく映す。
ゼンは得物を肩に載せ、新人Aと新人Bを連れて輪の外縁へ出た。供台を離れても、闇の剣の拍は胸骨の裏に薄く残り、北東の方角へ細い糸を引いている。
逃れてきた蛇狩はまだ意識が戻らない。目覚めを待つ間にも、外の様子をひとつでも多く拾っておきたかった。
踏み跡は浅く、風は湿り、葉の表面に浮いた鱗の紋が鈍く光る。獣道の土には蛇腹の擦過痕がいくつも走り、乾いた箇所では粉じんが足裏にまとわりついた。ゼンは歩幅を落とし、喉の奥で息を低く整える。耳の奥で、剣の拍に似た小さな鼓動が重なる。
「こちらへたどり着いた救援者はみたか?」
Aが一歩詰める。
「はい、一人だけです。道筋に血と黒い粉が点々としていました」
Bは周囲を払う目で続ける。
「到達は明け方です。追っ手の気配は途切れていました」
「闇の匂いは?」
「薄くはありますが、流れております。北東からでした」
「闇の剣の震えと向きが合致しているように思います」
「距離はまだあるが、拍が近づいている。前へ出る」
三人はそこで言葉を止め、足音と呼吸だけを持ち物にして進んだ。谷の入口では、乾いた草が一帯に倒れている。倒伏の縁は丸く、中心に黒い粉が薄く溜まっていた。
風が粉を拾って舞い、陽をかすめた瞬間だけ灰の色へ転ぶ。鼻腔に冷たい鉄の匂いが混じる。
「七祓いのあとに似ています」
とAが小声で言う。
「ただ、ここまで広くは……」
「拍の向きはぶれません」
ゼンは柄に触れず、掌をひらりと返す。胸の裏の糸はぴんと張れ、震えの間だけ細る。
呼びの理由はふたつ
――縁か、弱りか。
どちらでも、輪を急いで乱すべきではない。低い灌木の陰に身を沈め、膝で土の温度を受ける。遠くで、太鼓の皮を指で弾いたような、瞬きほどの空気の張りが走り、すぐ無音へ戻った。鳥が一度だけ短く鳴き、その向こう側で風の層がわずかにずれる。
環守では、巫女衆が負傷者の治療にかかりきりだった。煎じた薬湯の苦い香りが帷の内を満たし、清潔な布は湧き水の冷たさを残す。
祝詞は短く確かに結ばれ、結び目ごとに空気の澱みがほどけていく。額の熱はまだ高いが、脈は指先へ戻ってきていた。祭祀長は数える指を止めず、団長は出入りの管理と外縁の目配せを締め直す。
子らは袖の陰へ寄せられ、焚き火の熱を少しだけ上げる。香の渋みが空気を締め、足音は自然と浅くなる。
短い偵察から戻ったゼンは、供台に視線だけを触れて報告をまとめた。
「呼びは北東。拍は一定。倒伏の痕が広く続く。黒は薄いが新しい。剣は強くも弱くもない、ただ向いている」
団長が頷き、祭祀長が「わかった」と短く返す。ゼンは続けた。
「次に動く前に、ここへ来た経緯と向こうで何が起きたか――目覚め次第、すぐ確かめたい」
新人AとBは得物を拭い、水を替え、鞘の口を確かめる。金具が指先で乾いた音を返した。
「次はどうなるだろう?」
「わからないけど、何があってもいいように用意しておこう」
「それもそうか」
場の呼吸が一段落したころ、負傷した蛇狩のまぶたがかすかに震えた。視線は最初、帷の継ぎ目をぼんやりとなぞり、次いで天井の暗布を滑り、最後に祭祀長の白い髭で止まる。
喉が一度鳴り、乾いた息が細く出た。輪の気配が、その一息を静かに受け取る。巫女衆の掌が額の汗を拭い、鈴の玉が布越しにわずかに触れ合う。ゼンは一歩だけ前へ出て、呼吸をそろえた。
胸の裏で、闇の剣の拍がふたたび細く糸を引く。
北東
――その方角の灰が、目に見えぬまま濃くなる。




