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とぐろ  作者: バトレボ
2章
17/43

刃の拍、環の息

よろしくお願いします

 供台の前で、ゼンは柄へ掌を置いた。闇の剣は確かに震えている。刃が鳴るのではない。刃の奥、黒そのものがどこかへ引かれるように細く揺れていた。


 耳ではなく、掌の皮下で聴く拍

――遠い場所で、同じ質の鼓動が打たれている。


 吸う、吐く、吸う。その合間に、見えぬ高鳴りが一拍ぶんだけ顔を出しては、すぐ沈む。祓いで磨かれた場の静けさの中で、そのわずかな差だけが逆に際立った。


 火の向こうで見張りが短く叫び、砂利を蹴る連続音が続いた。飛び込んできたのは新人Aと新人B。二人は肩で荒く息をしながら、互いの肘で体を支え合い、傷だらけの蛇狩を運び込む。


 足が地を離れるたび、乾いた黒がぽろぽろ剝がれ、土へ吸い込まれた。鉄と薬草の匂い、焦げた布の匂いが、煙の層を割って広がる。輪の視線が自然に一点へ集まり、焚き火の赤がその顔貌を薄く縁取った。


 安全な場所へ下ろすと、蛇狩は糸の切れたように気を失った。祭祀長が脈を探り、巫女衆は水で布を湿らせ額と喉を冷やす。団長は外縁へ短い指示を飛ばし、輪の間隔を詰めた。


 緩みを残さぬための動きは短く、よどみがない。ゼンは膝をつき、負傷者の呼気の浅さを確かめ、それから視線を落として問う。


「――何があった?」


AとBが目配せをし、息を揃える。


「この方の一団が、何かに襲撃されました。詳しくは……目を覚ましてからでないと」


 二人の声には震えがなかった。恐怖は通り過ぎ、いまは伝えるべき順に言葉を並べることへ集中している。それでも、言い終えた直後に指先だけが小さく強ばった。


 ゼンは小さく頷き、闇の剣へ視線を戻す。黒はなお薄く引かれ、吸う、吐く、吸う

――その合間の微かな昂ぶりが、はっきりと鼓動に変わっていた。


 遠くで応じる拍がある。こちらを求める手が、細い縁で繋がっている。託された刃は、その縁に触れれば道を見せる。


「団長、祭祀長」


ゼンは立ち上がった。


「剣が指しています。向こうで、なにかが起きている」


団長は即座にうなずく。


「わかった。だが、まずは彼を――」


「任せておけ」


 祭祀長は目を伏せ、短い祝詞をひと筋結んだ。掌の上で言葉が静かに形を取り、空気の層へ沈んでいくのが見えるようだ。


「お主は刃の示す先を見よ。ただし独りでは行くな。息の合う者を連れてゆけ」


「はい」


 ゼンは柄にもう一度掌をのせ、拍を胸へ移す。胸骨の内側が薄く鳴り、その音に合わせて土の上の歩幅が整った。背後で藍の者と茶の者が無言で支度を始める。


 腰の革の鳴り、鞘の口金が触れる微音、手綱の締め直し――場のわずかな生活音すら拍に吸い寄せられ、秩序の一部になる。伏せられた太鼓の皮が、風でわずかに震えた。まだ音は起きない。だが、拍はもう満ちている。


 負傷者のまぶたが一瞬だけ痙攣し、すぐに静まった。祭祀長の掌が額に残り、巫女衆の布が喉の汗をひと拭いする。団長は輪の外を走る足の配列を目でなぞり、それぞれの位置に無駄がないかを確かめた。


 新人AとBは自分の刃を拭い、鞘の口を確かめ、頷きで互いの準備を確認する。誰も声を荒げない。大きな音は必要ない。場はすでに、息で動いている。


 ゼンは供台へ身体を半歩寄せ、闇の剣の柄を握った。掌へ吸い付く冷たさがたちまち馴染みに変わり、刃の奥の黒が先ほどより明瞭に方角を示す。震えは凶兆ではない。


 呼びかけだ。遠くで結び直されようとする縁が、こちらの息を求めている。背の筋が自然に伸びる。刃を持つというより、場の拍をかたどった何かを肩に載せる感覚に近い。


「――新しい鼓動か…」


 ゼンのひと言に、輪の呼吸が重なった。巫女衆の袖が微かに揺れ、伏せた太鼓の皮が空気の流れで小さく鳴る。歌はまだ眠っている。


 けれど、拍はある。どこかで誰かが息を継げるように、ここで誰かが息を落とす番だ。落とされた息は土へ沈み、土の底のざわめきに小さな秩序を与える。


「行こう」


 ゼンは低く言い、刃をわずかに伏せる。闇の剣は土の呪いをひと吸いして、静かに沈黙した。祭祀長が道を記す短い祝詞を添え、団長は見張りへ合図して外縁を固める。輪は狭くなりすぎず、広がりすぎず、踏み出すための余白を保った。


 遠い方角の夜が、微かに動いた。見えない波が地の底を渡り、こちらの拍と重なってくる。ゼンはその重なりを胸で受け、背へ通し、足裏で確かめた。環は保たれている。


 だが、環の外で、別の環が軋みを上げている。その音はかすかで、しかし途切れない。いまはまだ名がないが、名がなくとも向かうべき方角はある。


 彼は一度だけ帷の方角を振り返った。そこには、いく度も立ち戻ってきた場所の色と温度がある。戻るべき場所があるからこそ、出ていける。


 ゼンは視線を前へ戻し、闇の剣の柄を握り直す。掌の皮膚がわずかにきしみ、体の重心が半歩だけ前へ移る。呼吸がひとつ分、低く落ちた。


 新人AとBが列の最後尾に入り、藍の者が前へ、茶の者が左右を固めた。誰もが自分の色のまま、他の色を侵さない間合いで立つ。色が保たれているから、輪になる。輪であるから、拍が配れる。拍が配れれば、恐れは散り、必要な場所にだけ集まる。


 夜気が鼻腔を冷たく抜けた。遠くの梢が擦れ、乾いた葉がひとつ落ちる。見張りの短い呼気、祭祀長の祈りの終わりを示す微かな吐息、団長の靴底が砂利を踏む音

――ばらばらの音が、いつしか同じ間に入ってくる。


 応えるように、遠い拍が一段だけ近づいた。見えない道筋が、夜の層のあいだに細く現れる。細いが、切れていない。切らさないための歩幅は、ここで決まる。


 輪の外では、まだ別の輪が軋んでいる。どんな姿の敵か、どんな呼び名を持つ災いか、いまは分からない。分からないままでも、近づけるし、支えられる。闇はまだある。だが、運べる。運ぶほどに、どこかで誰かが息を継げる。


 ゼンはもう一度だけ頷いた。自分へ、輪へ、遠い拍へ。刃先の向きが、揺らぎなく方角を選び取る。祭祀長が袖を静かに下ろし、団長が短く手を上げる。合図はそれだけで足りた。誰も「行け」とは言わない。言わずとも、もう始まっているからだ。


環守は、静かに動き出した。



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