環を守る名
とぐろ1章完結です。ありがとうございました
封刻の儀は、思わぬ形で幕を閉じた。儀は中断され、戦いへと姿を変え、残されたのは“封じられたもの”ではなく“書き換わったもの”。
彼の内に渦巻いていた呪いは、葬黒の者との交差のたび意味を組み替えられ、最奥に、あの者の記憶が薄紙のように重なっている。
触れれば剝がれそうで、しかし確かに温度だけは残る紙片だ。誰もが終わりを覚悟した場で、終わりは別のかたちを選んだ。
夜が深む。火が増え、器が輪にならび、笑いが幾層にも重なる。久しぶりの明るさに戸惑いながらも、杯はすぐ手に重みを覚えた。巫女衆は太鼓の皮を撫で、音の残り香を指先で確かめ、蛇狩たちは肩を寄せて一手ごとを語り直す。
土の匂いは、焦げと香と汗に薄められ、人の暮らしの匂いへ帰っていく。団長は子の頭を撫で、祭祀長は煙の行方を目で追い、折々、目を閉じて息を整えた。輪は崩れず、拍は土の下で脈打つ。
「皆、聞いてほしい」
彼が唐突に立つ。火がひときわ小さく鳴き、輪の呼吸が止む。闇を圧して剣の形に整えられた得物は掲げない。脇に置いたまま、言葉だけを持ち上げる。場の熱が、彼の声の温度にゆっくり合わせられていく。
「封刻の儀、感謝する。俺の最期の願いを聞いてくれて。……葬黒の者が来た時、自分とあいつを重ねてしまった」
ざわめきはない。彼は淡々と、戦い抜いた呼吸をなぞるように語る。
最初の受け、二度目の返し、三度目の間合い。
四度目で迷いが消え、五度目の音は澄み、六度目の交錯の奥で、名のない明るさが覗いたこと。
言葉は少ないのに、誰もがその場景を脳裏に描けた。彼と葬黒の者の舞は、血の色ではなく、息の置き場で交わっていたからだ。
「最期に、あいつは言った。“ありがとう。良き舞だった”と。……それから、名も」
火が一度だけ高くなり、すぐ低く沈む。遠くで子の笑いが細く切れて、また戻った。
「葬黒の者がいたことを語り継ごうと思う。あいつから名をもらった。“ゼン”とな。俺はそれで呼ばれる。……そして、この一団には“環守”であってほしい。今日のように環を守り、回し続けてほしい。俺の色で誰かの色を塗りつぶすためじゃない。色を保ったまま、黒の際に立てるように」
新人の目が濡れ、藍の者は静かに頷き、茶の者は掌を握り直す。団長は杯を置き、祭祀長は目を閉じ、短い祝詞を心に結んだ。名が置かれると、場の重みはたしかに整う。名は札ではなく、息の置き場
――輪の一角が、音を立てずに強くなる。
「ゼン」
団長が試すように呼ぶ。
「はい」
彼は笑って応える。呼ばれ方ひとつで、肩の力が抜け、輪の中心にひとつ空気の柱が立った。
宴は続く。だが酔いは浅い。誰もが明日の形を思いながら、今夜の温度を確かめるように杯を重ねた。巫女衆は祭具を布で包みつつ、太鼓の皮に残った塩を指先で払い、互いの掌で短く合図を交わす。
蛇狩たちは焚き火の縁を少し広げ、居並ぶ色の順が崩れないよう、自然に場所を譲り合った。闇の剣は供台の端に置かれ、近づく者は一礼して離れる。剣は刃こぼれもなく、土の呪いをゆっくり吸い、吐く。
吸うたび匂いがやわらぎ、吐くたび夜が澄む。まるでここが井戸の口で、皆の呼吸が深い水脈と繋がっているかのようだった。
「ゼン」
祭祀長が最後に立つ。火の明滅が、白髭の影を短く揺らす。
「お主の“戻り”は祝福であり、課題でもある。戻った者がどう歩むか――誰も知らぬ道じゃ。だが道は、歩けば細くとも筋がつく。筋がつけば、次の者が踏み直せる」
「わかっています」
ゼンは頷く。
「俺は歩く。環を守りながら、次へ渡すために」
団長が横で小さく息を吐く。
「見張りの輪は、今夜は薄く広くでいこう。闇の剣が吸う間、場を荒立てるな。……それと、明朝の型は短く、濃く」
「承知」
巫女衆が答え、太鼓の胴に手を添えて一礼した。新人たちは互いの掌を合わせ、ほどけぬように片方ずつ離す練習をしている。誰もが、自分の色のまま立っていた。色の違いは、輪の厚みになって場を支える。
夜がほどけ、薄明かりが地の縁をなぞる。焚き火は小さくなり、煙は低く流れ、鳥の声が遠い。ゼンはひとり、闇の剣の前に立った。
柄へ掌を置くと、金属にはない微かな呼吸が掌へ移ってくる。深く礼をすると、剣は返礼のように息をし、静けさを土の底へ落とした。胸の奥で、あの言葉をもう一度だけ反芻する
――ありがとう。良き舞だった。
短い言葉の奥で、逃げた気持ちも、堕ちた悔いも、祓われたい望みも、等しく均されている。
封刻の儀は形を変えて終わった。終わりは始まりに食い込み、環はまた回り出す。環守としての最初の朝、ゼンは土を踏みしめ、息を落とし、列の先へも後ろへも同じ歩幅で目をやった。
どちらにも次がいる。どちらへも明るさは運べる。彼の内側で、葬黒の者の記憶は、言葉にならない重さとして安置されている。重さは足を沈めるのではなく、踏み込みの角度を正す。
「回そう」
低く言い、顔を上げた。黒はまだある。だが、運べる。運ぶほどに、どこかで誰かが息を継げる。今日の一線が空を切ったことも、刃が地へ刺さって終わったことも、やがて語り草になるだろう。
名のない明るさの名は、いつか誰かが見つける。見つからなくても、輪は回る。型は壁であり、門でもあり、門の蝶番は音の少ない方がよい
――そんな当たり前を、今朝の空気が教えてくれる。
太鼓はまだ鳴らないが、土の下では拍が確かに満ちていた。巫女衆は伏せた胴の縁を撫で、蛇狩たちは無言で列を整える。団長は子の額に手を当て、祭祀長は東の白みへ短い祝詞をひとつ縫い込む。
ゼンは列の中ほどに立ち、息を合わせた。誰かの肩に重みが寄れば、自分の肩を少し下げる。自分の膝が危うければ、隣の足音に合わせて角度を正す。
環は保たれ、環は守られ、そして環は続く。
夜の底で交わされた名もなき約束は、朝の土で静かに実体を得た。ゼンは一歩、踏み込む。音はしない。だが、輪全体がわずかに前へ進んだことを、皆が同時に知った。




