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とぐろ  作者: バトレボ
1章
13/43

環の音が晴れる夜

よろしくお願いします

 七度目の交錯は、訪れなかった。


 彼の一線は確かに空を裂いたのに、葬黒の者の得物はその線を追わず、地へ深く刺さって止まる。刃は震えもせず、終結を指す杭のように黙した。張り詰めた空気が、そこでふっとほどけた。


「ありがとう。眠れ」


 静かな声が、闇の膜を一枚はがす。次の瞬間、場の緊張が割れ、幾筋もの歓声が夜へ解き放たれた。泣き声と笑い声が同じ高さで交わり、肩を抱き合う音、甲高い息、太鼓の皮が余熱でぱちんと鳴る微かな音まで戻ってくる。


 蛇狩たちは口々に「生涯忘れぬ」と語った。彼と葬黒の者の舞は、完成されすぎていた。受けと打ち、返しと切り落とし

――一手ごとの沈黙の呼吸が、血よりも先に守るべきものを示していた。


 まるで同じ土、同じ稽古場で型を覚えた二人の再会のように。


 巫女衆は、普段は裏へ溶ける袖を夜風に揺らしながら、息を弾ませ互いの肩を叩く。恐れと達成の熱が胸の内でぶつかり、笑いに変わる。太鼓の皮には体温の名残があり、歌の余韻は喉の奥で柔らかく揺れていた。


 煙は低く這い、焦げた草と香の匂いが、ようやく人の匂いに混じりはじめる。誰かが失ったものを思い出して泣き、別の誰かが生き残ったことを確かめるように笑う。二つの音が、同じ輪に収まっていく。


 やがて歓声の波が落ち着くと、祭祀長と団長が彼へと歩み寄った。二人の顔はまだ固いが、言葉の縁にうれしさが滲む。


「身体の具合はどうだ? 呪いの影響は?」


と団長。


「すこぶる調子がいい。俺にいったい何があったんだ? 戦いに夢中で、何が何だか」


 彼は浅く笑い、肩で息を整えた。胸の内側で暴れていた黒いざわめきは、いまは水面の波紋ほどの音しかしない。


 祭祀長が顎に手を当て、目を細める。


「これから忙しくなるぞ。お主が“堕ちないよう支えろ”と言った。皆で演奏し、舞を踊り、神楽を行った。場そのものを祓いの器にしたのじゃ」


団長が続ける。


「お前の得物と葬黒の得物が交錯するたび、闇がどんどん晴れていった。気がついたら、お主の呪いも薄れ……いや、なくなっていた。変わることはできるのか?」


 言葉の響きに、輪の外から小さな安堵が洩れた。彼は短く頷き、呼吸をひとつ置いてから、静かに“変わる”。


 腕に鱗が芽吹き、足は三の爪を備え、踝から尾の骨がひと筋のびる

――いずれにも、かつての黒はない。


色が抜け、影だけが薄光を帯びる。


「問題ない。できる。……こっちのほうが具合がいいくらいだ」


 周りの蛇狩たちは互いに顔を見合わせ、誰からともなく息を吐いた。藍の者も茶の者も、眼の際にかかっていた重みが取れている。恐怖の水位が目に見えぬところで下がり、足裏が土にまっすぐ降りる。


 気づけば、一団の中の呪いも薄まっていた。子を抱く腕の硬さがやわらぎ、火の番を交代する声が穏やかになる。場の温度が、人の高さに戻っていく。


「どうなっている?」


彼が呟く。


「どうなっていると言われても……」


団長は困ったように笑い、正直に言った。


「生きてきて、これほどまでに呪いが晴れたことはない」


祭祀長は頷き、問いをひとつだけ重ねる。


「少なくとも、お主が無事でよかった。……あやつは、どうなったのじゃ」


「葬黒の者は、完全に祓われたみたいだ。感謝してたよ。“あの得物は御守りにしろ”だそうだ」


 彼と戦い抜いた場所には、闇を圧縮し剣の形に整えたものが置かれている。刃というより、闇の結晶。掌にのせれば冷たく、目を凝らすと、形を保ったまま微かに呼吸するように見えた。


 遠目にはただの黒だが、近づけば、黒の中に極細の色の糸が織り込まれている。葬黒の者が歩いてきた歳月が、その織り目の密度で語られているようだった。


「最期に闇が吸い込まれていくのが見えた。呪いがこの土地を飲み込もうとするのを、少し抑えてくれると思う。……あいつから託されたから、俺が持とう」


「よろしく頼む」


祭祀長は深く頭を下げる。


「お主が葬黒から戻ってきて、心から嬉しく思う」


団長は大きく息を吸い、周りを一望して笑った。


「……宴の準備だな」


 笑いが一段戻り、誰かが器を並べ、誰かが水を汲みに走る。巫女衆は祭具を布で拭い、太鼓の皮に残った汗をそっと拭き取る。


 火は低く保たれ、煙はもう刺さらない。夜はまだ長いが、空気は確かに、人の明るさを受け入れる温度になっていた。


 彼はひとり、供台の端に置かれた闇の剣の前へ歩み寄る。柄に掌を置くと、冷たさの奥に柔い鼓動が伝わってきた。名もなき明るさが、刃の内側で細く瞬く。


 彼は目を伏せ、あの一言を胸の奥で反芻する

――ありがとう。良き舞だった。


 言葉は短いのに、そこに含まれているものは長い。逃げた気持ちも、堕ちた悔いも、祓われたい望みも、すべて言葉の背で均されていた。


 輪の隅では、新人たちがひそひそと型の確認をしている。踏み込み一つ分の距離、受けの角度の違い、息を落とす位置。藍の者が遠目に頷き、茶の者が肩に手を置く。


 皆が、自分の色のまま次の明日に繋がろうとしていた。祭祀長は焚き火の明かりに手をかざし、煙の筋で風の変わり目を読む。団長は見張りの配置を変え、夜の歩哨を薄く広く敷き直す。場のどこを切り取っても、同じ拍が流れている。


「戻れたのだな」


祭祀長が静かに言う。


「ああ、戻った」


彼――彼はもう、その名を胸に沈めている――は短く答える。戻るとは、元へ帰ることではない。受け渡されたものを抱えたまま、輪の中へ再び位置を得ることだ。彼の白でも黒でもない色が、夜の底で淡く息をしていた。


 しばらくして、輪のざわめきはまた穏やかな波に変わった。鍋が煮える音、器が重なる音、遠くの子の笑い。太鼓は伏せられたまま、皮だけが静かに呼吸する。


 彼は団長と祭祀長の顔を見て、わずかに笑う。言葉を増やさなくても、伝わるものがある。刃よりも早く届くものが、今夜はあちこちで交わされていた。


「明日から、やることが増える」


団長が冗談めかして言い、肩を竦める。


「祓いの見回りも、舞の手直しも、見張りの輪も」


「増やしてよい」


祭祀長が淡く笑う。


「背負える量は、今、皆で増えた。輪で支えれば、同じ重さでも軽くなる」


 彼は頷き、火へ向き直る。炎は小さく、しかし迷わない。七度目が来なかった夜の終わりは、敗北ではなく、別の仕方の終結だった。刃が空を切り、得物が地を選ぶ

――終わり方の違いが、残るものの形を変えたのだ。


 宴の支度が整いはじめる。誰かが水を張り、誰かが米を研ぎ、誰かが塩をひとつまみ落とす。


 巫女衆は歌を口の奥で転がし、蛇狩たちは列を崩さず火の周りに円を描く。彼は最後にもう一度、闇の剣へ礼をした。掌から離れる冷たさが、どこか名残惜しい。


「今夜は眠れ」


 彼は小さく言い、輪へ戻る。


 黒はまだある。だが、運べる。運ぶほどに、どこかで誰かが息を継げる。誰もがそれを、今夜、手触りとして思い出していた。 


 太鼓は鳴らない。けれど土の下では、拍が満ちている。輪はほどけない。ほどけない輪の中心に、彼は静かに立った。



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