第5話:『返却されたアメと、雪解けの予感』
「はい、これ……もういらない……」
翌日、きくちゃんはしょんぼりした顔で、昨日くすねていった虹色ドロップの残りを私に返してきた。よほど「部活男子フレーバー」と「鬼顧問フレーバー」のコンボが堪えたらしい。「思ったより全然チートじゃなかったし、むしろ罰ゲームだよ、アレ…」と、すっかり懲りた様子だ。自業自得だけど、まあ、大きな騒ぎにならなくてよかった。
きくちゃんが帰った後、私は一人、「ねじまき堂」の静かな店内で、手の中にある数粒の虹色ドロップと、カウンターの下の瓶を見つめていた。
キラキラと無邪気に輝くこのアメが、人の心を勝手に覗き見して、味覚に変換してしまう。面白いかもしれないけど、やっぱりすごく危うい。きくちゃんみたいに、使い方を間違えれば、ただただ不快な思いをするだけだ。人の気持ちなんて、本当はそんな風にインスタントに味わっていいものじゃないのかもしれない。
(やっぱり、これはちゃんとしまっておこう。私が持ってるんじゃなくて、誰も知らないところに……)
私は決意して、虹色ドロップの入った瓶を手に取ると、店の奥、物置同然になっている棚の、さらに奥へと向かった。一番上の段の隅っこに、昔使っていたらしいブリキの缶のお道具箱がホコリをかぶって置いてある。これなら、ばあちゃんも、きくちゃんも、もちろん私も、そうそう開けることはないだろう。
椅子を持ってきて、背伸びしながらお道具箱を開ける。中は空っぽだ。そっと、虹色ドロップの瓶をその中に収める。パタン、とブリキの蓋を閉じる音だけが、やけに静かな店内に響いた。なんだか、秘密の宝物を封印する儀式みたいだ。これで、少しは安心かな。
椅子から降りて、ふぅ、と息をついた、その時だった。
「……何してるの?」
背後から、平坦な声が聞こえて、心臓が跳ね上がった。振り向くと、いつの間に店に入ってきたのか、氷川れいちゃんが、無表情で私を見ていた。
「ひ、氷川さん!? い、いつの間に……」
「今、来たところ」れいちゃんは短く答える。「それ、隠してるの?」と、私が今しがた蓋を閉めたブリキ缶を指さす。
「ち、違うよ! これは、ただの片付けで…!」
慌てて取り繕う。まずい、見られた…!
れいちゃんは、特に追求するでもなく、ふーん、とだけ言って、視線を窓の外に向けた。店の軒先で、野良猫が気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。
「……それ、甘いの?」
れいちゃんが、独り言のようにポツリと呟いた。え? と思って顔を上げると、彼女はブリキ缶を…いや、その中に封印した虹色ドロップのことを言っているようだった。
「え…あ、あぁ、うーん、まあ…甘い、時もある、かな…?」
曖昧に答えるしかない。だって、甘いどころか殺人ソーダ味だったり、雑巾味だったり、無味だったりするのだ。説明できるわけがない。
気まずい沈黙が流れる。何か話さなきゃ、と思うけど、言葉が出てこない。れいちゃんは、相変わらず窓の外の猫を見ている。
その時だった。
子猫が、くるんと丸まって、ふぁ〜、と小さなあくびをした。その、ほんの一瞬。れいちゃんの口元が、ほんの、ほんのわずかに、ふっと緩んだのだ。まるで、硬い雪が少しだけ溶けたみたいに。本当に、見間違いかもしれないくらいの、小さな小さな変化。
でも、その瞬間。
私の心の中に、ふわり、と温かくて甘いものが広がった。
(……え?)
アメは、食べていない。れいちゃんとも、目は合っていない。なのに、感じる。これは…なんだろう。まるで、春の陽だまりで溶かした、ふわふわの綿菓子みたいな味……? 甘くて、優しくて、どこか切なくて、すぐに消えてしまいそうな、儚い味。
それは、今までアメで感じたどの「感情の味」とも違っていた。もっとずっと、自然で、穏やかで、そして、温かいものだった。
れいちゃんは、すぐにいつもの無表情に戻って、「じゃあ」とだけ言って、店を出て行った。
残された私は、しばらくの間、自分の心に残る綿菓子の余韻に、ただただ浸っていた。
(そっか……)
アメがなくたって、人の気持ちって、伝わることもあるのかもしれない。味なんかしなくても、ほんの小さな表情の変化や、仕草や、その場の空気で、感じ取れるものがあるのかもしれない。もちろん、全部が分かるわけじゃないけれど。
私は、もう一度、棚の上のブリキ缶を見上げた。
あの虹色ドロップは、確かに不思議で、面白くて、そして危ない力を持っている。でも、それだけが全てじゃない。
私の日常は、たぶんこれからも、この駄菓子屋みたいに、ちょっと古くて、ちょっとビターで、でも、時々、思いがけない「味」に出会えるのかもしれない。
うん、それも、悪くないかな。
私は、少しだけ軽くなった心で、店のカウンターへと戻った。止まったままの古時計が、なんだか今日だけは、未来へ向かって静かに時を刻み始めたような、そんな気がした。