エピローグ
目覚まし時計が鳴った。子どもの泣き声のように執拗な鳴り方だった。眠りから引きずり出された皓一は、寝ぼけたまま周囲を見回した。しかし、わかったのは、鳴っているのが自分の時計ではない、ということだけだった。
カーテンの隙間から覗く空はすでに明るい。枕元のスマートフォンを点けると、画面の隅に「6:01」と表示された。ベルの音量は尋常なものではなかった。どうやらベランダの方から聞こえてくるらしい。彼はベッドから降りてベランダ側のガラス戸を開けた。ベルの音量がさらに大きくなった。顔だけ外に出すと、それが目覚まし時計ではなくて、壁の上の方に取り付けられた直径二十センチほどのベルであることがわかった。ベルは赤い体を振るわせて叫びつづけている。おそらく火災警報器なのだろう。
火事? 彼は裸足のままベランダに出た。彼の住まいは賃貸マンションの九階にある。彼は火元を確認しようと手すりに近づいたが、一面に張られた防鳥ネットに阻まれて、身を乗り出すことができなかった。ボンレスハムのように顔に網の形をつけながら上下左右を確認したが、どこにも煙は見えない。誰かが騒いでいるようでもなかった。いつも通りの朝の光景に、ただ異様なベルの音が重なっているだけだった。ベルは鼓膜をしびれさせるほどの音量で鳴りつづけている。それを止めるボタンも見当たらない。
彼は急いで服を着替え、財布とノートパソコンをビジネスバッグに入れ、それを抱えて部屋を出た。エレベーターが止まるといけないので、非常階段を駆け下りた。通り過ぎるどの階でもベルが鳴っていた。一階まで下りると、マンションの向かいに立って、建物全体を見上げた。やはりどこにも煙は見えなかった。レンガ調の外壁が、朝陽を受けて赤く輝いていた。空には半透明の月が舟のように浮かんでいた。
どういうわけか他の住人は誰も下りてこない。煙が見えないので、どうせ警報器の誤作動だと高をくくっているのだろうか。昔、中学校で誰かが「強く押す」と書かれた警報器のボタンをよくいたずらで押していたことを彼は思い出した。自分一人が焦って飛び出してきたことが、急に恥ずかしくなった。
まだ朝が早く、道が細いこともあって、周りを見ても誰もいなかった。電柱には「音階は成長への階段 ひふみピアノ教室」と書いた広告が貼られていた。そういえば、渚は朝型だったから、もうとっくに練習を始めているのだろうと彼は思った。
消防車のサイレンも聞こえなかった。彼はもう一度マンションを見上げた。それにしても油断しすぎている。煙が見えないからといって、どこかが燃えていないとは限らないのだ。一度火の手が上がったら、あっという間に上へ上へと燃え広がってしまう。煙が見えてからでは遅いのだ。今ごろ全員死んでるかもしれないんだぞ、と彼は面識のない隣人たちに胸の中で叫んだ。
マンション全体が鳴りつづけている。皓一にはそれが街に突然現れた巨大な目覚まし時計のように見えた。