第7章 そして、いつか
皓一が招かれたローマでの映画完成披露試写会のことは、日本でも報じられた。彼が帰国したときには空港で何人もの報道関係者が待ち受けていた。今日帰ることは誰にも知らせてないのに、どうしてわかったんだろうと訝しみながら、皓一は足を速めた。彼らは皓一の無愛想さをものともせず、矢継ぎ早に質問を浴びせかけた。皓一はそれを振り切って、逃げるように自宅へ帰り着いた。
幸いこちらには誰の姿もなかった。ほっとしながら郵便受けを開けると、宅配ピザのちらしなどと一緒に封筒が出てきた。ヨットのデザインのものだった。筆圧の強いその字を見て、彼は自分がひとつの旅を終えたことを実感した。部屋中の窓を開けると、どこからかヘリコプターの飛ぶ音が聞こえてきた。彼は荷も解かずに手紙の封を切った。
お帰りなさい。
試写会の様子、テレビで見ました。盛大な会でしたね。皓一がスピーチしてるところも見ました。こっそり練習してきたロボットダンスをいきなり披露したみたいな動きになってたので、大笑いしました。
印象的だったのは、皓一がぜんぜん遠い人には見えなかったことです。文字通り遠いローマで、監督や出演者たちと並んで、あれほど華やかな舞台に立っているのをテレビで見たら、何だか別の世界の人になっちゃったみたい、と少しは思いそうなものですが、まったく思いませんでした。皓一の顔が強ばっているのは、ただ緊張のせいばかりではないということを、私が知っていたからかもしれません。
なるべく邪魔をしないでCreginaのゆくえを見届けたいと皓一は言っていたけれど、何か見えましたか。評判が上がるほど深刻になる居心地の悪さと引き換えに、何かを手にすることができたのでしょうか。あなたが素直に喜べない名声や虚しさとは別のものに出会えていることを祈ります。今度の旅を通じてどんなことを感じ、考えたのか、いつか聞かせてください。
それでは、まずはしっかりと休んで、新しい日に備えてください。(あんまり仕事がたまってないといいね!)
皓一は便箋を畳んで封筒に戻し、それを斜め掛けのバッグに入れた。スーツケースから小さな箱を取り出してそれもバッグに入れ、開けたばかりの窓をまた閉めて家を出た。ここから渚の勤める音楽教室まで行くのに二時間近くかかることをスマートフォンの地図アプリで確かめてから、彼はかげろうを割くように速歩で駅に向かった。今から教室へ行って彼女に会えるのか、そもそも彼女は今日出勤しているのか、彼にはわからない。電話で教室に問い合わせれば、すぐに確かめられるが、そうする気にはなれなかった。無駄足になってもかわまないと彼は思った。
平日の午後の電車は空いていた。トンネルに入ると、向かいの窓に彼の姿が映った。その向こうを線路照明が等間隔で横切っていった。自分と照明の二重映しを眺めているうちに、八年前のことが浮かんできた。彼らが高校二年生になってしばらく経った頃、渚からの音信が途絶えたことがあった。それまでは二、三ヶ月に一度は手紙を送り合っていたのに、そのときは半年経っても彼女からの返信がなかった。暑中見舞いを口実に、もう一度手紙を出してみたが同じだった。さらにひと月が過ぎ、このままずっと返事は来ないのかもしれない、といよいよ彼は覚悟せざるをえなくなった。返事を催促するようなことはしたくないが、と思いながら彼は最後になるかもしれない手紙を書いた。
お元気ですか。このまま返事を待っていようかとも思ったんだけど、どうしても気にかかることがあって、手紙を書いています。
なぜ返事をもらえないのか、いろいろと考えました。ぼくが前の手紙に何か気に障るようなことを書いてしまったのか。でも、内容は近況報告ばかりだったから、それで不愉快な思いをさせてしまったとは思えない。逆に、あまりにも内容が無さすぎたのか。しかし、この調子でもう何年も手紙のやりとりを続けてきたんだから、これも今さらという感じがします。便りがないのは何とかで、こちらのことなど思い出す暇もないくらい君が充実した日々を送っているのか。それにしても、はがきの一枚も送ってくれないのは不自然です。ひょっとしたら郵便事故か何かで手紙が二通とも届いてないのかもしれない。などと、ありそうもないことまで考えた末に、ぼくはひとつの結論にたどりつきました。
渚、何かあったんじゃないですか? 君の身に何かよくないことが起きていて、身動きが取れなくなってるんじゃないかと心配しています。これがぼくの取り越し苦労であってほしい。この人は何て的はずれのことを言ってるんだと君があきれてくれたら―。でも、残念ながら、ぼくにはそうとしか思えません。
もし、ぼくの言う通りなら、何があったのか教えてくれませんか。ぼくにできることがあるのかどうか、それはわかりません。ひとつもないかもしれません。それでも、何かあったのなら教えてほしい。これまで手紙に大したことは書いてこなかったけど、ぼくたちはただのおしゃべりを続けてきたわけじゃないんだと信じています。ぼくもいつか誰にも言えないようなことが起きたときには、きっと君にだけは打ち明けます。
だから、どうか、ぼくに手紙をください。待っています。
書き上げてからも、この手紙を出すのはためらわれた。渚との手紙のやりとりには、自然にできた暗黙のルールがあったが、この手紙はそのいくつかを破っていた。やはり返事がないのを返事と思って、このまま待ちつづけようかと彼は思った。しかしそう思うと、うつむいてランドセルを背負い、何も言わずに教室を出る渚の姿が浮かんできた。もう彼女がランドセルなど背負っているはずがないことはよくわかっていたが、このイメージに背中を押されて、彼は手紙をポストに入れた。
二週間後、渚から返事が来た。これまでにないほど封筒は厚かったが、筆圧は弱かった。皓一は返事を受け取ったことをまずは喜んだが、ただならぬものを感じながら封を切った。
長い間返事を書かず、本当にごめんなさい。
書こう、書こう、と思いながら、どうしても書くことができませんでした。今、いろいろなことが上手く行ってなくて……。私が突き当たっている問題は、どれも個人的なものばかりです。それも恥ずかしくて、手紙を書く気持ちにはなれませんでした。
去年の春、今のところに転校してきたんだけど、未だに馴染めずにいます。誰かと衝突したとか、いやがらせを受けたとか、具体的に何かトラブルがあったわけじゃありません。ただ、今回は周りの人と親しくなるきっかけを見つけられず、誰とも話さないでいたら、そのまま周りから浮いた存在になってしまいました。今では誰も私に話しかけないし、私も話しかけることはありません。
休み時間にはいつも本を読んでいます。特に読みたいものがあるからではなくて、ただ時間を持て余すからそうしているだけです。活字を目で追っていても、頭に何も入っていないということもよくあります。体育祭や文化祭のような行事のときにも私はひとりです。そういうときには自分の席で本を読むわけにはいかないので大変です。誰も来ない非常階段へ行って、雲を眺めたりしています。
周りの人は私のことをひとりでいるのが好きな変わり者と思っているか、私がそこにいることすらまったく意識していないかだと思います。私は制服ごと透き通ってしまう透明人間です。いてもいなくても変わらない存在。皓一は以前、夜の教室に座っている子どもたちの話をして私を恐がらせたことがあったよね。最近、私はどういうわけかあの子たちのことを懐かしく思い出します。そして、その中に並んで座っている自分の姿を思い浮かべたりしています。
どうしてこんなことになってしまったのか、私にもわかりません。周りの人たちが楽しそうに話しているのを見ると、私もそうしたいと思うのですが、どうすればそうできるのか見当つかないんです。跳べたはずの跳び箱が急に跳べなくなってしまって、今まで自分がどう体を動かしていたのかわからなくなるような感じです。
今のところに転校した最初の頃は、どうして周りの人たちは私を受け入れてくれないのだろうとばかり考えていました。でも、今では、ひょっとしたら私が周りを受け入れきれていないのかもしれないと考えるようになりました。私はこれまで何度も引っ越しをしてきたので、自分はどこへ行ってもやっていけるのだという変な自信を持っていました。実際、これまで移り住んだ先々で、私はそれなりに上手くやってきたつもりでした。しかし、残念ながら私は自分が思うほどの適応力を持っていなかったようです。振り返れば、いつも無理をしていました。人とどれだけ親しくなっても、またすぐに別れなければならない。そういうことの繰り返しに、いつの間にか私は疲れ果てていたのかもしれません。
心配をかけたくないので、親には学校のことは話していません。でも一緒に暮らしているんだから、何となく察してくれているんだと思います。仮病を使って何度か学校を休んだことがありましたが、何も言わずに休ませてくれました。でも休んだら休んだで、また自分のことがいやになってしまうので、意地になって毎日学校へ行って、透明人間を続けています。
さらに悪いことに、私は今、進路にも迷いが出てきています。私はピアノが好きで、小さい頃からピアニストになることだけを目標にしてきました。でも学校の三者面談のときに私が音大に進みたいと言ったら、親から猛反対されました。もちろん、私が音大を目指していることは、親も知っていたはずですが、面と向かって反対されたのはそのときが初めてでした。親の言い分は、音大に進んでもプロのピアニストとして生きていけるのはごく一部であり、ピアノは趣味としてでも続けられるのだから、進学するならもっと安定した仕事につながるところへ行ってほしい、というものでした。私はそれがあまりにもありふれた反対理由だったことに驚きましたが、それ以上に、そう言われて自分がほとんど何も言い返せなかったことに衝撃を受けました。親の言うことはもっともなんです。私はピアノが取り得とは言っても、これまで小さなコンクールにしか入賞したことがありません。大した実績がない私が音大に進んでも、プロのピアニストになれる可能性は低いんです。結局、私に残されるのは奨学金の返済だけ、ということにもなりかねません。親が、私により安全な道を選ばせようとするのは当たり前のことなんです。
問題は私にあります。もともと厳しい世界なのはわかってるんだから、本気でプロの演奏家を目指すなら、親の反対を押し切るくらいの強い気持ちが必要なはず。家出同然に音楽の道に進んで、アルバイトをしながらでもそれを続ける覚悟を決める。よく言われることですが、プロを目指すとはそういうことなんだと思います。私もそう覚悟しているつもりでした。でも、実際に親から猛反対を受けてみると、自分の覚悟の不確かさを痛感するばかりでした。ピアノに対する自分の思いを、自分で疑ってしまったこと。これは私にとって何よりつらいことでした。
こういう問題に突き当たって、私は鬱々と過ごしていました。最初に書いた通り、あまりにも個人的なことばかりです。音大を受けるためにも、何とか卒業だけはしようと通ってきた高校も、もう辞めてしまおうと何度思ったかわかりません。このような悩みを私は誰にも相談することができませんでした。相談できる相手がいなかったし、結局、これはひとりで乗り越えるしかない私自身の問題なのだという思いも強くありました。
私が手紙を書かなかったのは、自分がこんなに情けない状態であることを知られたくなかったからです。今手紙を書けば、どうしてもネガティブな内容になってしまいます。こういうことにあなたを巻き込みたくありませんでした。私たちはとても離れた場所で暮らしているし、こんなことを手紙に書いても、きっとあなたを困らせるだけでしょう。かといって、手紙の上だけで何事もないかのように取り繕うことはできませんでした。だから、あなたには申し訳ないと思いながら、もっと自分のことに整理がつくまでは手紙を書くまいと考えていました。
でも皓一、あなたは不思議な人です。船出のときに紙テープがちぎれるように、友人たちとのつながりが次々に途絶えていく中、こうして手紙のやりとりが続いているだけでも驚きですが、あなたは私が立ち上がれなくなっているときに現れて、手を差し出してくれます。ずいぶん前にも一度、同じようなことがありました。あなたには何のことだかわからないかもしれませんが。
まだ、具体的には何も解決できていませんが、あなたからの手紙を読んで、とにかくこの状況と闘っていこうという気持ちが湧いてきました。もう私はこうして手紙を書くことだってできます。ですから心配しないでください。皓一が与えてくれたこの力こそ今の私に一番必要なものだったんだと思います。本当にありがとう。あのときの分も合わせてお礼を言います。
手紙を受け取ったとき、皓一はどうすべきか迷った。すぐに彼女のもとに駆けつけたかったが、彼女は今、自分に会いたくないかもしれないとも思った。二人があまりにも遠くに住んでいることも問題だった。飛行機に乗って彼女に会いに行く。できないことではなかったが、高校生の彼にとっては簡単なことではなかった。彼女のことは誰にも話せない。しかし誰にも話さずに遠出をすれば、どんな誤解を招くかわからない。これまで出たこともないひとり旅に、突然出るというのも不自然だった。でも、行くのが難しいからこそ、行くことに意味があるんじゃないか。いや、今、自分が押し掛けるとかえって彼女は―。
さんざん思い悩んだ挙げ句、結局、彼は彼女に手紙を書いただけだった。その時何を書いたのか、自分の言葉の無力さに絶望しながら、とにかく全力で彼女を励まそうとしたということ以外、彼は思い出すことができない。あのとき、やはり自分は彼女に会いに行くべきだったんじゃないか、結局自分には勇気が欠けていたんじゃないか、と今でも彼は考え込むことがあった。
電車と地下鉄を乗り継いで、彼女の職場の最寄り駅に着いたときには、六時近くになっていた。彼は階段を一段飛ばしで地上まで駆け上がり、地図アプリに従って音楽教室が入っている建物まで急いだ。エレベーターで七階へ行くと、ソファーが並ぶロビーがあり、左手前の受付に女がひとり座っていた。彼は来意を告げた。女はちらちらと彼の顔を見ながら、手元のスケジュールを確かめ、渚が今レッスン中であることを教えてくれた。
「もうすぐ終わりますので、お掛けになってお待ちください」女はソファーの方を手で示した。
腰掛けると、彼は思いのほか自分が汗をかいていることに気づいた。適度に空調が効いているので不快さはないが、受付の女がまだちらちらとこちらを見ているので、彼は落ち着かなかった。よほど防音設備がしっかりしているのだろう、奧から楽器の音は聞こえない。ロビーには十人ほどが座っていて、楽譜を眺めたり、スマートフォンを覗き込んだりしていた。自分のレッスンが始まるのを待っているか、誰かのそれが終わるのを待っているようだった。
しばらくすると、レッスンが終わったらしく、ドアが開く音や話し声が聞こえてきた。奥からぞろぞろと人が出てきて、ロビーはまたたく間にいっぱいになった。渚も高校生くらいの女の子と話しながら歩いてきた。皓一は思わず人陰に隠れるように身を竦めた。自わから会いに来ておいて、何をやっているんだ俺は、と彼は胸の中で自分を叱った。少し離れたソファーに座っていた中年の女が立ち上がって、渚たちに近づいていった。女の子の母親らしい。三人はそのまま立ち話を始めた。彼が職場にいる彼女を見るのは初めてのことだった。この教室に勤め出してからまだ一年足らずのはずだが、すっかり落ち着いているように見える。彼女がにこやかに二人と話している姿を眺めているうちに、彼はもうこのまま帰ってもいいような気がしてきた。
「先生、お客様がそちらでお待ちです」しかし、三人が別れの挨拶を交わしたところで、受付の女がすかさず渚に声をかけた。
渚はようやく皓一の方に視線を向けた。彼女は驚きと喜びが入り交じった目で、どこまで胴体を縮められるか限界に挑戦するようにして座っている彼を見た。
「あの方、確かCreginaを作曲した有城皓一さんですよね。お知り合いなんですか?」
いつの間にかロビーにいる人々も彼を見ていた。
「体験レッスンに来られた方です!」
渚は皓一の肘をつかんで、お待たせしました、さあ、どうぞこちらへ、と言いながらぐいぐい奧へ引っ張っていき、彼を教室に引き入れて素早くドアを閉めた。
「なるほど。どこへ行ってもこんな感じっていうのは、確かに疲れそうね」彼女はため息をついて振り返った。
「ごめんね。突然押し掛けちゃって。どうしても直接、手紙のお礼が言いたくて」
「そこに座って」
彼女は二脚のピアノ椅子のうち、背もたれがある方を彼に勧め、自分は背もたれがない方に座った。彼はグランドピアノや楽譜が並ぶ本棚を懐かしげに見回した。
「いつ帰ったの?」
「今日」
「けっこう長く休みが取れたみたいね」
「何とか調整して十日間。ローマでの試写会のあとにフィレンツェとヴェネツィアにも足を伸ばしたから、本当にあっという間だったよ」
「どうだった?」
「まさに本物って感じだった。建物、彫刻、絵画、音楽、どこへ行っても古くて美しいものがあふれてて、感激し通しだったよ。ああいうものを生み出した富や権力が恐くもなったけれど。あ、これ、お土産」
彼はバッグから小さな箱を取り出し、開けてみてと言葉を添えて彼女に渡した。彼女がそれを開けると、幻覚を見るような面持ちでピアノを弾く恰幅のいい男の人形が現れた。
「かわいいでしょう。フィレンツェで見つけた木彫りの人形なんだけど」
「ありがとう。ロッシーニ、いや、この髭はプッチーニかな。存在感あるわね……」彼女は人形を箱にしまった。
「とにかく十日じゃ、ぜんぜん足りなかった。もっといろんな所へ行ってみたいってつくづく思ったよ」
「旅の魅力に目覚めたの?」彼女は目を見張って言った。
「これまでぼくは旅行もせず、生まれた町と今住んでるところ以外は、ほとんど知らないまま生きてきた。何だか、それがもったいないことのように思えてきたんだ。その点、渚は―」
「旅と引っ越しは別だよ」
「でも、ぼくより広い世界を知っているんじゃないかな」
「そんなことないよ。流れ者って言葉があるけれど、私の場合はただ流され者だったっていうだけなんだから。興味を持ってあちこち訪ねて回ったり、自分の意志で住む場所を選んだりするのとは、周りへの向き合い方が違うのよ」
「だとしても、いろんな所を見てきたことには変わりないだろう」
「ただいろんな所に住めば、それで世界がよくわかるってものでもないんじゃないかな。しょっちゅう引っ越してると、道を覚えなおしたり、手続きをやりなおしたり、友だちを作りなおしたり、それはそれで繰り返すことだって増えるんだから。それがない分、引っ越さない方が人や場所に深く関われるんだとも言えると思うよ」
「引っ越しから得られることなんか、何もないって言うの?」
「そこまでは言わないけど……」
彼女は椅子に座りなおして少し体の向きを変えた。
「学生の頃にね、ある先生から言われたことがあるの。あなたは課題にぶつかったときに、つい身をかわしてしまうところがある。それはあなたが引っ越しを重ねてきたからかもしれない。だから気をつけなさいって。言われたときには納得できなかったんだけれど、だんだんそうかもしれないって思うようになった。確かに、私は何か問題に直面したときに、それを一身に引き受けるというのが苦手なところがある。いつでもそこを離れられると心のどこかで思っている。良く言えば柔軟でフットワークが軽い、悪く言えば軽薄で逃げ場を作るのが上手い。これは単に私の性格の問題なのかもしれないけれど、先生の言う通りなのかもしれない。どのみち転勤族なんてそんなにいいものじゃないのよ」
「つい身をかわしたり、逃げ場所を作ったりするのなんて、誰にだってあることじゃないか。そんなの引っ越しとは関係ないよ」彼は語気を強めて言った。「それに渚はいつだって自分の課題にちゃんと向き合ってきた。どうしてそんなに自分をおとしめるようなことを言うんだよ」
「そっちこそ、どうしてそんなに私を持ち上げるのよ。気味が悪いから反論してるんじゃないの」
彼は少し考えてから言った。
「試写会が終わってから、誰とも話してなかったからかな。言葉もわからなかったし、話す相手もいなかったから、ほとんど誰とも口をきかなかった。いろいろと見て回るのはおもしろかったけど、街中で何日も黙ったままというのはそれなりにきつい体験でもあった。まるで自分が透明になったような感じ。そうしていると八年前の渚のことが浮かんできたんだよ」
「八年前?」彼女はうろたえながら言った。「もう、昔の話よ……。皓一が引きずることないじゃないの」
「どうしてそんなに前のことを思い出してしまうのか、自分でもよくわからない。何周遅れかで渚の背中を追いかけてるってことなのかもしれない」
「だから、持ち上げるのはやめてって言ってるでしょう。私が転勤族だったことで得られたのなんて、ふるさとからの自由くらいのものよ。もちろん私にも生まれた場所はあるけど、小さい頃に離れたから、ぜんぜん憶えてない。その後もあちこち移り住んできたから、特別な思い入れがある土地はどこにもない。ふるさとは遠きにありてって言葉があるけど、私にはどこの記憶も断片的すぎて、ふるさととして思い浮かべられる場所なんかひとつもないのよ。でも、ふるさとを持っているのが当たり前のことのように語られたり、それをイメージするよう求められたりすることがある。唱歌の「故郷」を歌わされたりしてね。そういうときには、とても居心地の悪い思いをする。私にはふるさとってどんな感じなのかよくわからないんだもの。私の言っていることがわかる?」
「ぼくには、ふるさとがわからないっていう渚の感覚の方がよくわからないかもしれない」
「災害が起きたときには、テレビなんかでよくふるさと、ふるさとって言うじゃない。その土地の人が言うのはわかるとして、周りの人が言っているのを聞くと変な気持ちになる。その場所と自分との関係を考えないで、ふるさとって言えばわかるだろうって感覚に身震いする。本当にその場所を大切に思ってきたの? いろんなものを押しつけて、ほったらかしにしてきた後ろめたさを隠すために、ふるさとって言ってるんじゃないの? って勘ぐってしまう。被災地のことを知ると胸が痛むけれど、つい私にはふるさとがなくてよかったとも思ってしまう。どこに行ってもよそ者で、いつも自分の居場所を探してさまよってきた代わりに、私はどんな場所にも責任を負っていない。それが気楽ではある。でも、家族や仕事などのために、その土地を離れられない人もいる。離れたくないのにむりやり引き離される人もいる。そういう人たちのことを考えると、ふるさとから自由だなんてうそぶいている自分が心底ろくでもないものに思えてくる。また自分が何かから身をかわしてしまっているような感覚に苛まれる。そして、もしかしたら私の中にも特別な場所を求める気持ちがあるのかもしれないと考え込んでしまう」
「これまではそうだったとしても、これからどこかに特別な場所ができるかもしれないじゃないか」
「そうかもしれない。ただ、今のところそういう実感はないし、そういう場所を持つのが恐くもある。こうなったらふるさととは無縁のまま生きていこうかとも思ってる」
彼女は手もとで箱を回しながら言葉を継いだ。
「この前、皓一からコピーだのオリジナルだのという話を聞いたときに、私が共感できなかったわけがわかってきたよ。私はあのとき、何を今さらって思ったんだよね。確かに皓一の言う通り、私たちの中にも外にもコピーがあふれている。でも、それはパソコンやインターネットが現れるずっと前から始まってたことだし、そもそもコピーから離れたところにオリジナルの自分があるっていうのは幻想なんだと思う。今さらそんなことにこだわるのは、私に言わせればふるさと主義なんだよ。特別な場所、唯一の私、そういう一回だけのものに寄りかかっているから、それが脅かされて焦ってるだけなんじゃないの」
「ふるさと主義……」彼は聞き慣れない外国語の響きをなぞるように言った。「確かに、あの町のことは大切に思ってるけど、それを責められても困る。ぼくだって選んでそうなったわけじゃないし……」
「責めてないよ。ただ、感じ方が違うみたいって言ってるだけ。人ってもっと交換可能な場所や私に耐えられるんだと思うよ。だからこそ、こんなにコピーだらけの状況をつくって、その中で平気に暮らしてるんじゃないの」
「渚の言うこともわかるけど、それにも限度はあると思うんだ。自分の周りが全部コピーであることには耐えられても、自分自身までがそうであることには耐えられないっていうか……。よくSFで、自分の体を他人の体や人工物と交換して、どこまでが自分なのかわからなくなっちゃうって話があるよね。体の方はまだこれからだとして、意識や言葉のところではそれがけっこう進んできてるんじゃないかな。毎日毎日っていう繰り返しは前から問題にされてきたけど、今やネットを見れば、つねにすでにコピーされた自分がそこにいる」
「それは言い過ぎなんじゃないの。そんなこと感じてる人がどれだけいるっていうのよ」
「意識や言葉のことは自覚しにくいんだよ。でも、そのつもりになってネットを見れば、自分だけが考えてることやしゃべってることなんてほとんどないことがわかる。そこにはいろいろな出来事の映像やテキストがリアルタイムでアップロードされ、それへのコメントも次々に上げられる。その量と速さは圧倒的なんだ。車は足の、レンズは目の働きを強力にしたものだっていうふうに、道具を人の器官の延長として捉える見方があるけれど、ネットはとにかく全体的なんだよ。それは目やら耳やらいろんな器官を合わせて強化してるって意味で全体的だし、個人じゃなくて大集団の器官を同時に強化してるって意味で全体的なんだ。ネットはただの道具じゃない。ネット社会って言葉は、ただネットを使う社会じゃなくて、ネットがつくる社会って意味も持ってるんだ」
「いいじゃないの。それだけ意思疎通の密度や効率が高くなってるってことなんだから。昔、自我の意識は個人から集団、社会、宇宙と次第に進化するって言った人がいたけど、まさにそれね」
「いいことばかりじゃないだろう。ネットはあらゆる体験に先回りして未知との出会いを、既知との再会に変えてしまう。生活を記録するための日記を、日記を記録するための生活に変えてしまう。自由で匿名的なつながりを、無責任で攻撃的な相互監視に変えてしまう。ネットとつながるほど、人は自分の固有性を感じられなくなり、複製の海の中で自分を見失っていく。その力はますますぼくたちの奥深くまでゆきわたり、世界の隅々まで覆っている」
彼女はため息をついた。
「ネットを悪性ウィルスみたいに言うのね。ネットのおかげではじめて出会える未知の体験だって、生活の張り合いだって、誰かの言葉だってあるじゃないの。だいたいCreginaを作ったときに、いそいそと動画投稿サイトにアップロードしたのはどこの誰よ。ネットをしっかり利用しておいて、もう一方で批判するなんて矛盾してるとは思わないの? だいたい皓一はプログラマーなんだよね。パソコンやネットがあってこその仕事じゃないの。もっと自分のやってることに誇りを持ったらどうなの」
「この仕事だから余計に目につくことだってあるんだよ。それにCreginaをアップロードしたことについては、これでよかったのか、ぼくなりにずっと悩んできた。そっちこそ楽観しすぎなんだよ。そんなことだから、先生から軽いなんて言われちゃうんだろう」
箱を回していた彼女の手が止まった。
「今、言っちゃいけないことを、言ったわね……」
「さっき自分でそう言ったんじゃないか」
「たとえ自分で言ってても、人からは言われたくないことってあるじゃない。二十五にもなって、そんなこともわからないの?」
「めんどくさいよ……」
「何よ! こんな不気味な人形! 家に帰ったら暖炉にくべてやる!」彼女は箱を振り上げた。
「ひどいこと言うなよ。家に暖炉なんかないだろ」彼は両手で彼女を制した。
「ひどいこと言ってるのはそっちでしょう。何が手紙のお礼よ。もう帰ってよ」
「ごめん。ぼくが悪かった。二度と言わない」
彼女は疑うように彼を見、彼は懇願するように彼女を見た。
「今度言ったら、ピアノとプッチーニが脱着式になるまでこれで殴るからね」
彼女は振り上げていた箱を下ろし、彼も両手を下ろした。そのまましばらく二人は黙っていた。
「それで」彼女は気を取り直すように言った。「映画の方はどうだったの?」
「テーマ曲がなかなかよかったよ」
「そんなつまらない冗談をわざわざ言いに来たわけ」彼女はまたため息をついた。
「示唆に富む映画だった」
「示唆……って、どんな?」
「創作者だけが創作してるんじゃないってこと」
「どういうこと?」
「誰もが何かを創ってるってこと」
「ごめん。何言ってるのか、ぜんぜんわからない」
「ぼくは世の中には創造的な人間とそうでない人間がいるんだとずっと思っていた。そして自分がそうでないことを嘆いてた。でも、違うんだ」
「何だか今度は急に前向きなことを言いはじめたわね。大丈夫? まさか向こうで変なクスリでも覚えてきたんじゃないでしょうね」彼女は彼の目を覗き込んだ。
「茶化さないでくれよ」彼は睨み返した。「たとえば、ぼくたちはスポーツを見て感激したりするよね。あれ、どうしてだと思う?」
「さあ……。アスリートが、自分の限界と闘っている姿に胸打たれるのかな」
「そうなんだ。ただ、自分の限界と闘うこと自体は、ぼくたちだって普段いろんな形でやってるんだよ。出勤前の身支度をできるだけ早く済ませるとか、納期に間に合いそうにない仕事を徹夜で仕上げるとか、毎日の暮らしの中で自分の限界と闘うことなんていくらでもあるんだ。ただ、スポーツの特別なところは、限界との闘いを、鍛えた体を使って、はっきり目に見える形で示していることにある」
「まあ、そう言えるかもしれないわね」
「アスリートが体を使って限界との闘いを示してるように、創作者も作品によって人間の創造性を示しているんだ。誰もが何かを創ってる。創作を創作者だけの仕事だと思い込むと、それ以外の人間の創造性を見過ごしてしまうんだよ」
「飛躍しすぎじゃないの。技術とか、才能とか、そんなに創作者と一般人を一緒にはできないと思うけど」
「もちろん、見方によっては創作者と一般人はまったく別物だよ。創作者はすでにあるものを超える何かを創らなきゃ仕事にならないけど、一般人はそうじゃないからね。でも、それは仕事として認めるかどうかの違いでしかなくて、誰もが何かを創ってるってことには変わりない。たとえ今は一般人だと思われていても、いつ創作者だと認められるかわからない。今、ぼくたちは新しい時間を生きている。それ自体が可能性なんだよ。日常ってのは途切れることのない創造の契機なんだ」
彼女は首を振った。
「いったいどんな映画を観たら、そこまで前向きになれるのよ。何かスピリチュアルなやつだったの? 観るのが恐くなってきた」
「いや、とてもシンプルな作品だったよ。超新星爆発の話」
「超新星爆発? SFだったの?」
「そうじゃないけど、ジャンルは問題じゃないんだ。大切なのは、そこから何を受け取ったかっていうことなんだ」
「誰もが何かを創ってるって、じゃあ、私は何を創ってるっていうのよ?」
「ピアノ演奏」
「……プロじゃないけど」
「それでも過去の自分にはできなかった演奏をしている。ここで生徒さんも育てている」彼はためらいなく言った。
「納得いかないなぁ……。じゃあ、皓一は?」
「プログラム」
「この間、自分の代わりのプログラマーはいくらでもいるって嘆いてたじゃないの。だから自分の代わりがいない何かを見つけたくなるんだって」
「おかげで急に十日も休みが取れたけどね」彼は自嘲した。
「自分に代わるプログラマーがたくさんいるのに、どうしてプログラムが皓一の創造性を示すものになるのよ」
「ぼくだって過去の自分にはできなかったプログラミングをしているさ」
「さっきから聞いてると、比べる相手が過去の自分になってるけど、他人と比べなきゃただの自己満足になっちゃうんじゃないの?」
「他人と比べてわかるのは、たとえ自分に似た人はどこかにいても、自分とまったく同じ人はどこにもいないってことなんだ」
「何だか、ベストワンじゃなくてオンリーワンみたいな話になってきたわね。そう言ったところで、結局人は自分と他人を比べずにはいられないし、そうやって自分の価値を確かめずにはいられないんじゃないの。みんながオンリーワンなんて甘い幻想じゃ満足できないから、いろんなところで競い合っているんでしょう。私がコンクールに出つづけてるのもそういうことだし、皓一だってオンリーワンで話が済むなら、最初から何も悩まなかったんだよね」
「確かに渚の言う通り。他人と比べてわかるもうひとつのことは、いかに自分がベストワンから遠いかってことなんだ。どんなことだってベストワンになれるのは、ごく一部の人間に決まってるからね。それどころか今は、自分の中にも外にもコピーがあふれてるから、オンリーワンすら怪しくなってきてる。ただ―」
「ただ?」
「誰だって自分は創ってる」
「自分?」
「そう」
「それがCreginaと旅をして、皓一が手に入れたものなの?」
「誰もが何かを創ってるなんて、それこそ楽観しすぎなのはわかってるよ。ぼくたちの中にも外にもますますコピーはあふれるばかりだし、創作者と一般人の差がなくなることなんてほとんどない。むしろ旅先で思い知ったのは、いかに自分が独創性から遠いかってことだったよ。ただただ絶望。ぼくには何もない。でも、それは今のところ何もないというだけであって、これからどうなるかはわからない。ただの強がりだと言われても、そう信じたい。新しい時間に向かって何かを創り、自分を創りつづけること。複製の海に溺れないために、ぼくにできることがあるとすれば、それしかないと思うんだ。これは楽観でも幻想でもなくて、賭けなんだよ」
「賭け……」彼女は感慨深げに言った。「賭けが何をもたらすかは、賭けてみなければわからない、ということね。それで、これからどうするつもりなの? 具体的には」
「これまで以上にプログラマーとしての仕事に打ち込む。そして、いつか、別の人間になる」
「別の人間って?」
「わからない。成れるかどうかも。でも、わからないのは自分が新しい時間を生きてる証拠なんだと思うことにするよ。はっきりしてるのは、何をするにしても、簡単にはいかないってことだけだね」
「Creginaはどうするの?」
「著作権を放棄する。本当は何もかも世間に打ち明けてしまいたいけど、今それをやると、アマナッティ監督をはじめいろいろな人に迷惑をかけてしまうから、そこまではしない。ただ自分を納得させるためだけに、他の人を巻き込むわけにはいかないからね。著作権の放棄を宣言する前に、監督に申し入れをするよ。どんな反応が返ってくるのか不安もあるけど、たぶん、認めてくれるんじゃないかと思う。もともと動画投稿サイトで公表して監督の耳に届いた曲だったんだからね。ぼくは表向きにはCreginaの作曲者であることは辞めない。でも表も裏も著作権者であることは辞める」
「じゃあ、Creginaが誰のものでもないことを認めちゃうのね。それで、淋しくならない?」
「仕方ないさ。もともとぼくのものじゃなかったんだから。今でも不思議なんだけど、この曲は本当にどこからやってきたんだろう。Creginaの独創性は最初から本物だったんだ。ぼくとは違う」
「Creginaは、これからどうなるのかな」
「さあ。長く聴き継がれていくのか。すっかり忘れ去られるのか……」
「本当にわからないことばかりなのね」
「いずれにしても、ぼくはCreginaを手放してこそ、またこの曲と出会いなおすことができるんだ」
「出会いなおす、か。悪くない言葉ね」
彼女は箱をピアノの上に置いて鍵盤の蓋を開けた。
「出会いなおしの記念に、私がCreginaを弾きたいんだけど、聴いてくれる?」
彼はほほえんだ。彼女もほほえんだ。
「ありがとう。でも楽譜がないよ。管弦楽だし」
彼女は目を閉じて深呼吸をした。そして、鍵盤の上に静かに指を置いた。
「私が誰だか知ってる?」