第6章 なぜかそれだけは話す気になれなかった
渚が喫茶店の扉を開けると、壁一面にマンガの背表紙が並んでいるのが見えた。午前零時を過ぎているのに、意外に客は多い。彼女は空いていた窓側の席に腰を下ろし、隣の席にバッグを置いた。さんざん歩いた後だったので、足から背中にかけてしびれるような心地よさが広がる。椅子って偉大な発明だったんだな。これといった特徴がないそれを見下ろしながら彼女は思った。店員が水を運んでくる。見開きいっぱいに飲み物から軽食まで列記されたメニューをさっと見てから、彼女はミルクティーを注文した。熱い紅茶が運ばれてくるのを心待ちにしながら、彼女は今夜どれくらい歩いただろうか、と自らの足取りを振り返った。
高校三年の終わりに、彼女は音楽大学を受験した。たとえ入学できてもプロのピアニストになれる可能性が低いことはわかっていたので、音大を受けるかどうか、彼女は深刻に悩んだ時期もあった。しかし、ここで挑戦しなければ、自分にはもう何も残らないという思いが勝って、結局受験することにした。そう決めてからは、よりいっそうの努力を重ねたのだが、二月の前期入試には合格することができなかった。彼女はひどく落胆しながらも、三月の後期入試に一縷の望みをつないだ。
後期入試を受ける音大がある街には、別の大学の薬学部に通っている従姉の華織がひとりで住んでいたので、渚は試験の前日からそこに泊めてもらうことになった。華織の部屋には教科書が並んだ木製の本棚と、赤いノートパソコンを乗せたリビングテーブルと、アンティーク調のアイアンベッドが置いてあった。渚にはそのどれもが、とても洗練されたもののように見えた。華織がよく行くという近所の洋食屋で夕食を済ませたあと、二人は早めに床に就いた。明日は大事な試験だからと、華織は渚をベッドに寝せて、自分は床に敷いた布団に寝た。久しぶりの再会に興奮していたこともあり、すぐに寝付けなかった二人は、天井を見上げながらいろいろなことを話した。華織はバレーボールのサークルに入っていて、家庭教師のアルバイトをしているとのことだった。
翌朝、渚が目覚めると華織はすでにキッチンに立っていた。渚も手伝おうとしたが、実技試験があるのだから怪我でもしたら大変だと言って、華織はそれを許さなかった。彼女はご飯、味噌汁、玉子焼き、肉じゃが、ブリの照り焼きを作った。渚は彼女の手際の良さと料理の美味しさに感心しながら、自分でも驚くほどの量を食べた。その上、華織はお昼のサンドイッチまで作ってくれた。渚はサンドイッチの包みを受け取りながら、とにかく今日は最善を尽くそうと改めて勢い込んだ。
渚の試験は瞬く間に終わった。実際には筆記試験とピアノの実技試験に加えて、大学のピアノ室を借りての練習時間、昼食休憩や待ち時間などを入れてしっかり七時間以上かかったのだが、彼女にはわずか十数分間の出来事のようにしか感じられなかった。準備にかける時間が長くなるほど、その成果が問われる時間は短く感じられるものなんだ、と彼女はこれまでに臨んできたコンクールや入試などを振り返りながら思った。とにかく力は出し切った。練習通りに弾けなかったところはなかったし、筆記の方にも大きな間違いはなかったはずだ。あとは結果を待つしかない。
渚がバスに乗って華織の住むアパートに戻ったのは、夕方の五時過ぎだった。三月になり、少しずつ日が長くなってきているとはいえ、辺りはもうだいぶ暗くなっていた。オートロックの玄関の前に立ち、華織の部屋の番号と呼び出しボタンを押した。今日は一日中、緊張し通しだったので、渚は早く華織の部屋に寝転んでゆっくり手足を伸ばしたかった。しかし、呼び出し音が響くばかりで返事がない。もう一度、今度は小さく声に出して番号を確認しながらボタンを押したが、やはり返事はなかった。渚はアパートから少し離れて、華織の部屋の窓を見上げた。華織の部屋だけでなく、同じ階のどの窓にも明かりが点いていない。華織は六時半からサークルの送別会があるが、渚が帰ってくるまではなるべく部屋で待っていると言っていた。ただ、彼女はその会の幹事になっており、こまごまとした準備の都合で、少し早めに出なければならなくなるかもしれないとも言っていた。そのときには、悪いけれど合い鍵で中に入ってね、夕飯は用意しておくから、と。渚は昨日、華織の部屋に着いたときに、合い鍵を渡されていたのだった。
渚はバッグの中をくまなく探したが、どこにも鍵は見つからなかった。彼女の中に静かに絶望感が広がっていった。バッグの中を探す途中から、彼女は鍵がそこにはないことに気づいていた。しまった、鍵はコートのポケットに入れたままだった、と彼女は思った。昨日、華織ちゃんの部屋に着いたとき、まだコートを脱がないうちに合い鍵を渡されたから、ついそのままポケットに入れちゃったんだ。そのときは、後でバッグに入れなきゃと思ってたのに、いつの間にか忘れてた。おまけに、今日は携帯電話もコートのポケットに入れたままだ。本当に、私はどうかしてる。
その日は、朝から三月には珍しい暖かさになった。この陽気では、とてもコートなんか着ていられない、と渚ははっきり考えたわけではない。彼女のコートは昨晩、華織と洋食屋から帰ったときからハンガーに掛けたままだったし、華織の見事な朝食やサンドイッチ、何より入試に気を取られて、自分のコートにまで気が回らなかっただけだ。その朝、渚はコートのことを一度も意識しないまま、華織の部屋を出た。
渚がコートを着ていないことに気づいたのは、バス停で音大に向かうバスを待っているときだった。無事に出発したことを母親に知らせようとして、自分が携帯電話をコートごと華織の部屋に置き忘れてしまったことに気づいた。しかし、今から引き返して試験に遅れたら大変だし、どうせ試験中は電源を切らねばならないのだから、夕方まで携帯電話がなくても特に困らないだろうと考えて、そのまま試験会場に向かったのだった。預かった合い鍵が持ち慣れないものだったからか、華織が自分の帰りを待っていてくれると思い込んでいたからか、そのとき渚は鍵のことをまったく思い出さなかった。
部屋どころかアパートの玄関にも入れないまま、どんどん日は陰ってくる。渚は華織がちょっと近所のコンビニにでも出かけていて、すぐに戻ってくるのではないかと淡い期待にすがりながら待った。しかし、時計が五時半を周り、六時を過ぎると、どうやら華織が本格的に送別会へ出かけてしまったのだ、と考えるしかなくなった。いつまでもアパートの前に突っ立っているわけにもいかない。渚はバッグからボールペンとノートを取り出し、「間抜けなことに、預かっていた合い鍵を部屋に置き忘れてしまって、中に入ることができません。昨日行った洋食屋にいます。渚」と書いてからそのページを破り、玄関の横に並んだ郵便受けの中から華織の部屋番号のものを探して入れた。もしかしたら、華織ちゃんは送別会の途中で何か大切な忘れ物に気づいて、部屋に戻ってくるかもしれない。たぶん、それはないだろうけど……。渚は溜め息をつきながら昨日行った洋食屋まで歩いた。
幸いその店は営業していた。そして、渚は中に入ることができた。華織と同じ歳くらいの店員が注文を取りに来てくれた。そう言えば、昨日もこの人が対応してくれたな、と少しほっとしながら、渚は華織が食べていたオムライスを注文した。運ばれてきたそれをゆっくりと口に運びながら、これは本当に困ったことになった、と彼女は思った。華織ちゃんはいつ帰ってくるかわからない。送別会だし、幹事だし、もしかしたら明け方まで帰ってこられないかもしれない、と申し訳なさそうに言っていた。しっかり戸締まりをして、先に寝ててね、とも。
公衆電話から渚の自宅か母親の携帯電話にでも電話がかけられれば、華織の携帯電話に連絡してもらえるかもしれなかったが、渚は電話番号を思い出せなかった。自宅の番号には普段ほとんどかけることがなく、彼女が転勤族だったこともあって市外局番しか思い出せない。母親の携帯電話の番号も辛うじて最後の四桁を思い出せるだけだった。記憶を頼りに電話をかけられるのは、警察と消防署だけであることに気がついて渚は愕然とした。電話番号を覚えるという習慣は、住所録機能がついた携帯電話が普及して以来、すっかり廃れてしまったのだ。今やそれなしには、誰もが家族にすらまともに電話をかけられない。
もし警察に相談すれば、と渚は思った。そこから高校、高校から自宅という経路で連絡が取れるかもしれないけど、この前卒業したばかりの私が、鍵を置き忘れて従姉の部屋から閉め出されてるなんて間抜けな話、誰にも知られたくない。もし知られたら、警察でも、高校でも、送別会場でも、きっと私は嗤われる。華織ちゃんにも迷惑かけるし、大事にはしたくない。でも、警察に相談しないとすれば、私は、どこへ行けばいいんだろう……。どこで送別会をするのか、華織ちゃんに聞いておけばよかった。でも、今さら悔やんでも仕方ない。
幸い渚の財布には一晩を過ごすには困らないくらいの金が入っていた。これで華織とおいしいものでも食べるように、と自宅を出るときに母親から多めにお小遣いを渡されていたのだった。彼女はどこかのホテルかネットカフェで夜を明かすことも考えたが、それらがどこにあるのか、そもそも未成年者が突然行って泊まれるものなのかもわからなかった。いよいよとなれば、やはり警察に相談するしかないか……彼女は低回した。
渚はできるだけゆっくりとオムライスを口に運んだが、それでも七時前には食べ終えてしまった。なかなかの人気店らしく、次から次に客が入ってくる。入り口近くの待合席もいつのまにか埋まっていた。空いてる皿をお下げしますね、と例の店員から暗に退席を促されたわけではないのだが、渚は何となくそこに居づらくなり、勘定を済ませて外に出た。日はすっかり暮れている。昼間の暖かさはどこへ行ったのか、三月らしい寒さが引き返していた。彼女は両肘を抱いたまま、なるべく人通りが多い道を歩いた。
しばらく行くと、交番があった。彼女が心持ち歩を緩めながら、たまたまそちらに目が行った、という体で中を覗くと、モスグリーンのジャンパーを着た中年の男とオレンジ色のスタジャンを着た小学生くらいの女の子が、パイプ椅子に座って警官と何か話しているのが見えた。警官は二人いて、若い方がジャンパーを着た二人と話し、ベテランの方は少し離れた机で書類にボールペンを走らせていた。父娘らしき二人の表情は見えなかったが、若い警官は柔和な面持ちだったので、深刻な話をしているのではないことは見て取れた。落とし物でも届けたのか、道でも尋ねているのか、おそらくそんなところだろう。ふと手を止めて顔を上げたベテランの警官と、いつのまにか立ち止まって交番の中を見ていた渚の目が合った。彼女はなるべく自然に目をそらして、また歩きはじめた。
またしばらく行くと、古本屋があった。それほど大きな店ではなかったが、ここなら長く居られそうだ、と渚は思った。彼女は五分ほど歩いて華織のアパートまで戻り、ノートにその古本屋に居ることと「19:08」とそのときの時刻を書いてページを破り、郵便受けに投函してからまた店まで歩いた。古本屋なので、置いてある本はもちろん古いものばかりだったが、店そのものもずいぶん古そうだった。どちらを見てもハードカバーの古本が背の高い本棚に隙間なく並べられ、その手前には文庫や雑誌が平積みにされ、本棚の上には全集などのセットものがビニール紐でくくられて天井すれすれまで積まれていた。一見、雑然としていたが、よく見ると分野ごとにしっかり整理されているようだった。
店内は思いのほか奥行きがあった。彼女が古本の壁の間を、ときどき横歩きも交えながら進んでいくと、ストラップつきの黒縁眼鏡をかけた五十がらみの店の主人が、背もたれの高いビジネスチェアに座っていた。彼は大きなデスクトップパソコンのキーを黙々と叩くばかりで、彼女の方を一瞥もしない。いらっしゃいの一言もない。おそらくこの古本屋の長い歴史のどこかで、店舗での直接販売とインターネットでの通信販売の比重が逆転したのだろう。青白いスタンドライトを浴びながら背を丸めてディスプレイを睨む彼の姿は、まぎれもなく仕事に没頭する人のそれであった。渚は三メートルほど離れたところから、しばらくそれを見ていたが、ついに彼は一度も彼女に視線を向けなかった。
渚は古本の壁を上に下にと眺めながら店中を歩き回った。文芸書、思想書、歴史書、洋書―一般の書店や学校の図書館では見たことがない本もたくさんあった。彼女は郷土資料を集めた本棚の前でふと立ち止まった。その一画にはある市町村について記した何々史という題名の本がずらりと並んでいた。彼女は見知らぬ町のそれを本棚から引き抜き、ずしりと手首に応える本体をベージュ色の箱から出して、ぱらぱらとページを繰ってみた。古代から現代にいたるその土地の変遷、そのときどきの人々の暮らし、さまざまな伝承や出来事、年中行事や伝統工芸、民謡や方言などが、多くの図表や写真を交えながら、詳細に記されていた。彼女はそこに出てくる地名や人名に縁もゆかりもなかったので、特に心を動かされることはなかったが、見る人が見れば―その町で生まれ育ったとか、何らかの事情があってその町に関心を寄せている人が見れば―心惹かれるものなのだろうと思った。彼女はその分厚い本をまた箱に入れ、その厚さの分だけ空いていた本棚の隙間に戻した。
こんなにたくさんの町史や村史が作られていたなんて、と思いながら彼女は古本の壁を眺めた。この古本屋は郷土資料に力を入れているのか、そもそもこの分野に分厚い本が多いからか、三本の大きな本棚にあふれるようにその分野の本が並んでいた。その多くは彼女の知らない地名のものだった。これだけあっても、世に刊行されているもののほんの一部に過ぎない。一冊一冊が自立できるほどの質量を具えた郷土史の群れ。世の中には実に多くの市町村があり、その歴史を編む人たちがいる。彼女は本のそれぞれに独特の熱を感じた。これはきっとある場所への愛着に根ざすものなんだろう。こんな熱をもって見つめたくなるような場所が、私にあるだろうか、と彼女は自問した。
渚はこれまでに父親の転勤に合わせて二つの幼稚園、四つの小学校、二つの中学校、二つの高校に通ってきた。その都度、父親が単身赴任することも検討されたが、結局それは選ばれなかった。たとえ母親と渚が転職や転校を重ねることになっても、家族が一緒に暮らすことを優先する、それが彼女たちの選んだ道だった。その結果、渚にはずっと住みつづけたいと思う場所がなくなった。自分が生まれた町にも、物心がついてからは一度も行ったことがなかった。つまり、私にはふるさとって呼べる場所がないんだな、と彼女は思った。
それが悲しむべきことなのかどうか、彼女にはわからなかった。確かに、引っ越しを繰り返すのは大変だが、同じ場所に住みつづけるのもまた大変に違いない。固定的な人間関係、祭や清掃などの地域行事、自然発生的な相互監視、暗黙の同調圧力、先人から手渡される有形無形の遺産の数々―。もちろん、それらはときに人と人、人と土地のつながりを実感させ、自分が何かにしっかり結びついているという安らぎや喜びを与えてくれるものではあるが、ときに煩わしさや息苦しさを感じさせるものでもある。その点、転勤族には、そういったものと距離を置けるという気楽さはある。
私よりずっと多く、広い範囲で引っ越しを重ねている人もいる、と彼女は思った。その人たちはふるさとっていう感覚がもっと希薄になってるのかな。それとも、「東北」や「日本」みたいに、もっと大きな形でふるさとを考えてるのかな。もしそうだとすれば、人はどんなに移動していても、どこかでふるさを求めずにはいられないんだってことになる。私はどうなんだろう。そういう定点みたいな場所を求めてるんだろうか……。
彼女は郷土資料の棚を離れて、また店内を漂いはじめた。どの本棚にも、さまざまな人間が書き残した言葉が満ち満ちていた。彼女は気の向くまま本を取り出しては、そのページをめくった。その度に、古今東西さまざまな世界の一片が彼女の目の前に広がった。一生かけても、とても読み切れない、と彼女はしみじみ思った。そうやって店内をちょうど一巡しようとしたとき、彼女は背後から声をかけられた。
「すみません、そろそろ店を閉めたいんですが」
ストラップつきの黒縁眼鏡をかけた店主が、いつの間にか渚の二メートルほど後ろに立っていた。すみません、とは言いながら、悪びれる様子はない。今も意識はパソコンの方にあるのか、どこかぼうっとしているようにも見える。彼は思いのほか背が高かった。これなら本棚の上に載せた全集類も脚立なしで整理できそうだった。声にもつやがあった。もし、古本屋主人による朗読会があったら、と彼女は思った。この人のを聴いてみたい。テキストは、そう、「三匹の子ぶた」なんか―。
「すみませんが」店主は再び低音を響かせた。「うちは八時閉店ですから」
渚が腕時計に目を落とすと、いつの間にか八時半を過ぎていた。
「すみません、知らなかったものですから」
彼女はそう言いながら、すぐそばに平積みになっていた文庫本から一冊を手に取り、勘定を済ませて店を出た。
外に出るとさらに寒さが増していた。凍える、という程ではないが、コートが恋しい。送別会は六時半に始まったはずだから、そろそろ一次会が終わる頃かな、と渚は思った。彼女は昨夜、華織が見せてくれたダンスを思い出した。送別会を盛り上げるために、後輩が余興をするのがバレーボール部の恒例なのだと華織は言っていた。最近人気のアイドルグループの振り付けをコピーしたものだったが、さすがスポーツ経験が長いだけあってひとつひとつの動きに切れがあった。衣装もしっかり準備しているのだという。あの力の入れようから見て、とても一次会で切り上げて帰ってきそうには思われなかった。渚は華織のアパートまで戻り、やはり暗い華織の部屋の窓を見上げてため息をついた。ノートに近くのコンビニに居ることと「20:41」とそのときの時刻を書いてページを破り、郵便受けに投函した。
コンビニには三分ほどで着いた。店内の明るさと暖かさに渚は身を緩ませた。できるだけ店の中を見て回ったが、古本屋とは違って、あっという間に一巡してしまった。クレンジングオイル、炭酸飲料、燃えるゴミの袋、ポテトチップ、ガムテープ、カップ焼きそば、蛍光ペン、食パン、のど飴、ハンバーグ弁当―もちろん意外なものは何ひとつない。コンビニはいつも通りのコンビニであった。彼女は窓側に並んだ雑誌を入り口の方から読みはじめた。ファッション、ブライダル、育児、旅行、グルメ、エリア情報、健康、住宅、ビジネス、スポーツ、乗り物、文芸、歴史、映画、音楽、テレビ、ゲーム、アニメ、マンガ―成人向け雑誌コーナーの手前まで、特に興味がないものも片っ端から手に取った。立ち読みするものがなくなると、バッグからさっき古本屋で買った文庫本を取り出して読んだ。その間、店内放送が数え切れないくらい繰り返された。途中でヒット曲の紹介もあり、華織が振り付けをコピーしていたアイドルの曲も流れた。知らぬ間に、その曲の一部が渚の頭の中でループするようになってしまった。
「あのぉ、お客様。うちは文庫本は取り扱っていないんですが」
六十がらみの男性店員が、いつの間にか渚の斜め後ろに立っていた。白髪をオールバックにしている。この店のオーナーなのかもしれない。言葉づかいは丁寧だったが、目つきは尖っていた。
「あ、すみません。これ、持ち込みなんです」
我ながら間抜けな返事をしていると思いながら、彼女は本をバッグにしまった。店員は疑わしげに彼女を見つづけている。視線を避けるように彼女が腕時計に目を落とすと、十時半を回っていた。特に雑誌の立ち読みを禁じている店ではなさそうだったが、それが二時間近くともなれば、店員が不審がっても仕方がない。持ち込んだ本の立ち読みまで始まれば、なおさらである。
すみません、と渚はもう一度頭を下げてからホットドリンクのコーナーに行き、ボトル缶のブラックコーヒーを取ってレジへ向かった。店員は何も言わずに腰高の扉を押してカウンターの向こうに回り、レジに立った。レジ近くのスチーマーに中華まんが並んでいるのを見て、彼女は思わず、肉まんもひとつお願いします、と言った。店員はトングで湯気の立つ肉まんを取り出して四角い紙袋に入れ、さらにそれを缶コーヒーと一緒にレジ袋に入れて差し出した。彼女は勘定を済ませて店を出た。ありがとうございました、という店員の硬い声をチャイムとともに背中で聞いた。
外はいっそう寒くなっていた。温かいのはレジ袋の中のコーヒーと肉まんだけだった。その熱も夜気に触れて刻々と奪われていった。とにかく歩いて、次の居場所を探すしかない。少し歩くと、四時間ほど前に見た、例の交番があった。警官が三人に増えている。この窮状について相談するとすれば、ここが最適であることはよくわかっていたが、彼女はどうしても中に入る気にはなれなかった。もう十一時近くになっている。高校には誰も残っていない。別の経路で自宅に連絡が取れたとしても、なぜもっと早く相談しなかったのかと叱られ、親に余計な心配をかけるのが落ちだろう。宴たけなわの華織の邪魔もしたくない。事務机の奧に座っているベテランの警官と渚の目がまた合った。彼女は再びゆっくりと目をそらして歩きだした。警官、店員、通行人、誰ひとり彼女を呼び止める者はなかった。そうか、私はこんな時間にひとりで出歩いても、もう補導されない歳になったんだな、と彼女はしみじみ思った。何かを得たようでもあり、喪ったようでもあった。
さあ、いよいよ行くところがなくなったぞ。彼女はレジ袋から肉まんを取り出して、歩きながら一口食べた。お行儀が悪い、という母親の声が聞こえた気がしたが、かまわず咀嚼した。まだ人通りは多かったが、それも気にならなかった。彼女は幼い頃から肉まんが大好物だった。だから、かつてある離島へ引っ越したときに、近所に肉まんを売るコンビニや商店がないことを知ってひどく落胆した。食べられないと思うと、余計に食べたくなった。彼女はそこに住んでいた幼稚園年長から小学校一年までの二年間を、肉まんに思い焦がれながら過ごしたのである。そのようなわけで、離島から引っ越して久しぶりに肉まんを買ってもらえたとき、彼女はそれに飛びかからんばかりだった。しかし、あることに気づいて、彼女は再び落胆した。やっと手にした肉まんが思ったより小さかったのである。これはおかしい。私の知ってる肉まんはもっと大きかった。久しぶりに食べるんだから、どうしてもあの肉まんじゃなきゃいやだ! 彼女が憤慨しながら母親にそう訴えると、何言ってるの、前と同じじゃないの、渚が大きくなったから、その分肉まんが小さく見えるだけよ、と笑われた。大きくなった? 私が? 彼女は自分の掌と肉まんを見比べた。母親の言うことはにわかには信じられなかったが、そう言われてみれば、変わったのは肉まんではなく、自分の方であるように見えなくもなかった。じゃあ、あの肉まんは、もう二度と食べられないのか。そう思うと彼女は無性に悲しくなった。
今、私が持ってる肉まんは、大きくもなければ、小さくもない。一口分欠けたそれを見ながら彼女は思った。そして、残りを一気呵成に平らげた。肉と玉ねぎと椎茸のうまみが口の中に広がり、竹の子の小気味好い歯ごたえと彼女の歩調が同調した。彼女はこのままどこまでも歩いて行けそうな気がした。実際、彼女はよく歩いた。行く手が赤信号になっていれば、青信号になっている方へ向きを変えて歩きつづけた。居酒屋やラーメン屋などはあったが、ファストフードやファミリーレストランなどの長居ができそうな店は見当たらなかった。高架をくぐり、橋を渡り、坂を上り―そのうち彼女は自分がどこを歩いているのかわからなくなった。住宅街に入ると、家々の明かりがどれも温かそうに見えた。食器を洗う音、犬の鳴き声、テレビの音声、そんな生活音がかすかに聞こえてくる窓もあった。子ども乗せを取り付けた自転車が置かれた玄関があり、エアコンの室外機が回る壁があり、梅の花が香る庭があった。どこまで行っても、誰かの家があった。人々はその中で憩い、語らい、眠っていた。
やがて彼女の前に公園が現れた。人気がなかったので迷ったが、外灯が明るいのを頼りに彼女は公園を通り抜けることにした。パンジーを植えた花壇があり、野球ができそうな広場があり、つぼみを膨らませた桜の並木道があった。さらに奥に進むと、フェンスに囲まれた黒い物が見えてきた。SLだった。草が生えた短い線路の上に二十メートルほどの漆黒の車両が鎮座していた。かつて多くの人や物を牽引していた機関車を現役引退後に運んできて展示したものだろう。何度も塗装を重ねてすっかり厚化粧になったそれは、外灯に照らされて鈍い光を放っていた。
私はここに来たことがある。突然、強烈な既視感を覚えて彼女は立ち止まった。確か、とても幼い頃に。彼女はそこだけ銀色になっている車輪の路面を見、金文字で形式番号が示されているプレートを見、夜空より黒く直立している煙突を見た。そして、注意深く周囲を見回した。見れば見るほど、自分がかつてここに来たことがあるという思いが深まった。でも、私はこの公園に遊びに来るような場所に住んだことはない、と彼女は思った。詳しくは知らないけど、SLを展示している公園は、きっと世の中にたくさんあるんだろう。私は別の公園とここを混同しちゃってるのかもしれない。
しかし、今、鍵の掛かったフェンス越しに見えているタラップを昇って、かつて自分がそのSLの運転室に入ったことがあるという感覚は彼女の中で消えなかった。そこにあったアナログ式の計器の数々、大小のバルブの数々、迷路のように張りめぐらされたパイプの数々を首が痛くなるまで見上げつづけたことも、はっきりと思い出された。あれから私はいろんなものごとを見聞きし、ひたすらにピアノの練習を重ね、自分なりに遠くまで歩いてきたつもりだったけど、実は大して遠くには来られてなかったのかもしれない。彼女は世界の果てまで行ったつもりが、すべては釈迦の掌の上だったという西遊記の話を思い出した。私の掌なんか肉まんひとつでいっぱいになってしまう。
ふりだしに戻った、と彼女は思った。彼女はSLに背を向けてフェンスにもたれかかり、レジ袋からコーヒーのボトル缶を取り出してキリッと蓋を開けた。一口飲むと、苦く冷たいものが食道の軌道を知らしめながら、彼女の中をゆっくり下っていった。体が芯まで冷えた。樹々の向こうに滑り台とブランコが見えた。もちろん誰も遊んでいない。道にもベンチにも人影はなかった。確かに、私はふりだしに戻ってしまったのかもしれない、と彼女は思った。でも、まったく同じ場所に戻ってきたわけじゃない。ここに来るまでに経てきたことのすべては、私のどこかに残っているはずだから。それが双六と生きることの違いなんだ。
缶の蓋をかたく閉めてレジ袋ごとバッグに入れ、フェンスをばねにして彼女は立ち上がった。とにかく私は歩かなきゃいけない。たとえ、大して遠くには行けなくても。彼女は振り返って、もう一度SLを見た。それは線路を断ち切られ、フェンスに取り囲まれて立ち尽くしているようにも、それらをものともせず、今にも走り出そうとしているようにも見えた。彼女は再び前を向いて歩きはじめた。
公園を出て、来たときとは別の坂を下り、橋を渡り、高架をくぐった。また道ゆく人の姿が増えてきた。彼女は見知らぬ街を歩きつづけた。そしてついに、ある通りで二十四時間営業という看板を掲げた喫茶店を見つけた。彼女は、そのまま入り口に吸い込まれそうになるのをぐっとこらえて立ち止まった。店に入る前に、華織に居場所を知らせておかねばならない。彼女はバッグからノートとペンを取り出し、看板に書かれた店の名前と電話番号を書き取ってからそこを離れた。寒さと疲れで全身がくたくたになっていたが、足取りは軽くなった。
通りを抜けると広い道路に出た。さらに歩くと見覚えのある交差点に着いた。もう閉まっているが、斜め向かいに例の洋食屋が見える。渚は茫然としてまわりを見回した。彼女は街を逆時計回りにぐるりと歩いて、いつの間にか華織のアパートの近くまで戻ってきていたのだった。はじめからその交差点を反対に歩いていれば、ものの五分で喫茶店を見つけられていたかもしれない。彼女はがっくりと肩を落として、何やってるんだ、私は、と何度もつぶやきながら華織のアパートに戻った。やはり部屋の窓は暗いままだったが、もう何の感慨も湧かなかった。彼女はノートにその喫茶店の名前と電話番号、そして「0:14」とそのときの時刻を書いてページを破り、郵便受けに投函してまた歩きはじめた。
心待ちにしていたミルクティーが運ばれてきた。渚は砂糖をふたつ入れて、ふうふう吹きながらそれを飲んだ。体の奥に熱源が宿った。彼女は深く息をついて、ゆっくり肩と脚を揉んだ。ふと、華織が送別会の合間に電話をかけてくれたのではないか、と彼女は思った。私のことを気づかって、何度か電話してくれたかもしれない。私が出ないのを不審に思わなかったかな。もう寝ちゃったんだと思ってくれてたらいいけど。渚は自分に少し余裕が生まれているのだと思った。ここなら追い出される心配はなさそうだ。彼女はバッグから文庫本を取り出して読みはじめた。
店は今どきのカフェではなく、昔ながらの喫茶店だった。店内は静かで照明も適度に抑えられていたので、本の内容に集中できた。彼女はときどき目頭を押さえながら本を読み進めていった。バッグの中には楽譜や筆記用具など受験に必要なものと、飲みかけの缶コーヒーくらいしか入っていない。店の壁一面にマンガの背表紙が並んでいたが、椅子を離れて物色する気にはなれなかった。彼女は今、手もとに本があることに感謝した。交差点を反対に歩いたのは間違いじゃなかったんだ、と彼女は思った。
どんなにおもしろい本を読んでいても、眠気はひとりでに訪れる。文字を目で追いながら、彼女の意識はいつの間にか活字の海に溶け出し、文庫本を開いたまま、頭をがくりと落としてはまた持ち上げる、ということを繰り返すようになった。寝ちゃいけない、と思いながら、彼女は二の腕をきつくつねったり、息を深く吸ったまましばらく呼吸を止めたりしてみたが、なかなか眠気は立ち去らない。一日のうちに入学試験とそれに続く長い彷徨があった。今やあまりにも彼女の心身は疲弊し、夜は更けていた。
そうして渚が文庫本に顔を埋めようとしていたとき、店の扉が開いた。ドアベルに促されて入り口の方へ目を向けると、女がひとり立っていた。渚が見たこともないような美しい女だった。年齢は二十代半ばくらいだろうか。渚は惚けたように女を見つめたが、女の方は渚に目もくれず、コツコツとショート・ブーツを響かせて店の奥まで歩き、空いていた四人掛けのテーブルの前で白いコートを脱いで腰を下ろした。中に着ていたワンピースも白かった。女は小さなバッグから煙草とライターを取り出して火をつけ、一口それを吸った。まだ何も注文してないのに店員がコーヒーを運んできた。女が何かを渡すと、店員は軽くうなずいてから店の奥に消えた。
女はコーヒーには口をつけず、煙草も灰皿に置いたまま何かを操作しはじめた。テーブルの側面に並んだ小さなボタンを押しているようだった。どうやら女の座ったテーブルはゲーム台になっているらしい。渚は斜め後ろから見ていたので表情まではわからなかったが、黙々とボタンを押すその姿から、女がかなり真剣にテーブルに向かっていることが窺えた。そういえば、さっき女が店員に渡したのは丸めた紙幣のようだった。コーヒーのおつりは返ってきていない。そもそもここは注文する度に勘定を払う形式の店ではない。
もしかして、と渚は思った。今あの人が打ち込んでいるのはあれなのかもしれない。客に現金を賭けさせるポーカーや花札のゲーム機を置いていた喫茶店が警察に摘発されたというニュースを、渚はずいぶん前にテレビで見た記憶があった。今、彼女がかじりついているテーブルはあのとき証拠品として押収されていたゲーム台によく似ているように見えた。
きっと、これはあれなんだ……。そう思うと、渚の鼓動が跳ねた。蓋の開いたマンホールのすぐ側に自分が立っていたことに気づいたような感覚。
加えて、ひとつの符合が渚を驚かせた。そのとき、彼女がたまたま読んでいたのは、賭博に熱狂するロシア人青年を描いた翻訳小説だったのである。青年はひと晩のうちに街中で噂になるほどの大金をルーレットで儲け、またたく間にそれを使い果たした後、借金したり、刑務所に入れられたりしながら賭博を続けていた。彼は久しぶりに会った友人から感受性をなくしてしまったと批判され、かつての思い人が今でも自分を思ってくれていることを聞かされて涙で心を洗う。賭博こそがまさに自分を滅ぼしたものであり、友人たちがやめさせようとしているものであることを思い知りながらも、青年は有り金を握りしめてまたルーレット台に向かうのだった。思い人のもとへ向かうため、そして自分自身をよみがえらせるために。
しかし、と渚は思った。もしルーレットで勝てたとしても、それで彼はよみがえることができるんだろうか。賭博で身を滅ぼした人が賭博で救われようとするのは、どこか矛盾してるように見える。でも、きっと私が考えるくらいのことは、青年もよくわかってるんだろう。わかった上で賭けずにはいられないんだろう。賭けが何をもたらすかは、賭けてみなければわからない。そのわからなさに、青年は賭けているんだろう。
有り金をルーレットに賭けつづける青年と、うつむいてゲーム台のボタンを押しつづける女と―。渚はだんだん自分が今ここにいるという実感を持てなくなっていった。けばけばしいマンガの壁が現実感をいっそう希薄なものにした。もし、今夜、私が鍵を忘れず、華織ちゃんの部屋で眠っていたら、これを見ることはなかった。私はこれを知らず、想像することすらなかった。そして、私が今ここに居なくても、これはここにあった。渚は自分には思いも寄らぬ世界が、ごく身近に広がっているという事実にあらためて打たれた。
女はボタンを押すばかりで、小さくこぶしを握ることも、ゲーム台を蹴ることもなかった。まるで短い動画をループ再生するように、飽きることなくひたすらボタンを押しつづけていた。渚には女が勝っているのかどうかわからなかった。賭けに没頭する人の内面も量りかねた。でも、勝算もないのに私が音大を受けたのだって、傍から見れば訳のわからないことなんだろう、と渚は思った。どれだけ努力しても、偶然の要素をゼロにはできない。私が弾いた自由曲は、試験官の嫌いな曲だったかもしれないし、もし私が携帯電話を忘れてなかったら、試験中に鳴り出していたかもしれない。どれだけ準備しても、どこかにたまたまというところが残ってしまう。もちろん、受験は博打じゃない。でも、私も最後の最後まで賭けることから逃げられない。
それにしても、何であんなに綺麗な人が、こんな真夜中に、こんなところで賭博ゲームなんかやってるんだろう。渚は自分が偏ったものの見方をしているのかもしれないと思いながら、そう考え込まずにいられなかった。私にはあそこまで偶然に身を委ねることはできそうにない。いや、できるかどうかの問題じゃなくて、あの人はもう自分でも抑えられないくらいギャンブルにはまりこんじゃってるのかもしれない。長い間、女は同じ姿勢でボタンを押しつづけていた。コーヒーは口をつけられることなく冷め、煙草も二、三口吸われたまま灰皿の上で燃えつきていた。
たまたまということをゼロにできるほど世界は単純じゃない。だから本人にその気がなくても、いつも何かに賭けることになってしまう。そして、賭けるときには、人はひとりになる。たとえ集団で何かをしても、人はその結果をまったく同じようには喜ぶことも嘆くこともできない。まして、ひとりで賭けをしているあの人が勝とうが負けようが、結果はあの人がひとりで引き受けるしかない。もしあの人が青年みたいに身を滅ぼすことになったとしても……。渚には、脇目もふらずゲーム台に向かいつづける女の背中が、とても小さなものに見えた。
私が音大に受かろうが落ちようが、その結果も私がひとりで引き受けるしかない。そう思ったとき、渚の中に夜の音楽室で月の光を弾く少年の姿が浮かんだ。その光景はどこまでもあたたかかった。猛烈な眠気が、再び渚を捕らえた。女の背中に目を凝らすほど、渚の意識は寸断されていった。ボタンを押しつづける女の動作は、催眠術のように単調で緩慢だった。その白い背中は黒いゲーム台もろともけばけばしいマンガの壁に溶けていった。もう無理、とても起きていられない。もし、今、あの人が、ゲーム台を、蹴り、はじめた、と、しても―。それが眠りに落ちる寸前に渚が考えたことだった。
渚が目を覚ましたとき、店内にほとんど客の姿はなくなっていた。あの女が座っていた椅子も空になっている。いつの間に寝ちゃったんだろうと思いながら渚が腕時計を見ると、五時半過ぎになっていた。首の付け根がひどく痛む。そこをゆっくり揉みながら渚は窓を振り返った。空が少し明るくなっていた。通りに人はなく、目につくのは店先に出されたゴミ袋の山と、わがもの顔で道を歩く猫の姿ばかりだった。店内に視線を戻すと、少し離れた斜め向かいの席で、ジャージ姿の七十代と思しき男性客が新聞を広げていた。真新しい朝刊のようだった。
渚はあの女がいたテーブルをもう一度見た。コーヒーは片づけられ、灰皿は空になり、椅子の位置も整えられていた。そこに彼女が座っていた痕跡はどこにも見当たらなかった。私は本当にあの人を見たんだろうか。疑いはじめると、昨夜目にした人々や光景のすべてが夢の中で出会ったもののように思われた。しかし、彼女の手もとには表紙の角が擦れた文庫本があり、バッグの口からはレジ袋の端が覗いていた。何より彼女は今、華織の部屋ではなく、喫茶店で目を覚ましていた。渚はそっと文庫本を手に取ってみた。それは確かな手触りと重さを持っていた。
渚が文庫本を開こうとしたとき、店の扉が開いた。ドアベルに促されて入り口の方へ目を向けると、女がひとり立っていた。華織だった。彼女ははりつめた面持ちで足早に渚の側まで来た。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
華織は息を弾ませながら渚の全身を眺め、へたり込むように向かいの席に腰を下ろした。
「ごめんねぇ。私、まさかこんなことになってるなんて思いもしないで」
「ううん。こっちこそごめんなさい。私が部屋にいないんで、びっくりしたでしょう」
「びっくりしたぁー。玄関に靴がなかったから、あれ? って思いながら中に入ったんだけど、ベッドにも、トイレにも、部屋中どこを探してもいないじゃない。夕食にも手をつけてなかったし。こんな朝早くに書き置きもしないでどこかへ出掛けるはずもないし。ん、書き置き? もしかしてって思って、下の郵便受けを開けてみたら、こんなのが何枚も入ってるじゃないの。まさに血が凍る思いだったよ。酔いなんかいっぺんに醒めちゃって、そのまま走ってきた」
華織は渚が郵便受けに入れたメモの束をテーブルに置いた。かたく握られた跡がついていた。
「ほんっとに、ごめんね。私が鍵を忘れたせいで余計な心配かけちゃって」
「どうして電話してくれなかったの。こっちからかけてもぜんぜん出ないし」
「ごめんなさい。メモに書いてなかったね。携帯も鍵と一緒に部屋に忘れちゃったの」
数秒の沈黙。
「じゃあ、公衆電話から……って、そうか、番号がわからなかったのか。叔母さんとか自宅のは?」
渚は首を振った。
「さすがに警察に相談するのは大げさかなって思ったの。それに、われながらあまりにも間が抜けてて恥ずかしくって」
華織は一瞬笑いそうになったが、すぐ真顔になって言った。
「それで、どうだったの? 試験は」
「うん。練習通りにできた。華織ちゃんのサンドイッチのおかげだよ。本当にありがとう」
「よかった」
「送別会の方は?」
「楽しかった。先輩たちはもうばらばらになっちゃうから、今度はいつ会えるかって思うと、なかなかお開きにはできなくてね。それで気がつけば、この時間。本当にごめんね」
渚は再び首を振った。華織の声は嗄れ、目もとは少しむくんでいた。
「ひとりで恐くなかった?」
「平気。華織ちゃんには悪かったけど、鍵を忘れたおかげでいいこともあったよ。部屋で寝てたら会えないものにも会えたし」
「へぇ。どんなもの?」
渚は少し考えてから答えた。
「SL、とか」
「SL?」
「まあ、ひと晩のうちにいろいろあったんだよ」
店員が華織に水を持ってきて、渚のグラスにも水を足した。華織は一気にそれを飲んでから言った。
「せっかくだから、朝ごはん食べていこうか」
「いいね。ものすごくお腹空いてる」
二人はモーニングセットを注文した。ロールパン、スクランブルエッグ、ハム、サラダ、コーヒー。凝ったものは何もなかったが、渚にはそのどれもがはじめて食べる料理のように感じられた。渚は食べながら昨夜あったことを順を追って話した。華織は渚が投函したメモを広げながらそれを聞いた。渚はあの女のことも話そうかと思ったが、なぜかそれだけは話す気になれなかった。華織は渚が鍵を忘れて夜の街をさまよったことについては、とりあえず叔母さんたちには黙っておいた方がいいだろうと言った。渚もそう思うと答えた。二人が朝食を終える頃には、次々に客が店に入ってくるようになった。あの女が座っていた椅子にも紺色のスーツを着た男が座った。二人は席を立った。勘定を済ませて店を出るとき、渚はもう一度あのテーブルを見たが、それが本当にゲーム台なのか、見分けることはできなかった。
朝の冷気が二人を包んだ。渚は思わず両肘を抱いた。華織はコートを脱いで渚の肩に掛け、私はこれがあるから大丈夫、と言ってマフラーを肩に掛けるように巻きなおした。ありがとうと言いながら渚がコートの袖に腕を通すと、華織の体温が伝わってくるようだった。空はすっかり明るくなっている。二人は勤め先や学校へ向かう人々に追い越されたり間に割り込まれたりしながら並んで歩いた。昨夜通ったはずだったが、渚にはまったく別の道に見えた。街も人も動きはじめていた。
午前七時、渚は華織と一緒に部屋に帰った。教科書が並んだ本棚も、赤いノートパソコンを乗せたリビングテーブルも、アンティーク調のアイアンベッドも、自分のコートさえも、ずいぶん久しぶりに見るような気がした。携帯電話には華織から三件、母親から五件の着信履歴が残っていた。渚は母親に電話をかけて折り返しの連絡が遅れたことを謝り、昨日受けた試験について話した。母親はどうして電話に出なかったのかと不満を言ったが、最後は安心した様子で電話を切った。それから二人は一昨夜のようにベッドと布団に並んで眠った。午後一時、夢も見ないほど深い眠りから覚めると、渚は予定通り自分の家へ帰った。別れ際に華織から鍵を預かったままになっていることに気づいて、慌ててそれを返した。
翌週、渚は大学から合格通知を受け取った。