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天の海に 雲の波立ち  作者: 朝倉恭人
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第5章 これは決して妄想なんかじゃないんだよ

 Creginaが静かに流れる中、色鮮やかに花々が咲く庭に、小さな女の子が座っている光景が映し出される。彼女の前には三輪車が逆さにして置かれている。彼女は左手でペダルを回しながら、右手でつかみあげた砂をさらさらと車輪にかける。車輪にはじかれた砂は、弧を描きながら散ってゆく。女の子は飽きることなくその動作を繰り返す。

「リヴィア、お家に入りなさい」母親が窓から顔を出して呼びかける。「お父さんがピザを焼いてくれたのよ。冷めないうちに食べましょう」

 しかし、女の子は振り向きもせずに車輪を回し、砂をかけつづける。母親は小さな溜め息をつき、庭に出て女の子に歩み寄る。

「ねえ、聞いてるの? はやく手を洗いなさい」

 それでも女の子は夢中でまた新しい砂をつかみあげる。母親は女の子の耳元に顔を近づけてささやく。

「ピザ! お昼ごはん!」

 女の子は手を休めずに、真剣な面持ちで答える。

「ごはん? ちょっと待っててね、今作ってるから」

 母親は笑い出してしまう。


 小学生になったリヴィアは、級友から天体観測に誘われる。その級友の叔母が熱心な天文愛好家であり、今話題のハレー彗星を一緒に観に行くのだという。相談の末、リヴィアの家族も同行させてもらうことになる。深夜二時に山奥までドライブするのも、宇宙船のような真っ白の天体望遠鏡が組み立てられていくのを見るのも初めてのことで、リヴィアは寒いのも眠いのも忘れてしまう。やがて準備が整い、叔母さんが望遠鏡を(のぞ)くよう皆に促す。リヴィアたちは、はしゃぎながら順番に接眼レンズに目を当てる。叔母さんは真ん中に光っているのがハレー彗星だと説明するが、リヴィアには他の星と見分けがつかない。叔母さんは残念そうに言う。

「しっかりと尾を引いているところを見せたかったんだけれど、今はあまり見えないわ」

 しかし、リヴィアは少しもがっかりしない。これまで見たこともないほど明るい星空を仰いで彼女は息を()む。私が知らなかっただけで、いつもこんなにたくさんの星が輝いていたのかと。いつか母親から太陽が明るいから見えないだけで、昼間も星は光っていると聞いて驚いたことや、学校の先生から人間はすべての星を数えることはできないと聞いて本当だろうかと(いぶか)しんだことを彼女は思い出す。

 しばらく望遠鏡を操作していた叔母さんが、再びそれを覗くよう皆に告げる。今度はみんな接眼レンズに目を当てたまま、それぞれに嘆声を漏らす。リヴィアも思わず声を上げる。土星がはっきりと、その()の筋まで見えている。あまりの鮮やかさに、今この目で土星を見ていることが信じられない彼女は、望遠鏡の前に手をかざしてそれが写真ではないことを確かめたくなる。どうしてこんなにきれいなものが宙に浮かんでぐるぐると回りつづけているのか、彼女はしみじみと不思議に思う。


 やがて美しく成長したリヴィアは州の環境保全課で働くようになる。彼女には建設会社に勤めている恋人がいる。彼とは同じ大学で学んでいたときからのつきあいで、二人は仕事上の悩みも打ち明け合い、励まし合える関係である。二人は毎週のようにデートを重ね、そのうち一緒に暮らそうと話し合っている。

 しかし、ある晩、リヴィアは同僚の結婚パーティーで出会った別の人を好きになってしまう。その人は今どき珍しく金色の懐中時計を持っていて、胸ポケットからそれを取り出しては入れるという動作を繰り返している。よく見ると魅力的な顔立ちをしているのだが、懐中時計に合わせるかのように(ひげ)を蓄えていて、それが大時代な印象を与える。髪型や服装にもリヴィアの恋人のようなスマートさは感じられず、少し会場から浮いて見える。

 その人物に好奇心が湧いたリヴィアは、思い切って彼に話しかける。

「とても趣き深い時計をお持ちですね」

 彼はほほえみながら、今胸ポケットに入れたばかりの時計を取り出して彼女に見せる。

「これは祖父の形見でして、もう百年以上前に作られたものなんです」

「百年……。時間は正確に計れるんですか?」

「もちろん新しい時計に比べれば、誤差はあります。特に今はゼンマイが弱ってきているので、修理に出そうと思っているところです。手に取ってご覧になりますか?」

 彼女がうなずくと、彼は時計を鎖からはずして彼女の掌の上にそっと載せる。

「とても繊細な作りをしていますね」彼女は文字盤や竜頭の意匠に目を凝らしながら溜め息をつく。

「時計としての実用性は乏しいですが、持っているだけで落ち着くんです。祖父だけでなく、作り手や売り手も含めたさまざまな人たちが確かに存在していたことが、この時計から感じられます。ほとんどお守りみたいなものです」

「本当に美しい時計ですね」彼女は礼を言って時計を彼に返す。彼はそれを鎖につないで胸ポケットにしまう。

 二人は互いのことを尋ね合う。彼の名前はヴィンチェンツォ。リヴィアより六つ年上の三十歳で、大学で宇宙物理学を教えている。彼はリヴィアの仕事に興味を持ち、彼女が話す有害物質の検出方法やその処分の仕方、リサイクル事業のやりがいと難しさなどに、時々質問を挟みながら熱心に耳を傾ける。彼女はこんな話題が結婚パーティーには向いてないことを自覚しながら、彼に尋ねられるまま次々に話してしまう。そうするうちに、自分がとてつもなくおもしろい話をしているという高揚感が湧いてくる。こんなことは初めてだと彼女は思う。

 彼が宇宙の専門家だと聞いて、小学生のときに出かけた天体観測のことを思い出した彼女は、そのときのことも彼に話す。

「結局、私はハレー彗星を見られたのかどうか、よくわからなかったんですが、あのとき見た星空は、今も胸に焼きついています」

「そうでしたか。ぼくはあのとき中学生でしたが、確かにハレー彗星が尾を引く姿を家庭用の望遠鏡で捉えるのは大変でしたね」彼は遠い目をして言う。

「見られたんですか?」

「ええ、見ました」

「さすが、観測がお上手だったんですね」

「いえ、下手な鉄砲も何とかで、何度もチャレンジしただけです」

「それで、どうでした?」

「そうですねぇ。やはり写真で見るのとはまったく違っていました」

「どんな風に?」

「今、彗星と自分が一対一で見つめ合っているという鮮やかな感覚がありました」

「うらやましい」彼女の瞳に星が宿る。

「あなたも見られますよ」

「見られますか?」

 彼は胸ポケットから時計を取り出してみせる。

「五十八年後に」

「もうすぐですね」

 二人は笑って見つめ合う。彼は語る。

「月はかつて変わるものと変わらないものとの境目だったんです。大昔の話です。月のこちら側はものごとが生滅したり変化したりする俗な世界で、月の向こう側は変化しない神聖な世界だと考えられていたんです。でも、だんだん月の向こう側で新星などが観測されるようになって、昔ながらの宇宙観は変容を迫られることになりました。さまざまな政治的、宗教的、学術的な軋轢(あつれき)を乗り越えながら、人間は少しずつ月の向こう側にも変化があることを受け入れるようになっていったんです。ぼくたちと同じように、宇宙にも始まりがあり、恐らく終わりがあるということを。ハレー彗星を見たとき、ぼくは人と宇宙の関わりの変化に立ち会っているような不思議な感覚に満たされていました。まあ、天文好きの少年にありがちな、ただの妄想に過ぎなかったのかも知れませんが。しかし、ぼくの中であのときの感覚が消えることはありません」

 その夜から、リヴィアは四六時中ヴィンチェンツォのことばかり考えるようになってしまう。何をしていてもまさに(うわ)の空で、自分が楽しげに彼とハレー彗星を見上げているさまが繰り返し目に浮かぶようになる。隣で天体望遠鏡を操作し、時々星空を指さしながら語りつづけているのは、中学生の彼であり、青年の彼であり、老人の彼である。つい先日、彼に出会ったばかりなのに、ファインダーで彗星を狙う中学生の彼の横には、確かに小学生の自分が胸を躍らせながら立っていたような「記憶」に彼女は取り()かれる。我ながら少女趣味の妄想だといくら頭から追い払っても、次の瞬間にはまた彼と一緒にハレー彗星を見上げる光景に引き戻されてしまう。まるで突然、時空をもねじ曲げてしまう巨大な重力が現れたように。

 リヴィアの恋人は彼女の変化にすぐ気がつく。

「おい、どうしたんだ。ため息ばかりついて。いったい何が起こったっていうんだ」

 彼は彼女を揺さぶる。彼女は何でもないと言ってごまかそうとするが、彼を納得させることはできない。とうとう彼女は胸の内を明かすしかなくなる。ヴィンチェンツォに出会ったあの夜以来、彼のことが頭を離れないこと。いくら彼のことを考えまいとしても自分ではどうすることもできないこと。我ながら馬鹿げていると思いながら、彼と一緒にハレー彗星を見られるなら、もう何を失ってもいいとさえ思っていること。彼女は泣きながら彼に謝りつづける。

 彼は最初驚き、次に嫉妬し、最後にあきらめたようにわかったよと理解を示す。しかし、それ以来、彼も別人のようになってしまう。彼は夜中に彼女に電話をかけてあいつともう寝たのかとしつこく聞いたり、彼女に思いなおすよう長文の手紙を送りつけたり、彼女の家や彼女がよく出かける場所で待ち伏せしたりするようになる。彼は苦悶の声を上げる。

「助けてくれ! このままじゃ、ぼくは本物の犯罪者になってしまう!」

 彼からのつきまといは、その後ひと月近く続くが、やがて第二宇宙速度に達した惑星探査機のように、彼は少しずつ彼女の重力を脱していく。彼からの通信が絶えたとき、リヴィアは意を決する。今度は私がヴィンチェンツォを追いかける番だ、と。彼女は知人伝いに彼の連絡先を調べ、彼と会う約束を取りつける。

 ヴィンチェンツォが待ち合わせ場所であるカフェに入ってきたとき、リヴィアの心臓は等速運動を()めそうになる。彼女は緊張した面持ちで彼にぎこちなく手を振る。彼は歩きながら懐中時計を取り出して、まだ約束した時間の十分前であることを確かめる。

「お待たせしました」

「いえ、私が勝手に早く来ただけですから」

 彼は彼女の向かいに座って、エスプレッソを注文する。

「ちょうど、ひと月ぶりですね」

「はい」

「お元気でしたか」

「ええ……」彼女は笑おうとするが、うまくいかない。

「それで、お話というのは?」彼は彼女が少し痩せたことに気づく。

「実は、ひとつご相談したいことがあって」彼女の顔はシリウスのように蒼白である。

「うかがいましょう」彼は彼女のただならぬ様子から、何を聞いても驚くまいと覚悟する。「とても、言いにくいことなんですけれど……あの、わ、私と結婚していただきたいんです」

「え?」今度は彼の心臓が等速運動を止めそうになる。

「結婚、していただきたいんです、私と」彼女は念を押すように言う。

 彼は懐中時計を取り出して、そこに次に言うべき台詞(せりふ)が書かれていないか確かめるように文字盤を見てからまたポケットに入れる。数秒の沈黙が、彼女には天文学的な長さに感じられる。

「だめでしょうか?」彼女は待ちきれずに問いかける。

「だめも何も、ぼくとあなたがお会いするのは、まだ二度目ですよね」彼はなだめるように言う。

「そうです」

「それで結婚というのは、いくらなんでも、その、性急すぎませんか」

「自分でもおかしなことを言っているのは、よくわかっています。でも、私としては、もう苦しくて、苦しくて、あなたに結婚を申し込まずにはいられないんです」

「でも、こういう場合、まずは友人か恋人としておつきあいを始めるのが世の習いですよね」

「世の習いに従わなければならないのなら、まず私とつきあって、それから結婚してください」

「どうして、そんなに結婚にこだわるんですか?」

「自分でもよくわからないんですが、とにかく私はあなたと一緒にハレー彗星が見たくてしかたがないんです」

「ハレー彗星?」

「そうです。どうぞ笑ってください」

「それで結婚、ですか?」

「次にハレー彗星が地球に近づくとき、あなたは八十八歳、私は八十二歳になっている計算になります。そのとき私が確実に、あなたと一緒にいられるように結婚していただきたいんです。我ながらめちゃくちゃなお願いをしていることはわかっています。でも、あなたと結婚しなければ、私はもう他のことがまったく手に着かないんです」

 うっかりブラックホールを覗き込んでしまったときのような恐怖が、彼の顔に浮かぶ。

「残念ながら、ぼくはその歳になるまで生きている自信がありません。あなたはきっと大丈夫でしょうが」

「あなたを死なせないよう、全力を尽くします」

「そのときまでにあなたの気持ちが冷めてしまうとは思いませんか?」

「思いません」

「情熱のままに一緒になって、結局別れてしまった夫婦をぼくは何組も知っています」

「もし私と離婚するなら、一緒にハレー彗星を見てからにしてください」

「ずいぶんな熟年離婚ですね」彼は苦笑する。

「もはや晩年です」

「いつの間にか、ぼくたちが結婚する前提で話が進んでいませんか?」

「やっぱり、だめですか?」

「あなたはまだ若い。ぼくにはあなたがご自分の情熱に振り回されてしまっているように見えます」

「仰ることはよくわかります。ですが、私はこのひと月の間、悩みに悩んだ上でこの場に臨んでいます。私とハレー彗星を見たいとは思わない、あるいは世の習いや一般論の方を信じると仰るのなら、今ここできっぱり私を振ってください。私は二度とあなたに近づきません。近づかないよう努力します」

 彼は胸ポケットを探るが、懐中時計を上手く取り出すことができない。中身が減った小さなコーヒーカップを見て、カプチーノにしておくんだったと心の中で舌打ちしながらそれを飲み干す。

 彼女は彼に出会って以来、自分にどのような光景が浮かびつづけているのか、細部に至るまで切々と語る。彼は最初、その話をぼんやりと聞いているだけだったが、やがてピントがぴたりと合うように、彼女の語る光景が自分の目にもありありと浮かびはじめる。そして、どういうわけか、確かに天体望遠鏡を組み立てる中学生の自分の隣には小学生の彼女が目を輝かせながら立っていたような、八十八歳の自分の隣には八十二歳の彼女がやはり同じように立っていなければならないように思われてくる。

 彼は懐中時計を取り出してしっかりと握り、何度か深呼吸をしてから言う。

「わかりました。あなたからのプロポーズをお受けします」

「本当ですか!」

「ぼくは研究の方が忙しいので、しばらく誰とも結婚するつもりはありませんでしたが、これも何かのめぐり合わせなのでしょう。超新星爆発にでも出会ったと思って、あなたと結婚します」

「超新星爆発?」

「ただの(たと)えです。気にしないでください」

 そのまま二人は役所に行って婚姻届を出す。二人の家族や友人たちはその軽率さを責める。出会ってひと月、しかもたった二度会っただけで結婚するなんて、いい歳をして何を考えてるんだ。そんなに一緒にいたければ、とりあえずは事実婚でもいいじゃないか。もし離婚ということなったら、別れるまでに長く苦しむことになるんだぞ、わかっているのか。


 二人は周囲の心配に反して仲むつまじい夫婦生活を送る。やがて一男一女の子どもも生まれる。ときどき彼らは車で郊外へ出かけて、心ゆくまで天体観測を楽しむ。ヴィンチェンツォの知り合いのつてを頼って、イタリア内外の大きな天文台を見学する家族旅行にも出かける。二人の仕事はそれぞれに充実し、子どもたちも小さな天文愛好家に育つ。彼らは満月のように欠けるところのない日々を送る。

 しかし、ヴィンチェンツォの急逝によって満月は砕け散る。五十歳になった彼は、ある晩、自宅の書斎で突然倒れてしまう。不吉な物音に驚いて駆けつけたリヴィアは、すぐに救急車を呼ぶ。彼はそのまま意識を回復することなく、夜明け前に帰らぬ人になる。死因はくも膜下出血と診断される。リヴィアは放心状態に陥り、高校生の息子と中学生の娘に抱きかかえられるようにしてヴィンチェンツォの葬儀をする。

 ヴィンチェンツォが死んだひと月後、リヴィアは彼が最期にどんなことを書こうとしていたのか知りたくなり、彼の書斎に入って、今はかたみになってしまったパソコンの電源を入れる。彼が倒れる直前に上書きしていた論文のファイルはすぐに見つかる。彼女はそれを読もうとするが、彼女にはそれが英文と数式で書かれたブラックホールに関する論文であるらしいということ以外は何ひとつ理解できない。二十年も一緒に暮らしてきたのに、と彼女は思う。私は彼のことをよくわかっていなかったのかもしれない。彼は本当はもっと研究に時間を費やしたかったのではないか。

 ディスプレーに並んだ文字列を眺めていると、家族が寝静まったあと、いつもひとりで書斎に向かっていた彼の後ろ姿がいくつも浮かんでくる。その背中は星の運行のように揺るぎない意志と深い孤独を(たた)えていたように思われてくる。そして、彼女はだんだん自分に腹が立ってくる。一緒にハレー彗星を見るまであなたを死なせないと言ったのに、これまでどれだけあなたに甘えてきたかわからない。あなたはぜんぜん弱音を吐かなかったし、めったに風邪も引かないくらい丈夫な人だったから、私はすっかり油断して、あなたに頼り切っていたんだわ。全力を尽くすと言ったのに。全力を尽くすと言ったのに。八十八どころか五十であなたを死なせてしまった。その上、あんなにいろんなことを教えてもらったのに、私はあなたが書き遺した言葉をただの一行も理解できない。私はこの二十年間、いったい何をしてきたんだろう……。

 リヴィアはそれから数日を暗黒星雲のような面持ちで暮らす。しかし、ある夜突然、目の色を変えて宇宙物理学の勉強を始める。彼女は理系学部を出ており、仕事柄、環境科学についての知識は持っていたけれども、それはほとんど役に立たない。宇宙物理学の入門書を集めるところから始める、文字通りの独学である。仕事や、まだ十代の子どもたちの世話をしながらの勉強は連日深夜にまで及ぶ。慢性的な寝不足で何度も体調を壊し、子どもたちからは無茶だと止められるが、彼女は書斎に籠もりつづける。それだけ打ち込んでも理解はなかなか進まず、特に難解な数学と物理学が無数の隕石群のように彼女の前に立ちはだかる。それでも彼女は投げ出さず、隕石をひとつずつ打ち砕くように学びを進める。

 そうしてリヴィアはヴィンチェンツォの享年に追いつくが、宇宙物理学についてはまだ大学生レベルの内容も十分に理解できない。その頃には、子どもたちも二十代なって親の手がかからなくなるものの、職場で課長に昇進し、仕事の方がいっそう忙しくなる。彼女が五十代半ばになったとき、ようやく大学生レベルの内容を理解できるようになり、六十代半ばになったとき、何とか専門書や学会誌にも手が届くようになる。この頃には子どもたちもそれぞれ結婚して家を出ており、仕事も退職してようやくまとまった時間を取れるようになる。

 そしてついに、リヴィアが七十歳になったとき、彼女はヴィンチェンツォが最期に書いていた論文を、自分が一字一句にいたるまで正確に理解できるようになっていることに気づく。書きかけのものなので断定はできないが、未発表になってしまった最期の論文で彼が追究していた問題は、おそらく彼の死の翌年に別の研究者によって解明されていたことまで彼女は自分で調べて推定できるようになっている。でも、あなたの書いた論文の方が美しい、と彼女は思う。あなたってこんなにすごい人だったのね。彼女は人が遠い星の光を長い時を経て受け取るように、彼の言葉を四半世紀越しに受け取ることができたことを心から喜ぶ。

 こうしてリヴィアは当初の目的を果たしたが、その後も彼女は宇宙物理学の勉強を続行する。研鑽(けんさん)を積んで、もはや研究者の域に達した彼女は、七十代半ばに国際宇宙学会に入会し、自分で論文を書いて学会誌に投稿するようになる。もちろん審査を突破して論文を掲載させるのは至難の業である。彼女は論文を投稿し、回る車輪にかけられた砂のようにはじかれてはひどく落胆する、ということを繰り返す。

 しかし、リヴィアが八十歳になったとき、とうとう彼女の投稿した論文が学会誌に掲載される。独学の老研究者の新星のごとき登場が学会で話題になる。彼女は学会からその年の特別奨励賞を授与される。彼女の研究テーマはヴィンチェンツォのそれをさらに発展させたものだが、今や彼女は彼に負けない研究者として世間に認められるようになる。彼女はますます研究に没頭する。

 だが、これまでの無理が(たた)ったのか、この頃からリヴィアは病に伏せりがちになる。原因ははっきりしないが、こらえがたい頭痛と腰痛に悩まされ、朝から起き上がれないこともしばしばになる。子どもたちは一緒に暮らそうと言ってくれるが、もはや部屋や廊下にまで資料があふれかえり、家全体が彼女の仕事場と化してしまっているので、研究から遠ざかることを恐れて、彼女はひとり暮らしを続ける。


 そうして彼女は八十二歳になる年を迎える。その年の初めから夏にかけてハレー彗星の接近について報じられる機会が増えていく。木々が葉を繁らせていくのに反比例するようにリヴィアの体調はますます悪化し、遠からずここでのひとり暮らしはできなくなろうだろうと、彼女も覚悟せざるをえなくなる。七月のある夜、ひとり寝室で眠っていた彼女は、かすかな音に目を覚ます。ひどく懐かしい音だった気がするが、それが何の音だったのかは思い出せない。時計を見るとまだ二時である。再び眠ろうとするけれども、目が冴えて眠れない。それどころか、今すぐ駆け回りたいような衝動が込みあげてくる。気がつくと、あれほど彼女を悩ませていた頭痛と腰痛が、嘘のように消えている。ありがたい、これでまた論文が書ける、と感激しながら彼女は立ちあがる。いったい何が起こったのだろう。重力が半分になったように感じられて、彼女は軽く跳躍さえしてみる。

 窓を見ると、月のない夜空が見える。そうだ、今夜こそあれを観に行こう、と彼女は思いつき、クローゼットから天体望遠鏡を引っ張り出す。望遠鏡や三脚の重さまで半分になったように感じられて、彼女は意気揚々とそれらを車のトランクに載せる。彼女は久しぶりに車を運転して、家族でよく出かけた郊外の丘へ行き、手際よく天体望遠鏡を組み立てる。もう、小学生の頃の私とは違う、と彼女は思う。今こそこの目で必ずあれを見る。彼女は闘志を燃やしながらファインダーを(のぞ)く。しかし、どうしたことか、いくら探しても一向に目当てのものが見つからない。どうしよう、もたもたしていると、夜が明けてしまう。彼女は焦りはじめる。

 そのとき、また、あのかすかな音が聞こえる。彼女は驚いて音のする方へ目を凝らす。黒い人影がひとつ、ゆっくりと近づいてくる。

「こんばんは」少年の声である。

「こ、こんばんは」どうして子どもがこんな時間に、と(いぶか)りながら彼女は挨拶を返す。

「それじゃあ、望遠鏡の角度が高すぎるよ」少年の方は平然としている。

「そうかしら」この子も天体観測に来ていたのか、と彼女は少し安心する。

 彼は彼女の(そば)まで来て、慣れた手つきで望遠鏡を操作する。

「これでよし。覗いてみて」

 彼女は接眼レンズに目を当てる。青白い尾を長く引くハレー彗星が手が届きそうなくらいはっきり見える。ああ、やっと見られた。本当に彗星と自分が一対一で見つめ合っているみたい。彼女は溜め息をつく。

「ありがとう」しばらく望遠鏡を覗いたあと、彼女は彼に向かって語りかける。「もう何十年も前から、ずっとこれが見たかったの」

「ぼくもだよ」彼が答える。「しばらく天体観測に来てなかったから、勘が狂っちゃったんじゃないのかい?」

 どういうわけか、彼女にはそれが笑みを含んだ青年の声に聞こえる。聞き違いだろうか、よく知っている声だったような気がする。目を凝らしても、闇に紛れていて、彼の姿はよく見えない。訳がわからないまま、突然、彼女の目はコロナで縁取られたように熱くなる。

「君はこれまで、本当に忙しくしてきたからなあ。天体観測に来られなかったのも無理はない」

 今度は老人の声に聞こえる。耳馴れない、しかしどこかで聞いたことがあるような声である。彼女は自分の頭がいよいよおかしくなったのかと思う。

「それにしても、まさか君があんな論文を書くとは思わなかった。正直、嫉妬するよ。でも、望遠鏡の扱いの方は、まだぼくの方が上だな。こればっかりは経験がものを言うからね」彼は愉快そうに笑う。そのとき、また、あのかすかな音が聞こえる。

 彼女はようやく思い当たる。そうだ。これは鎖が触れ合う音だ。懐中時計の鎖が触れ合う音―。

「あ、あなた、まさか、ヴィ、ヴィンチェンツォなの?」

 彼女は彼に抱きしめられる。その抱擁は恒星のように温かい。

「ああ、ヴィンチェンツォ。約束を果たしに来てくれたのね」彼女も力の限り彼を抱きしめる。

「ごめんなさい。私、ずっとあなたに謝りたかったの。私ったらあなたの研究の邪魔ばかりしてたのね。自分でやってみて、それがよくわかったわ」流星群のような涙が、彼女の頬を伝う。

「リヴィア。ばかなことを言うものじゃない。君はいつだって最善を尽くしてきたじゃないか。ぼくらの生活は、決して君の言うようなものではなかったよ。あのとき、超新星爆発を信じたのは、人生で最良の決断だったんだ」

「あのときは知らなかったから言い返せなかったけれど、超新星爆発って星が一生を終えるときに起こす爆発じゃないの。ひどいじゃない。恋愛の(たと)えとしてはどうかと思うわ。私、ずっとそれも言いたかった」

「おいおい、超新星爆発のおかげで太陽が生まれ、地球が生まれ、生命が生まれたんじゃないか。今、こうしてぼくたちが抱き合えるのも、超新星爆発のおかげだよ。あれは終わりじゃなくて、始まりの喩えだったに決まってるじゃないか」

「何だか、ごまかされているような気がする」

 彼はまた愉快そうに笑う。

「さあ、ハレー彗星をもう一度、一緒に見ようじゃないか」

 彼女は彼に促されて、目を輝かせながら望遠鏡を覗く。彼女と彗星は再び見つめ合う。

「ねえ、ヴィンチェンツォ。私たちが出会った夜のことを覚えてる? 五十八年なんて本当にすぐだったわね。でも、それは人の一生にとっては、とても大きな時間なんだわ。どうして、こんなにはかない私たちが、百何十億年も昔のことや、何百億光年も彼方のことまで理解できてしまうのかしら。私が勉強を始めてから数十年の間にも、次から次に新しい観測技術や分析方法が生み出されたわ。なぜ、私たちだけが、こんなにもめまぐるしく変わりつづけるのか、学べば学ぶほど不思議でたまらなくなったわ」

「まったく同感だよ、リヴィア。宇宙について知れば知るほど、人間への不思議も深まっていくんだ。でも、いつか人間は自らの力で、その不思議さえ解き明かす日を迎えるのだと信じよう。ぼくたちは今、人と宇宙の関わりの変化に立ち会っているんだからね。これは決して妄想なんかじゃないんだよ」

 二人は寄り添ったまま、飽きることなく宇宙について語り合う。


 翌朝、リヴィアの遺体が発見される。山道の脇にトランクを開けたまま車が駐まっているのを見て、不審に思った地元の住人が、彼女を見つける。彼女は天に向けて据えられた望遠鏡の(そば)に仰向けに横たわっている。その顔は蒼白だったが、まるで楽しい夢を見ながら眠っているようである。一通りの検証が行われるが、誰かと争った形跡や外傷がまったくなかったことから、彼女の死は事件や事故によるものではなく、老天文学者が天体観測をしているときに自然死を迎えたのものと結論づけられる。

 ただひとつ、彼女が胸にしっかり抱いていた懐中時計のことが未解決になる。警察に呼ばれた彼女の子どもたちは、その時計が三十九年前にリヴィアが最後のねじを巻いてヴィンチェンツォの(ひつぎ)に収めたものに酷似していることに驚く。リヴィアが、実はあのとき時計を柩に入れていなかったのか、後日、ヴィンチェンツォを(しの)んでよく似た時計を手に入れていたのか、子どもたちにも判断がつかない。結局、その時計は由来がわからぬまま、子どもたちによって最後のねじを巻かれて柩の中のリヴィアの胸の上に置かれる。

 Creginaとともにエンドロールが流れる。

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