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天の海に 雲の波立ち  作者: 朝倉恭人
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第4章 まるで虚空に向けて一歩踏み出すごとに伸びてゆく断崖絶壁の上を歩きつづけているようなものです

 Creginaが映画のテーマ曲になることが報じられたのは、二人がバーで会った二週間後のことだった。あのイタリアの映画監督、アマナッティは、ほとんど完成していた新作のテーマ曲を本当にCreginaに差し替えることに決めてしまったのだった。もちろん、この決定はちょっとした騒ぎを引き起こすことになった。テーマ曲を差し替えるとなれば、もとのテーマ曲の作曲者への違約金などが発生するし、録音や編集もやり直さねばならなくなる。最悪の場合、映画の公開が遅れてしまう。そうなった場合の損失は莫大なものになる。当然、周囲の人々は猛反対した。この段階でテーマ曲を差し替えれば、経済的な損失だけでなく、作品全体の調和を乱すことにもなりかねない。急な変更をすれば、後悔の種になる。そんなにこの曲が気に入ったのなら、映画の一部に使うか、次の作品で使うかすればいい。何も今からテーマ曲を差し替えることはない。

 しかし、それらの猛反対を押し切って、アマナッティ監督は差し替えを断行した。私はCreginaに出会って、自分がもとのテーマ曲に納得していなかったことを痛感した。自分はこの曲に向けて映画を撮ってきたのだとまで思うようになった。Creginaなくしてこの映画の完成はない。そう言って一歩も譲らなかった。もともと音楽へのこだわりが強いことで知られていた監督だったこともあり、最後は周囲の人々が折れるしかなくなった。巨匠と呼ばれるようになって久しいアマナッティ監督には、無理を押し通すだけの固い意志と高い実績があった。

 皓一は代理人を介して映画会社とCreginaの使用契約を交わすことになった。彼の方から提示した条件はただひとつ、彼が動画投稿サイトにアップロードしたCreginaのオリジナル版をこれからも公開しつづけることを会社側が認めることだった。この曲の由来や話題性を考慮して、会社側はこの条件を呑んだ。契約金については会社側が提示したまま受け取ることにした。かなりまとまった額だった。ぼくはその靴屋なのかな、と皓一は心の中で渚に問いかけた。

 国際的に知られた映画監督の三年ぶりの新作。完成直前のテーマ曲差し替え騒動。新テーマ曲は日本の無名作曲者が動画投稿サイトで発表していた視聴回数一億回超えの楽曲。マスメディアが騒がないはずはなかった。アマナッティ監督の華々しい受賞歴。テーマ曲差し替え騒動の顚末(てんまつ)。謎の作曲者の素顔……。各メディアがこぞってこの話題を取り上げた。テーマ曲差し替え騒動を報じること自体がひとつの騒ぎとなり、これを宣伝費に換算すれば、映画会社は違約金などの損失を取り戻すことになるだろうとも報じられた。

 皓一の居心地悪さは最高潮に達した。街ですれ違ったり、電車に乗り合わせたりする人々が彼の顔を覗き込み、彼の一挙一動を注視した。今度は気のせいでは済まされなかった。会社や自宅の近くでカメラやICレコーダーを持った報道関係者に追い回されたり、街中(まちなか)で見知らぬ人に声をかけられたり、勝手に写真を撮られてそれをインターネット上にアップロードされたりした。何人もの知り合いが、彼の仕事ぶりや私生活について取材を受けたと彼に話した。

 皓一が嵐に舞う木の葉のような日々を送っているうちに、アマナッティ監督は急ピッチでテーマ曲の差し替えを行った。皓一が渡した総譜にもとづいてCreginaをオーケストラで録音し、その部分部分を映画の各所に配し、曲のすべてをエンドロールに使った。監督は録音も編集も納得がいくまでやりなおした。映画の公開延期が危ぶまれたが、制作者たちの不眠不休の作業によって、何とかそれだけは避けることができた。編集作業を終えた朝、三週間のうちに十キロ体重を落とした監督は、血走った両目を細めて言った。これで映画は成った、と。


 皓一がローマへ渡ったのは八月上旬のことだった。アマナッティ監督が彼を映画の完成披露試写会に招いてくれたのだった。招待状が届いたとき、彼は判断に迷った。試写会へ出向くのは、作曲者としてなるべく目立たないようにする、という彼の方針に反している。しかし、試写会は記者会見ではない。人々の関心は彼ではなく作品に向かうはずである。むしろ、ローマへ行けば、海外へ一時避難できるとも考えられる。それに、Creginaが遠い場所でどのように受け入れられているのか、この目で確かめられる貴重な機会でもある。迷った末、彼はローマへ行くことにした。

 十日間というまとまった休暇を会社に申請するのは、彼にとって初めてのことだった。過熱する報道のために彼の業務に支障が出ていることを考慮してくれたのか、そのような彼が職場にいることが迷惑だったのか、彼がより目立つことが会社の宣伝につながると考えたのか、そのあたりの事情はよくわからなかったが、上司は彼が休暇を取ることをすぐに認めてくれた。出発前にどれだけ仕事をこなしても帰国後への心配は消えなかったし、逆に帰ったときにはもう自分の仕事はなくなっているんじゃないかという不安も拭えなかったが、帰ってからのことはまた帰ってから考えよう、と思い切って彼は出発した。

 約十三時間のフライトを経て、彼は日暮れ近くにフィウミチーノ空港に着いた。入国審査の長い列に並び、擦り傷が増えたスーツケースをピックアップして到着ロビーに出たときには二十時を過ぎていた。当然のことながら、そこにはイタリア語の声と表示が満ち満ちていた。彼はつややかな床に自分の影が逆さまに映りこんでいるのを見下ろしながら、確かに今、異国の地を踏みしめているのだと実感した。自分が少数派であるという感覚は、旅慣れていない彼にとって新鮮なものだった。自分の輪郭線がくっきりと刻まれていくような思いを噛みしめているとき、彼は突然声をかけられた。

有城(ゆうき)皓一さんですね」

 彼が驚きながら声のした方を見ると、短髪の女が彼の名前を印刷した紙を持って立っていた。

「あ、はい」彼は慌てて返事をした。

「はじめまして。今回、通訳を務めます、リタ・ベリーニと申します」彼女は目を細めてゆっくり頭を下げた。

 映画会社が手配してくれた案内人が空港で出迎えてくれることは事前に連絡を受けていたが、思いも寄らず流暢(りゅうちょう)な日本語を耳にして彼は拍子抜けしたような、安心したような、複雑な心持ちになった。

「よろしくお願いします」彼も頭を下げた。

「ようこそいらっしゃいました。長旅でお疲れでしょう。飛行機は快適でしたか?」 

「途中、少し揺れましたが、かえってよく眠れました」彼は強がりを言った。

「それは勿怪(もっけ)の幸いでした。これから宿泊先にご案内します。こちらへどうぞ」

 彼女は名前を印刷した紙をトートバッグにしまい、彼のスーツケースを引いて歩きはじめた。彼は自分で運ぶと断ったが、彼女は手を振ってそれを制し、そのまま駐車場まで歩いて、車のトランクに軽々とスーツケースを載せた。そして、彼を後部座席へ促して車を静かに発進させた。

「ローマへいらっしゃるのは初めてですか?」彼女はバックミラーでちらりと彼を見た。

「はい。実は、恥ずかしながら、海外へ出るのも初めてなんです」彼は耳の縁まで上気しながら答えた。

「そうでしたか。では今回は貴重な機会なのですね。有意義な旅にしていただけるよう、できるかぎりのお手伝いをいたします」彼女はうなずく程度に頭を下げた。

「ありがとうございます。プロの方にこう言うとかえって失礼に当たるかもしれませんが、リタさんは本当に日本語がお上手ですね」彼は心からの讃辞を送った。

 まったくリタの発音には非の打ちどころがなかった。目を閉じて話したら、彼女を日本人と錯覚しそうなほどだった。

「光栄の至りです。日本語に興味がありまして、日本に五年ほど留学したことがあります」彼女は遠い目をして言った。

「あぁ、それで。今は通訳のお仕事をなさっているんですか?」

「そうです。ただ、通訳よりは翻訳の方が多いですね。日本の映画にイタリア語訳をつける仕事もしていますので、映画会社からの依頼もよくあります」彼女はそう答えてから表情をあらためて付け加えた。「今回の通訳の依頼は喜んでお受けしました。私もCreginaをとても力のある作品だと思っています」

 ありがとうございます、と答えながら彼は考えた。そうなんだ。この曲に導かれて、ぼくはイタリアまでやってきたんだ。

 空港の周りには深い闇が広がっていた。道路に並ぶ照明と行き交う車のライトの他には(あか)りは少ない。ふと見上げると、丸い月が車についてきていた。イタリアの空にあの夜とまったく同じように月が浮かんでいることが、彼には不思議なことのように思われた。時間も場所もこんなに離れているのに。―月から見れば人はあまりにも小さいから、人が動いてもほとんど動いてないのと同じことになる。今日は一気に一万キロを飛んできたから、月からも少しは動いているように見えただろうか。彼は自分がいくぶん感傷的になっていることに気づいた。


 翌日の午後一時にリタが皓一を迎えに来た。映画の完成披露試写会は午後三時からなのだが、その前にアマナッティ監督が皓一に会いたがっているとのことだった。彼らは試写会が開かれるホールまでタクシーで移動し、その応接室で監督が現れるのを待った。すぐに数人の話し声が近づいてきてドアが開いた。皓一は思っていた以上に大柄な監督がひとりで部屋に入ってくるのを見て、思わずソファから立ち上がった。監督は皓一の方へ歩いてきて、四枚切り食パンのように分厚い右手を差し出して言った。

「ご足労をおかけしました。どうしてもあなたに会ってお礼を言いたかったのです」

 皓一はその手を取った。

「こちらこそありがとうございます。お招きいただきとても光栄です」監督の握力があまりにも強いので、皓一は顔を歪めそうになった。

 監督は満面の笑みを浮かべて皓一に椅子を勧めた。握手から解放されてほっとしながら皓一は腰を下ろした。監督はその向かいに座り、リタが二人の間に腰かけた。

「Creginaは、とても入り口が広くて奥行きが深い作品ですね」監督はまっすぐ皓一の目を見て言った。「それは多くの作り手が目指すところですが、実現するのは至難の業です。しかし、あなたはそれを見事にやり遂げました」

「ぼくも監督の映画が大好きです。もちろん全部観ました」皓一は笑顔が不自然なものにならないよう努めた。

 監督は満足げにうなずいてから言った。

「今度の映画もきっと気に入っていただけると思います。この映画は……いや、これから観ていただくのですから、何も言わない方がいいですね。意図を語るのは、作品の敗北です。私としては、ただ手応えを感じている、ということだけお伝えしておきます」監督は皓一を見つづけていた。瞳の奥まで見透すような目だ、と皓一は思った。

「これから観るのが楽しみです」皓一は監督を見返すのがつらくなってきたが、なぜか目をそらすことはできなかった。

「作り手が納得できるまで作り込む。これがまず大切なことです。あとは作り手の胸の振動を波紋のように広げて、どれだけ受け手の胸を共振させられるかが勝負です。今度の映画は、大きな波紋を広げてくれるものと信じています。この手応えが私の中に生まれるためには、あなたの音楽が必要でした。本当にありがとう。ぜひこれからも素晴らしいものを作ってください」監督は再び満面の笑みを浮かべた。

 皓一は唇を横に引いてうなずくことしかできなかった。もちろんCreginaを褒められるのは嬉しかったが、その嬉しさを一点の曇りなく噛みしめられない無念さの方が(まさ)った。監督は盛装し、髭も綺麗に剃りあげていたが、眼鏡の奥の目はひどく充血していた。頰はこけ、肌は荒れ、唇はひび割れていた。

 周囲の反対を押し切って、テーマ曲を差し替えた監督なのだ。彼に会えば激賞され、自分がそれを無邪気に喜ぶわけにはいかないだろうことは、皓一も覚悟していた。しかし、こうして実際に彼に会ってみると、自分は味わうべき生みの苦しみをひとつも味わってこなかったのだという思いに責められた。―Creginaは夢の産物なんです。ぼくは褒めるに値しない人間なんです。彼はそう打ち明けてしまいたくなった。でも、もしそれを明かせば、この曲だけでなく、今やそれをテーマ曲に据えた映画の評価まで落とすことになりかねない。そうならなかったとしても、この映画にかける監督の思いを傷つけてしまうかもしれない。わざわざそんなことをするために、ぼくはここへ来たんじゃない、と彼は思った。

「あの、アマナッティ監督……」皓一はためらいながら切り出した。「ひとつ伺いたいことがあるのですが」

「何でしょうか?」監督は少し首を(かし)げた。

「突然こんなことを伺うと、当惑されるかもしれませんが……独創性とは、いったい何なのでしょうか?」皓一はぽつりぽつりと話した。監督は表情を変えずに聞いていた。

「ぼくはずっとこの問題に囚われています。どんなものも、すでにあるものと関わりながら作られている。そういう意味では、百パーセント完全オリジナルというものは、どこにもありません。すべてが他のものからの引用なんだ、という見方さえあります。でも、ぼくたちが、作品を通して何か新しいものに出会うことがあるのも確かだと思うんです。とても漠然とした質問で、申し訳ありませんが……」

 監督は腕を組み、少し間を置いてから答えた。

「独創性とは何か……。私も映画を作りながら、いつもそれを考えています。しかし、言葉にするのは、とても難しい。あえて言葉にすれば、あなたの言う通り、独創性とは新しさである、ということになりますが、それでは同語反復になってしまいます。どんなに新しいものを作ろうとしても、どこかで他のものと似たところが出てきてしまいます。極端な言い方をすれば、どんな映画も映画という方法を選んだ時点で、どこかで他の映画に似てしまうのです。それを逆手に取って、引用しているのを露わにする方法が取られることも多いですね。オマージュやパロディなどがそれです。それらは下手な焼き直しになってしまう危うさも持っていますが、うまく引用元との差を示せれば、新しさを強調することができます。つまり、独創性とは新しさであり、差である、ということになります。しかし、これではやはり何も言ったことにはなりませんね」監督は手で額を覆って苦笑した。

「すみません」皓一の全身に汗がにじんだ。「いきなり変な質問をしてしまって」

「いいんです。これは私の問いでもあるのですから……。こう考えてはいかがでしょうか。語れないこと自体が答えなのだと。私たちは時の果てについて思いをめぐらせることがありますが、古い方はよくわからないとして、新しい方は比較的にはっきりしているとも言えます。今、今、今―。この今を時の果てだと考えることができるからです。私たちは時の最先端で、どこにも存在していなかった新たな時の出現に立ち会いつづけています。よくよく考えれば、これはとんでもないことです。まるで虚空に向けて一歩踏み出すごとに伸びてゆく断崖絶壁の上を歩きつづけているようなものです。その時の果てで人はこれまでになかったものを作りつづけています。本当に新しいものとは、すでにあるものだけでなく、理解の仕方をも超えるのです。だから、それを前もって捉えることも法則化することもできない。そう考えると、語れないことこそ独創性の証しなのだと言えます。ものにせよ、アイディアにせよ、その独創性については現れた後にしか語ることはできません」監督の顔は少し上気していた。

「独創性とは何なのか語れない。それが必然であり、答えなのだ、ということですね」皓一はうなずいて言った。

「そうです。作り手にできるのは、何もわからないまま、すでにあるものを超えようと時の果てでもがきつづけることだけです。これは本当に苦しい営みです。私もいまだにどうしてこんな道を選んでしまったのかと後悔することがあります。でも、その後悔は本当のものではありません。真の後悔は苦しむことから身を引いてしまったときに生まれます。そうわかっていても、苦しいときにはその苦しみしか見えなくなってしまうのが、またつらいところですが」監督は苦笑した。そして励ますように言った。「あなたも独創性とは何かという問いにとらわれているのなら、作りつづけてください。そうすることによってしか、その問いには答えられないのだと信じて」

「はい」皓一は唇を横に引くこともできなかった。

「さて」監督は深く息を吐いた。「会の準備がまだ残っているので、私はこれで失礼します。また会場でお会いしましょう」彼は再び右手を差し出した。

 皓一が手を出すと、監督はそれをやさしく握り、慈しむように左手を添えた。

「私たちの映画を楽しんでください。上映が終わったら一言スピーチをお願いします」監督は笑顔でそう言ってから応接室を出た。

 私たちの映画、か……。皓一は思った。よく作曲家ぶってアマナッティ監督と握手できたもんだ。いっそ役者を目指したらどうだ。スピーチだって? ふん、今度はどんなはったりをかますつもりだ。Creginaが稼いでくれた金で買ったスーツに身を包んでローマまで飛んできたってか。それで中味の無さを隠したつもりか。どうだ、こびとが作ってくれた靴の履き心地は―。彼自身を罵る言葉が次々に現れ、彼を一発ずつ殴っては立ち去っていった。

「どうかなさいましたか」リタが気遣わしげに彼を見ていた。

「大丈夫です」血の気の失せた面持ちで彼は答えた。

「コーヒーをお持ちしましょうか」

「ありがとうございます」

 リタは応接室を出て、湯気の立つコーヒーをトレーに載せて戻ってきた。皓一はそれを受け取って、ゆっくり口に運んだ。

「長旅の疲れが残っていたのでしょう」リタは静かに言った。

 皓一は首を振った。

「たぶん、緊張しすぎたんだと思います。テレビで拝見して、もっと寡黙な方なのかと思っていましたが、今日は本当によくお話ししてくださいました。新作のお披露目直前で、興奮されていたのでしょうか」

 今度はリタが首を振った。

「あなたに会えて本当に嬉しかったのだと思います。あなたを会にお招きしたのも、この面会の場を設けたのも、彼が強く希望したことでした」

「そうでしたか」皓一はうつむいた。

 リタは黙って彼を見ていたが、しばらくして気を取り直すように言った。

「さあ、映画の時間です。そろそろ参りましょうか」


 二人がホールに入ると、すでに座席はほとんど埋まっていた。みな思い思いの格好で歓談している。イタリア語も日本語も、たくさん集まると同じようなざわめきとして聞こえるものなんだな、と皓一は取り留めもないことを考えた。

 皓一がリタに導かれてホールの前方へ歩いていくと、とてつもない美貌の女とホールのスタッフらしい出で立ちの男と三人で話していたアマナッティ監督が皓一に気づいて、彼を映画の出演者やスタッフたちに紹介した。誰もが彼の若さに驚きながら口々にCreginaを褒めた。逐一リタが通訳してくれたが、彼は一通りの礼を言うことしかできなかった。出演者たちにもスタッフたちにも、それぞれの持ち場で最善を尽くしてひとつの映画を作り上げたという矜恃(きょうじ)が感じられた。皓一には彼らが今まさにスクリーンに映っている人々のように見えた。

 先ほど監督と話していたホールのスタッフらしき男が近づいてきて、皓一に眼鏡を渡した。これはスマートグラスで、これを掛けて映画を観ると日本語の字幕が表示されるとのことだった。皓一がもう字幕ができているのかと驚くと、リタは自分が作ったものだと言って、次のような説明を加えた。この映画は日本でも同時公開されることが決まっている。字幕は映画会社から依頼を受けて、彼女が作ったパイロット版である。映画が日本で公開されるときには、日本の翻訳者によって修正を加えられた字幕が流れることになる。テーマ曲の差し替えで、音楽トラックには重大な変更が生じたが、字幕には大きな影響は出なかったので、今日の会に間に合わせることができた。

「最善を尽くしましたが、日本語の表現として不自然なところがあるかもしれません。もし何かお気づきのことがあれば、後ほどご指摘いただければさいわいです」リタは頭を下げた。

 会の始まりを報せるアナウンスが流れた。皓一は関係者席の中央に用意されていた座席にリタと並んで座った。人々が席に着くと、ホールの照明が薄暗くなった。会場は徐々に静まっていった。

 ステージに司会者が現れて来場者への謝辞を述べ、上映の後にアマナッティ監督や出演者らによる舞台挨拶があることを伝えた。

「本日は、テーマ曲の作曲者である有城皓一さんも、日本からお招きしています」

 司会者がそう告げると、会場はどよめいた。誰もがテーマ曲差し替え騒動のことを知っていたので、すぐに笑い声が起こり、やがて割れんばかりの拍手が加わった。監督も微笑みながら皓一を振り返り、彼に立ち上がるよう手振りで示した。皓一にスポットライトが当てられた。彼がぎこちなく立ち上がると、拍手はさらに大きくなった。彼は四方にグラッツェを連発してから隠れるように腰を下ろした。

「それでは映画をご覧ください」と司会者が言うと、照明が完全に落ちた。

 会場は静まりかえった。皓一は手探りで眼鏡を掛けた。そして、映画が始まった。

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