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天の海に 雲の波立ち  作者: 朝倉恭人
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第3章 私が誰だか知ってる?

 渚にとって引っ越しをするのはごく自然なことだった。ものごころがついたときには、彼女はもう何度かの引っ越しをしていた。いわゆる転勤族と呼ばれる人々が統計的にどれくらいいるものなのか、彼女は知らない。ただ、彼女の見たところ、程度の差こそあれ、少なからぬ人々が転校や転勤を経験しているようだった。彼女の父親は全国で事業を展開する会社に勤めていて、彼女の家族は都市にも郊外にも離島にも住んできた。社宅に住むこともあれば、会社が借りている集合住宅や一軒家に住むこともあった。

 だいたい二年に一度、父親から転勤が決まったことを告げられる。そして、これに自分の荷物をまとめるようにと、ダンボール箱を渡される。最初のうちは、引っ越す(たび)に箱から自分の荷物をすべて取り出していたのだが、そのうちどうせまた引っ越すのだからと、使う物以外は箱に入れたまま暮らすようになった。倒す、立てる、倒す、立てる、倒す、立てる……。彼女は小学生になって初めて連れていってもらったボーリング場で、機械がピンを黙々となぎ払い、並べなおしているのを見たとき、いつの間にか収納家具と化してしまった自分のダンボール箱のことを思い浮かべた。

 確かに、転校を繰り返すのはエネルギーが要ることだった。すでにできあがっている人の輪の中にひとりで飛び込んでいかねばならない。ネーム入り体操服の納品が最初の授業に間に合わず、ひとりだけ前の学校の体操服を着たまま体育の授業に出なければならない。授業の進度が学校によってまちまちなので、重複して教わったり習いそこねたりするところが出てくる。なかなか方言(ことば)に慣れない。慣れた頃にはまた引っ越さねばならない……。

 しかし、転校にはいいところもあった。引っ越す直前には周りの人が妙にやさしく接してくれる、自分も周りの人にやさしく振る舞える。新しい学校では誰にも名前すら知られていない代わりに、自分のみっともない失敗も知られていない。場所ごとに変わるものごとと、変わらないものごとについて自分なりに理解を深めることができる……。

 ただ、すべては流れてゆくのだという感覚は、彼女の中で自然に深まってゆくことになった。家族以外の周りの人間が総入れ替えになるということを繰り返せば、きっと多くの人がそうなる。彼女にとって人は流れ去るものであり、人にとって彼女も流れ去るものだった。

 だからといって感傷的になったり、虚無的になったりしないように彼女は努めた。そのような感情に浸っていると、新しい環境に適応する気力がなくなりそうで恐かったし、後で自分で自分がいやになることもわかっていた。代わりにむくむくと頭をもたげてきたのは、何かを積み上げたいという渇望だった。彼女がピアノに打ち込んできた根底にはそのような思いがある。

 オーケストラに(たと)えられることもあるピアノは楽器としての自立性が高かった。それがひとりでいることが多かった彼女の感覚にぴたりと合った。何より、その響きに彼女は魅了された。五歳のとき、母親に連れられてピアノリサイタルへ行ったときからずっと。演奏が始まった瞬間、ホールの空気が一変した。その響きは、まだ見ぬ世界のさざめきへと、日々の暮らしで出会う名づけえぬ感覚へと、すべてを包む大いなる空白へと彼女を(いざな)った。そこには生きることへの限りない慰撫と鼓舞があった。やがて演奏が終わり、人々が席を離れはじめても、彼女は指一本動かすことができなかった。母親から抱きかかえられるようにして席を立つと、今度は母親の脚にしがみついて、ピアノを習わせてくれるようせがんだ。母親はそれまでそんな彼女を見たことがなかったので驚いたが、ちゃんと練習するなら、という条件をつけて彼女を近所のピアノ教室に通わせることにした。

 それから彼女は()かれたように鍵盤に向かいつづけた。小さな電子ピアノしか買ってもらえなかったが、不満は言えなかった。(うち)は転勤族だし、部屋に防音設備もない、何より上手く弾けないのをピアノのせいにしたくない。そう思いながら練習を重ねた。夜はヘッドホンをつけた耳が痛くなるのも(いと)わず弾きつづけた。彼女があまりにも熱心に練習するので、最初はピアノを習わせた甲斐(かい)があると喜んでいた両親も、次第に心配するようになった。彼女は何度も腱鞘炎(けんしようえん)にかかり、小学三年生のときには一台目の電子ピアノを弾き潰してしまった。両親はなだめたり、諄々(じゆんじゆん)と(さと)したり、ときには叱ったりして、何とか彼女をピアノから引き離そうとしたが、無駄だった。

 その年度の終わりに、彼女たちはまた引っ越すことになった。学ぶところが多いピアノの先生についていたので、彼女としてはその教室を()めねばならないことが一番残念だったが、また自分の荷物をダンボール箱にまとめるしかなかった。

 引っ越した先は小さな町だった。駅前には昔ながらの商店街があり、その周りには住宅街が広がっていた。家々の間には田畑があり、フェンスで囲まれた大きな貯水池もあった。家は古い戸建てが多く、渚の家族も築三十年の借家に入った。近所にあるピアノ教室は個人で開いているところが二つあるだけだった。彼女は両方の体験レッスンを受けて、自分に合いそうな方を選んだ。今度の先生は彼女の母親と同じくらいの歳の人だった。

 新しい学校には一学年が二クラスしかなかった。幼稚園を転園し、小学校の転校も二度目だった彼女は、初日のあいさつをそつなくこなした。その後は、どうして転校してきたのかとか、前はどんなところに住んでいたのかとか、好きなものは何かといった質問攻めに遭い、やがて周囲からの好奇の目が薄れてクラスに馴染むという流れになる、はずだった。今回も表面的にはその流れ通りだったのだが、何かが違った。確かに、入学前からの幼なじみが集まっている学校だったので、閉鎖的な雰囲気はあった。また、その春の転入生は彼女ひとりだけだったので、余計に目立つことにもなってしまった。それでも彼女はすぐに新しいクラスに馴染めると思っていた。

 私は生まれついての転勤族なんだ。どんなところでもうまくやっていかなきゃならない。親にも心配はかけられない。

 そう自分に言い聞かせて平静を装った。しかし、いつもなら消えていくはずの違和感が、どういうわけか舌の上の氷片のように残りつづけた。これはどうにかしなければ、と彼女が本気で焦りだしたとき、おかしなことが起こった。

 転校して三週間が過ぎたある朝、彼女が学校の玄関で上靴に履き替えると、何かが足の裏をチクリと刺した。脱いでみると、中から(とが)った小石がひとつ出てきた。そのときは何とも思わずそれを取り出しただけだったが、翌朝もまた同じように何かが足の裏を刺した。脱いでみると、上靴から昨日より少し大きな石がひとつ出てきた。靴箱は校舎の中にあるのに、変だなと思いながらそれを取り出した。

 その翌朝、彼女は用心して、履く前に上靴の中を見た。一握り分くらいの砂が入っていた。その翌朝には同じくらいの綿埃(わたぼこり)が入っていた。その翌朝に画鋲(がびよう)がひとつ入っているのを見て、彼女の疑念は確信に変わった。

 間違いない、これは誰かからのいやがらせなんだ。

 胸を冷たくしながら画鋲を取り出そうとしたとき、うっかり右手の人差し指で針の先に触れてしまった。反射的に手を引っ込めると、奧の階段の方から少女の笑い声が聞こえた。渚はきっとそちらを(にら)みつけたが、もう相手の姿は見えなかった。

 私が転校生だから、仲間がいないと思ってからかっているんだ。ピアノのためにいつも指をかばっているのに。絶対に許せない。犯人を見つけて、もし謝らなかったらこの画鋲で刺してやる。

 彼女は画鋲の針を親指と人差し指で挟んで独楽(こま)のようにぐるりと回した。

 その日、彼女は誰とも口をきかなかった。クラスの様子は普段通りだったが、彼女にはそれが装われたものにしか見えなかった。誰も彼もが疑わしい。ひょっとするとクラスみんなで私をからかってるんじゃないかとさえ思った。授業中も休み時間も給食のときも彼女はうつむいたまま、スカートのポケットの中で画鋲をぐるぐる回しつづけた。

 昼休みに彼女はクラス担任のところへ行き、頭が痛いから早退したいと申し出た。母親にはすでに校内の公衆電話で連絡済みだと言った。どうりで朝から顔色が悪いと思った、と担任の先生は言って、彼女を保健室へ連れて行き、養護教諭にも相談した上で早退を認めた。

「渚ちゃん、具合悪いの?」

「大丈夫?」

「ひとりで帰れる?」

 教室に戻ると何人かのクラスメートから声をかけられたが、彼女にはしらじらしく響くだけだった。うつむいたままランドセルを背負い、何も言わずに教室を出た。

 彼女は校門のところまで歩いたが、午後の授業の開始を知らせるチャイムが鳴るのを待って、そっと校舎に戻った。そして、あらかじめ目を付けておいた玄関の掃除道具を入れるスチールロッカーの中に、靴を履いたまま身を潜めた。掃除は給食と昼休みの間に済ませているから、ここなら誰かに見つかる心配はなかった。バケツを逆さにしてその上に立てば、扉の通気孔からちょうど彼女の靴箱も見えた。いったいどんな卑怯者が無抵抗な私の上靴にいたずらをしているのか、この目で確かめてやる、とランドセルを下ろしながら彼女は息巻いた。

 放課後までの時間はとても長く感じられた。掃除道具もひどく臭った。特にぞうきんからは吐き気を催すような臭いがした。立っているのにもだんだん疲れてきた。しかし、彼女は自分の靴箱をぐっと(にら)みつけ、これまでの仕打ちを思い出して耐えた。ときどき遠くの教室からどっと笑い声が上がるのが聞こえた。

 私はいったいこんなころで何をしているんだろう。

 本当は授業を受けているはずの時間に、ひとりで玄関のスチールロッカーの中に立っているのはとても奇妙な気分だった。外が異様にまぶしく、中が暗く感じられた。私にこんなことまでさせるなんて、ますます犯人を許せない、と彼女は思った。

 やがて五限目が終わって低学年が下校し、六限目が終わって高学年が下校した。子どもたちはそれぞれ楽しげに話したり、駆け回ったりしながら玄関を出て、明るい光の中へ吸い込まれていった。学校からは少しずつ人の気配がなくなり、陽もゆっくりと(かげ)っていった。四月のスチールロッカーの中は思いのほか寒かった。うっかり扉や壁に触れると、鉄の冷たさに身が(すく)んだ。彼女がスチールロッカーの中に潜んでいることに気づく者は、誰ひとりいなかった。

 私がいなくても、世の中はまったくいつも通りなんだ。

 鉄より冷たい感覚が彼女の全身に広がった。

 彼女はふと棺桶(かんおけ)の中ってこんな感じなんだろうかと思った。昨年亡くなった祖母のことが思い出された。祖母は化粧をほどこされ、鼻に綿を詰められ、白い着物を着せられたまま棺桶の中に横たわっていた。出棺のときには親族に手向けられた花々に全身を覆われ、ぶ厚い蓋を被せられて火葬場へと運ばれていった。また祖母の家に行けば会えそうな気がするのに、もう電話で話すこともできないということが、あらためて不思議なことのように思われた。

 おばあちゃんはいったいどこへ行ってしまったんだろう。

 彼女はすでに何度も考えたことについて思いをめぐらせた。

 犯人はなかなか現れなかった。人の姿は(まれ)になり、玄関に射す光は夕陽のそれに変わった。悪いことをするんだから、人目があるうちは出て来られなかったのかもしれない。いよいよだ、と考えたとき、彼女はあっと声を上げそうになった。よくよく考えれば、犯人が放課後に現れるとは限らないのだ。朝早く登校して上靴にいたずらしているのかもしれない。

 何てずる賢い奴なんだ。

 彼女の中にむらむらと新たな怒りが湧いてきた。

 もう少しだけ待ってみよう。今ロッカーから出たら今日の苦労が水の泡だ。もし出るところを犯人に見られでもしたら、また笑われるに違いない。あぁ本当に腹が立つ。

 彼女は臭いのも寒いのもだるいのも我慢して自分の靴箱を見張りつづけた。

 突然、通気孔に縁取られた渚の視界の右側から少女の後ろ姿が現れた。すたすたと渚のクラスの靴箱へ近づいていく。本当に突然のことだったので、渚はスチールロッカーごと跳び上がりそうになった。少女は迷いなく渚の靴箱の前で立ち止まり、さっと上靴に何かを入れると、何事もなかったように奧の階段の方へ歩いていった。渚はなるべく静かにロッカーを出て自分の靴箱に向かい、上靴の中を見た。今日の給食に出たマヨネーズの袋が入っていた。

「待てぇ!」

 渚は全力で駆けた。少女は笑い声を上げながら階段を駆け上がりはじめた。渚もその後を追った。これまでこんなに本気で走ったことがないというほどの渾身の力で段を踏んだ。少女は駆けながら笑いつづけていた。鬼ごっこでもしているつもりなのだろうか。渚はさらに逆上した。少女の足は速かったが、渚は意地になって距離を詰めていった。三階への階段にさしかかったとき、渚は少女が着ているグレーのパーカーに白い模様がプリントされているのが見えるところまで追いついた。階段をのぼりきると、今度は廊下を駆けた。もう少しでその手を捕まえられるというところで、少女は急に曲がって教室に駆け込んだ。渚たちの教室だった。渚もすぐに中に入った。しかし、そこには誰の姿も見えなかった。渚は息を弾ませながら、教卓や机の(かげ)をひとつひとつ見て回った。やはり誰もいなかった。渚の中でにわかに恐怖が膨らんだ。

 あれは、あれは、確かに、ヨット、だった……。渚は肩で息をしながら、自分が着ている上着を脱いだ。グレーのパーカーの背中に、白いヨットの模様がプリントされていた。それは引っ越す前の町で、彼女の母親が買ってくれたものだった。どうして。どうして。どうして。どうして……。さらに彼女の呼吸は荒くなり、鼓動は速くなった。喉が張りついて、うまく(つば)を飲み込むことができない。ちかちかと視野が狭まって、吐き気がこみ上げてきた。立っていられなくなった彼女が、机に両肘(りょうひじ)をついてその場にうずくまった瞬間、右脚に激痛が走った。

「痛っ!」

 スカートをそっとたくしあげると、ポケットに入れていた画鋲が、布を貫通して彼女の太腿(ふともも)に深々と刺さっていた。引き抜くと血の玉がふくれあがる。激しい呼吸音に嗚咽(おえつ)が混ざりはじめた。私が、追いかけて、いたのは、私、だったんだ。誰も、私を、いじめて、なんか、いなかった。それなのに、私は、私は……。熱い涙が一筋、彼女の頬を伝い、そして止めどなくあふれた。自分じゃ、気づかなかった、けれど、きっと、私は、今、おかしく、なって、いるんだ。どうして、こんな、ことに、なっちゃっ、たんだろう。どうして、こんな、ことに、なっちゃっ、たんだろう……。陽の光がほとんど消えてしまった教室で、彼女はひとり声を殺して泣きつづけた。


 そのとき、静かにピアノの音が聞こえてきた。ドビュッシーの「月の光」。空耳かと(いぶか)しみながら、彼女は顔を上げた。おぼつかない足取りで廊下に出てみると、一番奥にある音楽室の明かりが点いているのが見えた。こんな時間に誰? 恐怖心が起こりかけたが、すぐに消えた。こんなに下手な幽霊がいるもんか、と彼女は思った。タッチが荒い。音のバランスも悪い。リズムも乱れている。この曲を弾くには、基礎的な練習がぜんぜん足りていないんじゃないか。そう酷評を加えずにはいられなかった。しかし、それを聴きながら歩くうちに、どういうわけか彼女の足取りは少しずつ軽くなっていった。

 音楽室の扉の窓から中を(のぞ)くと、子どもがひとり、一番奥に置かれたグランドピアノを弾いているのが見えた。男の子だ。彼女は何も見なかったことにして、そのまま帰ろうかとも考えたが、このまま帰れば後悔しそうな気もしたので、思いきって扉を開けることにした。彼女が両頬をぬぐってから、ゆっくりドアノブを引いて中に入ると、彼は手を止め、目を丸くして彼女を見返した。

「こ、こんばんは」

「こんばんは」

「何してるの?」

「何って、ピアノの練習」

「何でこんな時間に?」

「この時間なら、誰もいないから」

「誰かいると困るの?」

「ピアノ弾いてるとからかわれるんだよ。男のくせにってさ。小さい頃は、けっこうピアノを習ってる男子もいたんだけど、みんなどんどんやめちゃって、今じゃぼくひとり」

「家で弾けばいいじゃない」

「家に帰ったらさ、鍵がかかってて中に入れなかったんだよ。親は親戚のお葬式に行ってて、夕方には帰ってくるって言ってたんだけど……。玄関で待ってるのも飽きたから、また学校に戻ってきたんだ。ピアノやってる人ならわかると思うんだけれど、なんだか急に―」

「グランドピアノを弾きたくなったんだね」

「ピアノやってるの?」

「私が誰だか知ってる?」

「もちろん知ってるよ。同じクラスじゃないか。あれ? 今日は早退したんじゃなかったっけ。何でここにいるの?」

「忘れ物」

「何を忘れたの?」

「画鋲」

「画鋲?」

「ピアノ、聴かせてくれない? 今弾いてた曲」

「いいけど。下手だよ。笑わないでね」

 彼女はうなずいてから二列目の席に座った。少年は目を閉じて深呼吸をした。そして、「月の光」を弾きはじめた。廊下よりずっと鮮明に聞こえる。それだけ余計に(あら)も目立った。未熟な演奏だ。とてもコンクールで入賞するようなものではない。それでも、どういうわけか、彼女はその響きに引き込まれていった。後年、彼女はそのときのことを振り返っては考えつづけた。私が弱っていたから錯覚したのだろうか。そうだったのかもしれない。でも、それだけだったとは思えない。たとえ(つたな)いものでも人を感動させることがある。それはとても不思議なことだ。あの演奏に技術はなかった。しかし、そこには生きることへの慰撫(いぶ)と鼓舞があった。あのとき、確かに、私はそれを感じた。

 彼は演奏を終えた。彼女は心からの拍手を送った。

「やばい! めちゃくちゃ間違えた」彼は頭を抱えた。

「いいじゃない」

「ピアノの先生にはまだ早いって言われてるんだけど、こっそり練習してるんだ」

「本当に好きなんだね、この曲」

「うん。初めて聴いたときからずっと」

「私も」

「そう。うれしいな。これを聴いてるといろんなことが浮かんでくるんだよね。小っちゃかった頃のこととか。海の匂いとか」

「海?」

「あ、変なこと言っちゃったね。ある夜の月と海が、ぼくの中ではつながってるんだよ」

「そういうのって、なかなか人には伝わらないよね」

「自分ひとりの思い出だからね。ほとんどは人に伝わらなくてもいいんだけど、中には何とかして伝えたくなるのもあってさ」

「ある夜の月と海がそれなんだね」

「この曲はあのときの感じを伝えたいと思いながら弾いてるんだ。ぼくが勝手にそう思ってるだけだけどね」

「これが、その、あのときの感じなのかはわからないけれど、何かが伝わったよ」

 彼はほほえんだ。彼女もほほえんだ。

「さあ、もう帰ろうよ。すっかり暗くなってる。忘れ物は見つかったんでしょう?」

 彼女はうなずいた。彼は慣れた手つきで鍵盤にカバーをかけて蓋を閉め、音楽室を出てパチパチと廊下の明かりを点けた。そして、また中に戻ってランドセルを背負い、彼女を廊下へ連れ出してパチパチと音楽室の明かりを消した。

 二人は並んで歩きはじめた。廊下の教室側にも、外側にも、黒い鏡のようになった窓が並んでいて、二人の歩く姿が映っていた。

「夜の学校って、何でこんなに恐いんだろうね……」彼は静かな声で言った。

「人がたくさんいる昼間との違いが、大きいからかな」彼女は努めて明るい声で答えた。

「真っ暗な教室に、知らない子どもがびっしり座っててさ、全員まっすぐ手を挙げたまま、じっとこっちを見てたらどうしよう」彼は暗い教室を(のぞ)きこんだ。

「やめてよ。どうして今そういうこと言うの」彼女もつられてそちらを見てしまった。

「仕方ないから、指差して誰か当てるとするよね。すると、知らない子どものひとりが、手を挙げたまますっと立ち上がるわけ。そしたらさ。そしたらさ。その子が―」

 スターターピストルのような音が廊下に響きわたった。

(いった)ー!」彼は左頰を押さえた。

「いいかげんにしないとぶつわよ」彼女は彼を(にら)んで言った。

「もうぶったじゃないか」

「今度はそこの消火器で」彼女は廊下に置かれていた赤いそれを指差した。

「よっぽど恐い」

「何か言った?」

「悪かったよ。よく考えたら、その子らもさ、何かわけがあって夜の教室に座ってるんだよね。勝手に恐がっちゃ、かわいそうだ」

 二人は無言で階段を下りた。彼女が玄関の掃除道具用のスチールロッカーからランドセルを引っ張り出して背負い、自分の靴箱をちらりと見ながら土足のまま土間に降りる間、彼は上履きを下履きに履き替え、外に出て夜空を見上げていた。玄関を出た彼女が彼の視線を辿(たど)ると、左側が少し欠けた月が二人を見つめるように輝いていた。二人は黙ったまま並んで校門まで歩き、そこでようやく口を開いた。

「家どっち? 送っていこうか?」彼は左右を指差しながら言った。

「ありがとう。でも、そこを曲がって、あとは通りをまっすぐ行くだけだから」彼女は右側を指差しながら答えた。

「じゃあ、ぼくとは反対だ」

「また明日」彼女は軽くうなずきながら言った。

「明日は土曜日だから、学校は休みだよ」

「知ってる」彼女はくるりと背を向けて、そのまま歩きはじめた。

「また来週」彼は彼女の背中に呼びかけた。

 彼女は振り返らずに手を振った。彼はさらに何か言いかけようとしたが、あきらめて彼女とは反対の方へ歩きはじめた。


 翌日の午後、彼はピアノ教室へ行った。先生の家の近づくと中から静かにピアノの音が聞こえてきた。あ、「月の光」だ、あいかわらず先生は上手いな、と舌を巻きながら彼は玄関のベルを鳴らした。少しの間を置いてインターホンから返事が聞こえ、また少しの間を置いて扉が開いた。先生は普段と同じ格好で出てきて彼に手招きをした。彼は中に入って扉を閉め、靴をスリッパに履き替えて先生に着いていった。

 まったくいつも通り。数え切れないほど繰り返されてきた一連の動作。廊下もリビングもひとつも変わるところがない。しかし、その日は何かが違っていた。そうだ。ずっとピアノの演奏が続いているのだ。てっきり先生が弾いているものとばかり思っていたのに、先生は今、目の前を歩いている。じゃあ、いったい誰が? とにかく抜群に上手い。かつて味わったことのない高揚感に背中を押されて、思わず彼は先生を追い越してしまった。

「新しい生徒さんよ」後ろから先生の声がした。

 レッスン室の扉を開けると、さらに(つや)を増したピアノの響きが彼の全身を震わせた。二台並んだグランドピアノ。奧の一台を弾いていたのは、渚だった。


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