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天の海に 雲の波立ち  作者: 朝倉恭人
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第2章 あの靴屋さん、本当は虚しかったんじゃないかな

「なんだか、すごいことになってるみたいね」

 皓一が約束通り夜七時にダイニング・バーに着くと、渚はカウンターでビールを飲んでいた。すでにグラスの半分が空いている。彼も同じものを注文して、彼女と一緒に入り口から一番遠いテーブル席へ移った。客は少なく、皓一たちの他には二人連れがカウンターで飲んでいるだけだった。

「それで弱ってるんだよ」彼は席に着くと声を落として言った。

「ん?」彼女も声をひそめた。「自分の作った曲が多くの人に受け容れられるなんて素敵なことじゃない」

「それは、そうなんだけれど……」

「しかも、ネットで発表した管弦楽がこんなに話題になるなんて、これまでなかったんじゃないかな」

「たぶん」彼はうなずいた。

「快挙ってことになるんじゃない? これは」

「でも、いったい何が起こってるんだろう」彼は眉をひそめた。「画面が真っ暗の管弦楽が八分以上も続くんだよ。自分でアップロードしておいて言うのも何だけど、どう考えても動画投稿サイトには向いていない。そんなものを何千万もの人が視てるんだ。一体いつからみんなそんなに我慢強くなったんだろう」

 彼女は、さあ、という顔をしてから言った。

「今までいろんな動画が話題になったけど、管弦楽はなかった。一周回って管弦楽が受けたんじゃないかって、テレビで何かの専門家が解説してたよ。長いのに画面が真っ暗っていうのも、逆に斬新だったんじゃないかって」

「一周回って、逆にってのは、わかってるようで、実は何もわかってないときに使う言葉だろう。誰にも説明がつかないようなことが起こっちゃったんだよなぁ。いや、起こしちゃったと言うべきなのか……」

「本当に驚いてるみたいね。でも多くの人がCreginaを聴いてくれていることは確かなんだから、別に弱ることないじゃない」

「うん、まあ、それはちょっと、事情があってね……」彼は視線を落とした。

「なんだ、今日は祝杯をあげるために呼んでくれたのかと思った。あんまり喉が渇いてたんで、先に飲みはじめちゃったけど」彼女は決まりが悪そうに言った。

 彼のビールが運ばれてきた。

「いいんだよ。ぼくも祝杯をあげることについてはやぶさかではないんだ」彼はグラスを掲げた。

「よかった。やぶさかじゃないのね」

 二人は静かにグラスを合わせた。

「けっこう久しぶりになっちゃったね」

「そうね。三ヵ月ぶりくらいになるのかな。最近はどう? 休みはちゃんと取れてる?」

 彼は首を振って、ビールに昇る小さな泡の列を眺めた。

「切りがないって言うか、休んだら休んだで、また別の日に無理が出てくるって言うか。それでなかなかね。そっちは?」

「皓一よりは休めてるのかな。コンクールの前はものすごく忙しかったんだけど、それは先月終わったから」


 渚は小学四年の初めから五年の終わりまで、皓一と同じピアノ教室に通っていた。彼女の一家はいわゆる転勤族で、父親の仕事に合わせて引っ越しを繰り返していた。二人は学校ではあまり話さず、ピアノ教室ではよく話した。よく、と言ってもそれは頻度のことで、長さとしてはレッスンの交代時間に短い言葉を交わしただけである。

 交流が深まったのは、むしろ二人が離ればなれになってからのことだった。彼女が転校してからふた月ほど経ったある日、便箋三枚にわたる手紙が彼のもとに届いた。誰かから自分宛の封書を受け取るのは彼にとって初めてのことだった。彼はまず封筒と便箋がヨットのデザインに統一されていることに感心し(このとき彼はレターセットというものの存在をまだ知らなかった)、次に宿題でもないのに長い文章が書いてあることに感心した(当時の彼にとって作文とはうなりながら原稿用紙のマス目を埋める苦役でしかなかった)。彼女からの手紙は彼に小さなカルチャーショックを与えたのだった。

 その手紙には、今度引っ越したのが大きな町であること、学校も大きくてひと学年に七クラスもあること、遠足でSLがある公園へ行ったこと、新しいピアノ教室の先生は宿題をたくさん出す人であること、大雨が降ったときに近所の川があふれそうになりながらごうごう流れているのを見てびっくりしたことなどが書いてあった。彼女の筆圧の強い字を読むと、彼の目に新しい町で生きはじめた彼女の姿がありありと浮かんできた。

 彼はその手紙を何度も読み返してから文具店に行き、そこで月のデザインのレターセットを見つけた。そしてうんうんうなりながら便箋三枚にわたる手紙を何とか書き上げた。担任の先生が自分で描いた大きな滝の油絵を図工の時間に見せてくれたこと、こちらも遠足に行ったけれど毎年行っている公園だからつまらなかったこと、学校に()みついたノラネコにエサをやらないよう注意を受けたこと、ピアノ教室で見せてもらった調律の作業がおもしろかったこと、こちらはしばらく雨が降っていないことなどを書いた。彼女に比べて字も文も下手なのを恥ずかしく思いながら、封筒の宛名までできるだけ丁寧に記してポストに投函した。

 こうして二人の文通が始まった。文通とは会わない時間が長くなるほど途絶えがちになるものだが、二人の文通はその後一度も会わないまま十年以上続いた。その間に彼女の住所はさらに六回変わった。彼の方は就職するときに一度引っ越しただけだった。彼らは互いのメールアドレスを交換してからもそれはほとんど使わず、年に数回手紙を送り合った。彼女は音楽大学を出て大手の音楽教室に勤めながら今もピアノを続けている。


「それで」彼女はまた声をひそめた。「弱らなきゃいけない事情って何なの? まさか、あの曲―」

「いや、盗作ってわけじゃないんだ。盗まれる人間がいないから」

「じゃあ、何? ゴーストライター?」

「そういう人間もいない。ぼくみたいな無名の人間にゴーストライターがいるはずがないじゃないか。あの曲はまぎれもなくぼくひとりで作ったものだよ。物理的にはね」

「物理的には? どうも話が見えないわね」

「実は」彼は一度口をつぐみ、両手を固く握り合わせてから続けた。「夢、なんだよ。あれは、ぼくが夢の中で聴いた曲を、そのまま音楽作成ソフトで再現しただけのものなんだ」

「夢って、夜見る夢?」

「そう、寝てるときに見るあの夢」

「ふうん、そうなんだ」彼女は頰杖を突いた。

「あれ、あんまり驚かないんだね」

「同じような話を前に読んだことがあるよ。夢で聴いた曲を作品にしたっていう作曲家の話。確か、タルティーニ、だったかな」

「なんだ、そういう話が他にもあるんだね」彼は拍子抜けして言った。

「夢で聴いたってことは、実は別の曲がまぎれ込んじゃってるんじゃないの? 前にどこかで聴いた曲が形を変えて夢に現れたのを、新しい曲だと思い込んじゃってるとか」

「それはぼくも考えた。これは思い出せないだけで誰かが作った別の曲なんじゃないかってね。でも、いくら考えても、その別の曲にたどりつかないんだよ。それにCreginaがこれだけ世間に知られるようになっても、あれが盗作扱いされないってことは、それだけの独自性が認められてるってことになるんだろうし」

「じゃあ、あれはぼくが作曲したんですって胸を張ればいいじゃないの。盗まれた人もいない。ゴーストライターもいない。誰にも迷惑はかからないんだから」

「それは何だか気が(とが)める。それにまた新しい曲を作れと言われたら困る」

「じゃあ、もうCreginaみたいな曲は作れないのね?」

「作れない。残念だけれど」彼はため息混じりに言った。「もし、もう一度作ろうと思ったら、ぼくは眠りつづけるしかない。そして夢は、見たいものを見られるようにはできていない」

「じゃあ、あれは夢で聴いた曲を再現しただけのものなんですって白状するしかないんじゃないの」

「うん、そうなんだよね。一度はぼくもそう思ったんだ。でも、もしそんな話をしたら、どんな反応が返ってくると思う?」

 彼女は少し考えてから答えた。

「たぶんCreginaには別の曲がまぎれ込んでいるんじゃないかってみんな思うでしょうね」

「さっき渚が思ったように」

「そう」

「そうするとCreginaにケチがついちゃうんだ。そのタ……何とかって作曲家は、他にも作品を発表してたんだろう。もともと作曲する力を世間に示していたから、夢で聴いた曲だと話しても神秘的なエピソードとして受け容れられたんだよ。ぼくが同じような話をしたって、ただうさんくさいと思われるだけさ。ぼくはCreginaを(にせ)(もの)扱いされるのはいやなんだ。もうネットではいろんな中傷も受けている。恐ろしいことに、どんなものでも目立つ分だけ大きな攻撃の的にされちゃうんだよ」

「と言いながら、本当は自分にケチをつけられるのがいやなんじゃないの? 名誉欲こそ人が一番捨てきれないものなんだって、ちょっと前に読んだ小説に書いてあったよ」

「確かに、ぼくは自分の評判が地面に叩きつけられるのを恐れてるのかもしれない。でも、それ以上にCreginaの評判を傷つけたくないという思いの方が強い、と思う」

 彼女は疑わしげな眼差しを彼に向けた。

「ぼくが動画投稿サイトにCreginaをアップロードしたら、それを勝手に使った動画が次々と現れたみたいに、今は誰でも簡単にコピーや加工品を作って公表することができる。それで、ネットの中も外もコピーだらけになっている。ネットの、というよりぼくたちの、と言った方がいいのかもしれないけど。そういう中でCreginaみたいに独創性が感じられるものって、本当に貴重だと思うんだ」

「ぼくたちの?」

「そう。もともとぼくたちはコピーに囲まれて暮らしてきた。ぼくの身につけているものは靴からスーツ、ベルト、シャツ、ネクタイ、腕時計まで全部コピーだし、持ちものだってバッグからスマホ、財布、ペン、ハンカチ、折りたたみ傘まで全部コピーなんだ。読んでる新聞も、見てるテレビも、乗ってる電車もコピー。飲んでるビールも、座ってるイスも、肘をついてるテーブルも全部コピー。この店まるごとコピーなんじゃないかって気さえするよ。チェーン店じゃないのに」

 カウンターの向こうで氷を削っているマスターと皓一の目が合った。店内には静かにジャズピアノが流れている。

「もちろん、世の中のすべてがコピーだとまでは言わないよ。でも、本当に誰も持っていないものを持とうと思ったら、木彫りの人形でも作るしかない」

「木彫り?」彼女は首を(かし)げた。

「あ、今のは忘れて。とにかく、ぼくたちはもともとコピーに囲まれて暮らしてきた。そこにパソコンやネットが加わった。ホームページ、電子掲示板、動画投稿サイト、ブログ、ツイッター、SNSなどなど。そこで情報を共有し合ったり、コメントし合ったり、拡散し合ったりしているうちに、何かが変わってきてるような気がする。自分の感じてることや考えてることが、どこまで自分のものなのか、ますますわからなくなってきてるっていうか。大きな集合意識みたいなものにいつもつながれてて、自分の輪郭があいまいになってきてるっていうか。寝るときさえスマホを枕元に置いてるんだからね。ぼくたちの中にも外にもコピーがあふれてるっていうのは、そういう意味。という話も、どこかで聞いたことがあるな、と思いながら今話してるんだけど」

 彼女はため息をついた。

「そうね。ありきたりな話だと思う。コピーのどこがいけないの? コピーのおかげで保たれてる生活のクオリティーってものがあるじゃないの。今、私たちがこうして冷房が効いた店で、カキンと冷えたおいしいビールを飲めるのもコピーする技術のおかげなんだし。芸術鑑賞だって、情報発信だって、昔は一部の人間にしかできないことだったのに、今じゃ子どもでもソファに寝転びながらウィーン・フィルの演奏を聴いて、その感想をネットに書き込むことができる。たとえ演奏が二十年前に録画されたコピーでしかなく、感想がほとんど誰も読まないありきたりなものでしかないとしても、とにかくそれができる。そういう平等さってこれまでなかったものなんじゃないかな。たとえ私たちの手にしているものの九割がコピーなんだとしても、コピーにさえ触れることもできなかった時代よりは遥かにましなんだと思う。それに皓一の言う集合意識なんて、そんなに単純なものじゃないよ。ネットは人をつなぐ一方で、切り離してもいる。ネットが生み出したり、はっきりさせたりした対立のせいで、自分がひとりだってことを思い知らされることも増えてるはずだよ」

「という話すら、どこかで聞いた気がしないかってぼくは言ってるわけ」彼は間を空けずに言った。

「あ、後ろに回り込んだわね」彼女は彼を(にら)んだ。

「うん、回り込んでみた」

「そのみたっていうのやめてくれない? こっちは真面目に話してるのに。そう簡単に後ろに回り込まれると、これから何を言っても、という話すらコピーだってことになって話が振り出しに戻っちゃうじゃないの」

「別にはぐらかしてるわけじゃないよ。という話すらって言い方がどこまでもできちゃうことが問題だって言いたいだけ。ぼくもコピーだらけの状況が全部悪いとは思わない。渚の言う通り、良いところの方がずっと多いに違いない。この状況はこれからもっと進んで、ぼくたちはますます質の高いコピーに囲まれて暮らすことになるだろう。この流れは誰にも変えられない。そして、これも渚の言う通り、ネットは共感だけじゃなくて、違和感や反感も引き起こすから、自分の輪郭があいまいになるなんて心配する方がどうかしてるのかもしれない。でも、その違和感や反感までコピーなんだとしたら?」

「別に、いいんじゃない。その方が淋しくなくて」

「本当にそうかな。ぼくたちはコピーを手に入れることで、何かオリジナルなものを手放しちゃってるんじゃないかな。たとえば、仕事で大きな失敗をしたときなんかに、ああ、バックアップを取っとけばよかったって、ぼくはつい思っちゃうんだよね。パソコンの中のデータじゃなくて、自分の生活まるごとのバックアップを、だよ。そんなことできるわけないのにさ。でも気づいたら、そう考え込んじゃってるんだ。もはや真剣に後悔しなきゃいけないときでさえ、ぼくはパソコン的な感覚を離れられなくなってるんだよ。それはコピーというものに、ぼくが心底慣れきっているからなんだと思う。さっき言った、ときどき自分の輪郭があいまいになるっていうのは、ぼく自身が感じてることなんだ。自分の中の、ここはコピーだってわかってるところはいいとして、ここは自分のオリジナルだって思ってるところまで、本当にそうなのかわからなくなるときがある。という話すらって言い方がどこまでもできちゃうのは、とても恐いことだと思うんだ」

「どうしてそんなにオリジナルにこだわるの? たとえ後悔の仕方がパソコン感覚になってたって、生活まるごとのバックアップは取れないんでしょう。そこにオリジナルなものがあるって思えばいいじゃないの。だいたい自分のどこまでがオリジナルなのかわからなくなって何が困るっていうの? たとえば皓一が街中(まちなか)を歩いてるとするよね。ものすごい数の人がいるんだけど、知り合いはひとりもいない。皓一は完全に匿名になってるわけ。そういうときって自然と肩の力が抜けてのびのびと歩けるじゃない。その心地よさは自分が誰なのかこだわらなくていいから感じられるものなんじゃないの。オリジナリティーなんてこだわらない方が気が楽。そんなものいろんなコピーの中から、どんな靴とスーツとベルトを選ぶかっていう組み合わせでしかないんだって、割り切っちゃえばいいじゃないの。そう割り切ったところで、どうせ誰もが誰かとして生きることまでやめるわけにはいかないんだから」

「渚にはピアノがあるから、そんなこと言えるんじゃないかな。じゃなきゃ、なかなかそこまで割り切れるものじゃない。もちろん、ぼくだって仕事には自分なりのこだわりを持ってるよ。でも、残念ながら、ぼくにしかできない仕事をしてるとまでは言い切れないんだ。代わりのプログラマーはいくらでもいるんだからね。でも、きっと誰だって、ほとんどのところで自分の代わりがいることがわかってるからこそ、代わりがいない何かを見つけたくなるんじゃないかな。トースト焼いて、新聞読んで、シャワー浴びて、靴磨いて、電車乗って、仕事して、洗濯機回して、掃除機かけて、スマホ充電して、目覚ましかけて、そういうのを毎日ぐるぐるぐるぐる繰り返して、ただ自分を続けていくだけでも大変なんだ。その自分が全部コピーだなんて思ってたら、とてもやってられないよ」

「さっきから自分、自分って、もう二十五でしょう。もっと他に考えなきゃいけないことがあるんじゃないの?」

「他って?」

「だから、もっと自分以外のこと……」

 客がひとり店に入ってきた。マスターと親しげに挨拶を交わしながらカウンター席に座った。二人は驚くほどよく似ていて、マスターが後ろを向くと、マグリットの絵のように見えた。

 渚はメニューを手に取り、ぱらぱらとページをめくってから皓一に渡した。

「何か飲んだら。グラスが空いてるじゃないの」

 彼女がマスターに視線を送ると、彼は軽くうなずいてから近づいてきた。

「私はワイルドターキー。ストレートで。あとミックスナッツもお願いします。皓一は?」

「ええと。ぼくはビールをもう一杯。それとスモークサーモンをお願いします」

 マスターはまたうなずき、空いているグラスを持ってカウンターの向こうに戻った。

「何が祝杯よ。さっきからしゃべってばっかりじゃないの。いいかげんにしないとこれでぶつわよ」彼女はテーブルの端に置かれたクリスタルガラスの灰皿を見た。

「今のビール、何杯目だった?」彼は彼女の視線を追いながら言った。

「三杯目。意外に早くここに着いちゃったんだもの。やたらと暑かったから、最初の二杯は麦茶みたいにごくごく飲んじゃった。まあ、コピーだのオリジナルだのという話はわかったよ。納得はしてないけど、言いたいことはだいたいね。で、Creginaにこだわってるってわけ?」

「これはどこかで聴いたことがあるぞって感じにならないものって、とても貴重だと思うんだ」

「でも、結局それはCreginaの独創性であって、皓一のじゃないんだよね。もともと夢で聴いた曲なんだから、こびとの靴屋みたいなものじゃないの。売れない靴屋さんがいてさ、寝てる間にこびとが靴を作ってくれてさ、それで店が持ちなおすっていうあのお話。小さい頃は何とも思わなかったけど、最近ときどき思うんだよね。あの靴屋さん、本当は(むな)しかったんじゃないかなって。だって、この道五十年のベテランの靴屋さんがさ、いきなり現れた得体の知れない妖精みたいなのに靴作りで負けちゃうんだよ。それもぶっちぎりの完敗。朝起きたら自分で作ったのよりずっとクオリティーの高い靴がすっかりできあがってずらりと並んでるわけ。長年使ってきた自分の作業台を他人の作った靴が勝手に踏んづけてるのよ。朝っぱらからそんな素敵な光景を見たら、あぁ今日は人生最高の一日になるにちがいないって感激の涙を流しながら、並んでる靴に片っ端からキスしたくなっちゃうでしょうね。生活に困ってる靴屋さんとしては、とにかくそれを売るしかない。そうなったら、靴屋さんはもう靴職人じゃなくて靴販売員だ。販売員にも販売促進っていう大切な仕事があるけど、この靴の場合、何もしなくてもお客さんが喜んでどんどん買っていくんだもの。靴屋さんにしてみれば、まったく腕の見せどころがないわけ。そういうのが来る日も来る日も続くのよ。お話には書いてないけど、あの靴屋さん、毎晩お酒を飲んでいたんじゃないかな。これまでおれが続けてきた靴作りっていったい何だったんだろう。っていうか、そもそもおれ自身にとって靴作りって何だったんだろう。少しでも納得のいく仕事をしたいとか、良い靴を作ってお客さんに喜んでもらいたいとか、いつか親方に負けない靴を作りたいとか、そういうんじゃなかったのか。他人の作った靴が馬鹿みたいに売れるのを馬鹿みたいに喜んだりして……結局、おれが欲しかったのは金だけだったのかって。きっとおくさんが止めるのも聞かずに、ストレートでガンガン飲んだでしょうね」

 マスターが近づいてきて、ウィスキーとビールを静かにテーブルに置いて戻っていった。

「ぼくはその靴屋なのかな」

「自分ではどう思う?」

「目が覚めたら何かができてるってところは似てるけど、夢は妖精じゃないからね。夢は……何なんだろう。夢にはいろんなものが入りこんでる。無意識だの知覚だのと考えたって、それですべてを説明できるわけじゃない」

「それでも自分の夢は自分のものなんだから、Creginaも自分のものなんだって思いたいんでしょう」

「ぼくはCreginaが誰のものかってことには、こだわってないつもりだよ」

「こだわってるじゃないの。じゃなきゃ、どうして自分のオリジナリティーみたいな話が出てくるのよ。皓一はCreginaの独創性を自分のものなんだって思いたいのよ。でも、そうやってCreginaにしがみついたって、虚しくなるだけなんじゃないかな」

 彼はビールを口に含んだ。苦みが増したようだった。

「今度のことを知ったときには驚いたよ。突然あんな曲を作るなんて。私は皓一のことをわかってなかったんだなとも思った。でも、違ったんだね。だいたい自分が作った曲を多くの人が聴いてくれるなんて、それ自体とっても貴重なことで、それだけを目指して作曲に打ち込んでる人もたくさんいる。私だって少しでも多くの人に聴いてもらいたくて鍵盤に向かいつづけている。もし、夢を再現しただけなのに浮かれてるのを見たら腹が立つだろうけど、あんまりくよくよされても、それはそれで腹が立ってくる。これは音楽のことなんだからね。どうして私にそんな話するの」

「そんなに怒らないでくれよ。渚がピアノを続けてるからこそ、本当のことを知ってほしかったんだよ」

「と言いながら、騒ぎが大きくなったんで、だんだん後ろめたくなってきたんでしょう。それで、誰かに打ち明けて心を軽くしたい、と。皓一としては、それは大変だねって同情してほしいんだろうけど、私は、ああ、この人、私がどんな思いでピアノを弾きつづけてるのか、わかってないんだなって思うだけ。楽になりたかったら、あれは夢を再現しただけのものなんですって、さっさと白状しちゃいなさいよ」

「それは、どうしてもしたくない」彼は少し考えてから続けた。「とにかく、Creginaはどこからか現れて、聴き手は増えつづけている。それがどうなってゆくのか、なるべく邪魔しないで見届けたいんだ」

「それって、このままの状態を続けるってこと?」彼女はあきれたように言った。

「そう。居心地悪いけど……」

「それで何か見えてくるのかな」

「わからない。確かなのは、ぼくがどんな思いでいるのか、渚にはわかっていてもらいたいってことだけ」

「だから、そういうのはひとりで背負いなさいって」彼女は灰皿を見てため息をついた。

 マスターが食べ物をトレーに載せて運んできた。「自家製スモークサーモンです」と、なぜかそこだけ語気を強めながら皿を置いて戻っていった。

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