戸籍無い問題
詩織をステージへと見届けた後、俺は一旦同僚を頼ることにした。
今と全く違う社員証をかざして事務所に入り、奥の方にある部署におそらくいる人物に用がある。
「美咲〜」
「西沢くんの妹さん? ここ、親族でも関係者以外入っちゃ駄目なの」
「いや、西沢 涼」
俺がそう言うと、白河 美咲は俺のことを隈なく観察しだした。もう何なら触りだしている。腰回りに手を伸ばして、ウエストを確認し出し、俺の頬を鷲掴みにして眼前まで持って行くとジッと見る。明るめの髪色に、スーツの似合うキャリアウーマンのような見た目をしている。彼女に見つめられて、少し照れてしまう。
「特殊メイクでもない。あなたは涼じゃない。身長は同じくらいだし、顔も少し似てるけど」
「いや、そうなんだよ」
「その声もさ、低音女性ASMRでよく聞くようなので涼が出せるような声じゃないし」
「何、俺の知らない間で低音女性ASMRが流行ってんの? 知識の弱い俺がおかしいの?」
「あれは良いものだから、この問答が終わったらどっかで聞きなさい。うーん、話し方とかは確かに涼なんだよな。あー、うちの女優かなんか? 涼の癖とかトレース中? 確かに素材は一級品だ。メイクして無いのとか、何故か親父臭いスーツとかは女優として最低だけど、演技も悪くない。私に任せてもらえれば、売れっ子女優に……」
「ちょっと待ってくれ、俺を女優にしないで」
「そうよね、絶対モデルが良いわよね。任せて、一年でパリに連れてってあげる」
話が何にも進まない。優秀なマネージャーなのは間違いないのだが、自分の世界に入りがちというか、直線的なところが欠点なんだよな。
「わかった。俺の話を一旦聞いてくれ。俺は、西沢 涼なんだ。朝起きたら、ボーイッシュ巨乳になってた。ここまで、ここまで一回飲み込んでくれ。ほら深呼吸して」
「「スー、ハー」」
「じゃあ、次に行くぞ。俺どうしたらいい?」
「その前のとこ信じて欲しかったら、なんか私の秘密言ってみてよ、この前の居酒屋でのやつ」
「えっ、別にそんなん言ってないだろ。そんな仕事できます感出して、日本酒一滴で記憶無くすんだから」
「これにも引っかからないか。まあ最悪、ヤバい人だけど危害を与えてくるような感じじゃなさそうだから良いや。嘘ついてたら、ウチの事務所に入れるからね! パリに送り込むからね! こんな才能の塊、逃したくない!」
美咲は一旦話を飲んでくれるらしい。椅子に座り直してくれた。
「どうすりゃ良いかな? 俺」
「どうするもこうするも、戸籍とか、雇用のこととかさ、まぁね、大人だからね」
「詩織は誰に任せよう」
「確かに涼の仕事って詩織ちゃんだけっちゃだけだからね。だけって言ってもとんでもない量だけど」
「詩織に言った方が良い? なるべく負担はかけたくないんだ」
「芸能界で六年生き残ってんのよ? あの子、マネージャーの姿形が変わるだの、マネージャーが代わるだので動揺するような子じゃないわよ」
そうだよな、なんだかんだ詩織は自分を持っている。俺一人が欠けたところで特に影響は無いか。
「俺って仕事クビかな?」
「社会で、戸籍が無い人が仕事するの無理よ」
「だよな」
取り敢えず、詩織の元に戻るか。二時間経ったところだ。ライブも終わりに近いだろう。
会場に着くと、詩織は最後の曲を歌っていた。これとアンコールをやってもう終わりだな。全国ツアーの最後でこのキレ、やっぱり本物の天才だよ。それと同時に、俺は詩織の努力も知っている。何がそうさせるのかはわからないが、オーディションを勝ち抜いて直ぐ、詩織はそれこそ死物狂いでトレーニングに励んでいた。俺が説得しなければそれこそ本当に死ぬまでやるのではないかと思った程にだ。
ただ、俺はもう働けない、戸籍のない人間に対する社会の目なんてこの年まで生きていれば知っている。
詩織はステージ裏の方に戻ってきた。あんなに激しく動いたというのに汗ひとつかいていない。偶像だ。
「マネージャー、私このライブ終わったらさ、しばらく休みなんだよね?」
ステージ裏は暗いから、俺のことはよく見えていないのだろう。でなければ、さっきの美咲のような対応をされる。暗くて良かった。俺の泣き顔は見せたくなかった。これが、詩織につける最後の仕事だ。
「そうだな、一週間は空いてる」
「わかった、じゃあ楽しませてきます」
アンコールが鳴り響く、詩織がステージの中央へ一歩一歩進む度に、ボルテージが上がって行く。
俺はその煌びやかな姿が眩しすぎた。詩織にさよならを言いたくなかったから、俺はまた事務所に戻った。
「辞表できた?」
「できたよ」
大きく辞表と記された白の封筒をフニャフニャと振る美咲に「ありがとう」と告げて、社長室に向かった。うちの事務所の特徴ではあるが、社員とトップの距離が近い。うちの社長はなかなかのやり手というか世界基準の富豪だ。何故かよくわからないが、うちの事務所の社長をやっているし、忙しいだろうに事務所にずっといる。要するに変わり者なのだが、お金持ちの考えることはようわからん。辞表も本来なら直属の上司に渡すものなのだが、実際に話を聞きたいと自分に直接渡して欲しいとのお達しが出ている。
「失礼します。 マネジメント部の西沢 涼です」
「噂はかねがね聞いてるけど、西沢さん、その姿は? 妹さんか何か? 代理ってやつ?」
うちの事務所の社長である冬神 刹那は流れるような質問攻めを繰り出してきた。うーん、うちの社長は美しい。
「いえ、あのですね、その、今は女性ですけど、ちょっと前まで男で」
「あー、わかりました。戸籍の話ですね? それで戸籍無くなるから働けないってことですね?」
「そうです」
「西沢さんは別に、この事務所を辞めたいわけではないんですよね?」
「はい、もう永久就職希望ですけど」
「じゃあ戸籍に関しては何とかしときますので、業務にお戻りください」
「はい? いいんですか?」
物分かりが良すぎる。やはり大富豪となればこの程度のハプニングなんていくらでも経験しているのか?
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
俺はまた詩織に会いに行くために、会場へと駆け出した。
さっきまでのシリアス感なんだったんだよ……。
この社長ですが、この社長がヒロインのお話がありますので、気になったら読んであげてください。
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