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美沙

「……会いに行く。うん、そうだよ、会いに行く!」

 それは、この場の思いつきだった。

 連絡できるなら、住所も判る。住所が判れば会いに行ける。当たり前のことだ。むしろ、会いに行く、という発想を今までどうして持たなかったのかと不思議にさえ思う。

 連絡を取れると知らなかったから、というのは言い訳だろう。前に住んでいた住所を母に聞けば良いし、いーちゃんの家族が引っ越してしまっていたのなら、そこで初めて、私がもっといろいろとできるようになるまで、いったん待てば良いだけのことだ。

 そんな考えさえ生まれなかったのは、おそらくはまだ小学生になる前、幼い私にとって、東京と長野というのは恐ろしく離れた遠い場所と思えたあの印象が、だから大人になったら必ず会いに行こう、という幼い決意が、『大人』にはまだ少し早い『今』会いに行く、という簡単なことを盲点にしていたのかも知れない。

 でも、気付いた。そうだ。今の私ならもう、『約束』を果たすことが、できるはずだ。


 幼い頃のはっきりした記憶がある、と言うと、驚かれる。もしくは、それは思い込みだよ、なんて。

 人間っていうもの(あるいは人間の脳っていうもの)は、都合の良いように記憶を扱うこともあるそうだから、その指摘が正しいということも、無いとは言い切れないのだろう。

 だけど、私には私なりの、その記憶が確かなものだという根拠がある。

 その、幼い日々。かけがえのない友達と共に過ごした時間は、離ればなれになってもなお、いや、離ればなれになったことでより、キラキラと輝き煌めく、宝石のような時間だった。そして私はずっと、暇さえあれば心の宝石箱を取り出して、その宝石たちを眺めているような子供だった。

 確かに、断片的ではある。でもその欠片一つ一つは、今なお鮮明に輝きを放っている。

 大好きだった『いーちゃん』との想い出たち。その輝きを心の目に写すとき、心の奥から温かく浮かび上がる想い。今の私はそれを、『恋』なのだろうと感じている。

 ――そして。その初恋はまだ、終わってはいない。

 正直に言えば、『約束』を果たすことは、それを終わらせることになる――その可能性が脳裏を掠めるだけで、その恐怖は、ギュッ、と私の体を萎縮させる。

 それでもだ。それでも、今の私なら会いに行ける、その思いつきは、とても、とても心を躍らせる。

 だから。さあ、逢いに行こう! そのために必要なのは、あとはもう、私が傷つく覚悟だけだ。


 列車に揺られながら、心の内に一つ、取り出した宝石。――あの日の『約束』の記憶。

 マンションのエントランス。引っ越しのトラックに運び込まれる、段ボールや、クッションに包まれた、見慣れたはずの家具たち。その様子を、ただぼんやりと眺めていた。

 父と離ればなれになるということは、なんとなく理解していた。だけど、そこに寂しさや悲しさを、無くはないけど、さほど強くは感じてはいなかった。父と母は、私の前でケンカをすることはなかった(そして多分、二人きりの時でも)。だけど、その関係が上手くいっていないことを、私はなんとなく解っていたのだと思う。だから、あの家の中の“冷たい感じ”が終わることに、どこかほっとしてすらいた気がする。

 私にとって、もっと寂しかったのは、もっと悲しかったのは、いーちゃんと離ればなれになることだった。だけど、わがままを言えば両親ともに困らせることも、言ったところでどうにもならないのだろうことも、子供なりに解っていたのだろう。幼子がよくもそんな我慢をできたものだと、我が事ながら他人事のように感心してしまうけれど、その時にはもう、“決意”をしていたのだろうと思う。――大人になったら、必ず、と。

 それでも、別れの前に顔を見たかった。きっとまた会いに来るって、伝えたかった。でも、いーちゃんは姿を見せなかった。彼女のお母さんだけが困り顔で現れて、それを見た途端、私は駆け出していた。エレベータを使ったのか階段を使ったのか、ただ無我夢中で、そこは覚えていない。

 彼女の家の扉の前で、うずくまって泣きじゃくる、いーちゃんを見つけた。私に気がつくと、彼女は私にすがりついた。その、声にならない声が「行かないで」と言っていた。私も泣いてしまいそうになったけれど、心の中の『決意』が勇気をくれた。

「大人になったら、絶対に会いに来るから!」

 私が、自分に言い聞かせるように叫んだ言葉に、それでも、いーちゃんは泣いたまま首を振っていたけれど。

「絶対の、約束だから!」

 何度も繰り返してようやく、私の強い想いが届いたのか、痛々しいほどにしゃくり上げながら、最後には、頷いてくれた。

 そうして、私の『決意』は、私たちの『約束』になった。


 高尾で私鉄に乗り換えてから、どれくらいの時間が経っただろうか?

 朝も早かったし、もう昼時ということもあって、軽い眠気と空腹を覚えながら窓の外を見るともなく見ていると、不意に訪れた「知ってる!」という認識に、意識が覚醒した。

 いーちゃんの一家は、引っ越していた。けれど、以前住んでいたこの辺りから、私鉄で三十分ほど上るだけだ。

 いよいよ見えてきたゴールに、私の胸は高鳴り、眠気も空腹感も、もうどこかへ吹き飛んでいた。

 ――きゅるるる……。

 ……空腹そのものは、吹き飛んではくれなかったみたいだけれど。


 プリントアウトした地図を片手に、ランドマークとして教えてもらったお店などを確認しながら進んだ。駅からは徒歩十分弱とのことで、やや郊外とはいえ、電車で都心部までたぶん三十分もかからないだろう場所だと考えれば、ずいぶんリッチな立地だ、などと思いつつ、それを思いはしても口には出すまい、と自ら戒める。――そんなしょうもないことを考えながら歩けば、十分なんて時間、あっという間だった。

 クリーム色の外壁に、えんじ色の屋根、その二階建てのコンパクトな一軒家に、『ARISAKA』という表札を見つけて、急に緊張感に襲われた。

 悪い想像が頭をよぎり、逃げ出したい衝動に足がすくむ。だけど、手を握りしめ、歯を食いしばって、そんな弱気を追い払う。そして、自分でも笑ってしまいそうなほど滑稽に震える指先で、インタフォンのチャイムを鳴らした。

「あら! 今、行かせますね」

 そう対応してくれたのは、お母さんだろう。その言い方からして、いーちゃんも在宅のようだ。

 ――動悸で、喉が詰まりそうだった。その僅かな待ち時間が、ひどく息苦しい。審判を待つ罪人はこんな心境だろうか?

 そして。扉が開く。

 いーちゃんだ!! ……一目で、そう思った。

 想い出とは、当然だけど、全然違う。でも、判る。昔の印象と比べると、どこか、影があるような、でも、想像していたよりもずっと、美人になっていた(恋は盲目、というやつかも知れない)。

 胸がいっぱいで、言葉が出なかった。

 いーちゃんは、少し訝しそうに、その様子に、私は弱気になりそうに、だけど、それは一瞬で。いーちゃんはすぐ、何かに気づいたように、驚くように、目を見開いた。その目から、見ているこちらがびっくりするくらい、ぶわっと、涙が溢れて。直後、その光景も、滲んだ。

 判ってくれたのだと解った。もしかしたら忘れていたのかも知れない。そうだとしても、思い出してくれた。

 言葉も無く、二人、ただ、泣きながら、抱き合って。

「……約束……」

 いーちゃんがつぶやいた。

「絶対って、言ったからね……!」

「……そうだ、そうだったね。みーちゃん」

 懐かしい、その呼ばれ方。

 私にとって、ここはゴールじゃなくて、ここをスタートにしたい。そんな想いを持ってここへ来たけれど。

 しばらくは余計なことなんて考えないで、今はただ、この温かい充足感に浸っていたかった。

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