弘美
「お疲れ様でしたー」
「お疲れ。気をつけて帰ってね」
現場の子たちを見送って、事務所へ戻る。今日一日が無事に終わる安堵感と、それに纏わり付くほんの少しのさみしさ。……特に今日は、成田さんがシフトに入っていたから。
みんなには軽口めかして、女の子となら恋愛をアリだと匂わすようなことを言いつつも、実のところ、今、本当にそれを伝えたいのは、一人だけ。私より娘の方が歳の近い子を、こんなに気にしてしまうなんて――恥ずかしいような、情けないような、そんな気持ちもある。漠然とした、申し訳なさのようなものもある(成田さんに対して? 娘に対して?)。
だけど、誰かを「好き」と言える、そんな今の自分を、私は誇らしくさえ思う。
――それまでの私は、“生きていなかった”のだと思えた。
主にティーネイジャ時代、多岐にわたる(と言えば聞こえは良い)女子の会話の中で、なんとなく皆の熱量の上がる(と、私が感じていた)話題が、『恋バナ』だった。だけど私の場合、そういった話題になると、表面上は周りのテンションに合わせながらも、心では逆に、私の中の“何か”が、すうっ、と、冷え込むような、遠ざかるような、そんな感覚を認識していた。
ファッション、コスメ、スウィーツに、ドラマや音楽。そういった話題では、そうはならないのに(とはいえ、タレントやバンドメンバの誰某がカッコイイ、なんて話になると、やっぱり“冷める”のだけれど)。
でもその頃は、それは、私がまだ恋をしたことがないために感じる疎外感のようなもの、だと思っていた。
そんな私は変わず、恋など知らないまま、短大を卒業して、経理として応募した某一流企業に、受付嬢として入社した。その頃はまだ『就職氷河期』なんて言葉が残っていたのだから、不満は無く、むしろ運が良かったとさえ思う。ただ、人の目につく職場になったことで、(それが私にとって良いことだったにせよ、悪いことだったにせよ)私の運命は決まったのだと思う。
受付に立つようになって半年ほどが過ぎた頃だろうか。私に、見合いの話が舞い込んだ。相手は、受付で何度か顔を合わせたことのある男性。後でその男性こと松田稔当人に聞いた話では、彼がヘッドハントの打診を受けていたときの話し合いの流れで、この見合い話が持ち上がったのだという。大げさに言えば、政略結婚のようなものだろうか(違うか)。
その、時代錯誤な印象すらある見合い話に、だけど私は、不思議と嫌悪感などは抱かなかった。むしろ、受付として、食事などの誘いには応じないように、と言い含められていたため、この、搦め手とも言えるアプローチには感心すらしたほどだった。だから、その話を受けたのは、純粋な興味、好奇心から来るものだったろうと思う。
対面した稔さんは私より六歳年上で、私の想像(こんな手段を使うくらいだから、もっと、いわゆる“肉食系”だと思っていた)と違って、清潔感があり、穏やかでシャイな印象の人だった。……実際に暮らしを共にしても、その印象は変わらなかったから、やっぱり離婚の主な原因(である彼の不倫、その原因)はむしろ私にあったのだろうと、思えてしまう。
見合い後の、彼との“恋人”としての短い交際の中でも、彼のことは一人の人間として尊敬できると感じたし、彼への感情はどちらかといえば好意だったと言える。それでも、私はやはり、そこに“熱”を感じることはなかった。早すぎるほどのプロポーズをそれでも受け容れたのは、それに不快感や嫌悪感を感じなかったからだし、私という人間は恋愛というものに覚える感情が他の人とは違うのだろう、と、ある種の諦念のように、その時は考えていた(あるいは、そう自分に言い訳していた)からでもある。
翌年の初春には入籍し、さらにその冬には娘の美沙を産んだ。その、めまぐるしく変わる状況の中、だけど私が感じていたのは(その時も、その先しばらくも、そうと感じる余裕はなかったけれど)確かにそれも“幸せ”だったのだろうと思う。
それでもそこに、男女の愛情はきっと、無かった。そして、それを彼は、明確にか曖昧にか、何らかの形で、理解したのだろう。
だから、やがて彼は別の女性を選び、それを自ら私に打ち明け、その非を認め、離婚に同意した。娘が六歳になる頃のことだ。
親権は私に、慰謝料も払い、養育費も娘の成人まで払う。そんな、彼の“物わかりの良い態度”に、私はそれが、私に対する当てつけではないかと思ったりもした。
そして、離婚の成立を機に、私は職を辞して、娘を連れて実家に帰ることとなった。
彼に対して、一人の人間として好感を持ちこそすれ、そこに恋や愛といった感情はなかった。それでも、その一連の出来事は、私を不思議と打ちのめした。
だから、なのだろうか。鬱々としていた私に「気分転換でもしてこい」と親に半ば強引に送り出された旅行。その旅先でのことだ。
その夜、私は、そうとう酔っていたのだとは思う。自暴自棄な気持ちがあったのだろうとも思うけれど、自分がその時、どういう思考で、どういう経緯で、その行動に至ったのかは、覚えていないし、解らない。
意識がある程度はっきりした時には、私はホテルの一室で、一人の女性と一緒にいた。女性を相手にする“プロフェッショナル”の女性だった。
――その夜のことを思い出すと、私の脳裏には、ジュクジュクに熟れた白桃のイメージが浮かび上がる。
半ば液状化し斑に変色した果肉はグロテスクとすら思える見た目をしていて、でも、それが放つ、むせかえるような甘い匂いに、手を伸ばさずにはいられなくて。そしてそれを舌に乗せれば、その毒々しいまでの甘さは、舌先だけで無く、脳の芯まで痺れさせるほどに濃密で。
陳腐な言い回しをするなら、それは――甘いひととき。
あの快楽は、私の全身を芯から震わせるほどの、全く初めて経験する、例えようのない歓びをもたらした。
でも同時に、歓びで震える私の心の奥に、今までの自分全てを否定されたような、鋭く冷たい痛みをもまた、もたらした。
痛みは、だけど、不思議と私を惹き付けて、私はそこに、深く優しい闇を見る。
その闇はきっと、甘い、死の誘惑だった。
だけど私がそこへ誘引されずに済んだのは、娘の存在があったからだと、信じられる。
すべてを否定され、まるで無為に感じられた私の人生の中で、でも、健気にも私に笑顔を向け続けてくれるあの子だけは、確かに、私を肯定できる存在だった。
ともあれ、その強烈な体験はまた、どんな理屈よりも深く、私に“納得”をもたらした。それは、理解、と言い換えても良いけれど、レズビアンだなんだと言葉を玩ぶよりも、はるかに確かに、悩んだりする暇もなく、否応なしに、私に根付いた。……いや、ずっと自らの内に巣くっていたものに、ようやく気づいただけなのかも知れない。
そして、その納得は、“私も誰かを愛することができるのだ”という肯定でもあった。――そしてようやく、私は、稔さんに愛されていたのだ、と、初めて感覚的に思うことができた(それが、勘違いだったとしても)。
彼は、私との間に横たわる『隔絶』に、娘との関係にもそれが浸食することを恐れたのではないか。だから、彼は、離れて暮らすことになっても、美沙の『父親』であり続ける道を選んだ。――彼から望んだ一つの条件、「美沙には松田性を名乗らせてほしい」というのは、私に対する当てつけなんかではなく、ただ、彼がたった一つ望んだ、真摯な願いだったのではないか。今は、そう思う。
「有坂さんって、『いーちゃん』のお母さんだよね? 連絡とってたんだ?」
ある日の夕食の席、美沙が出し抜けにそんなことを言った。だけど、その言葉の雰囲気から、私を責めたいわけではないらしい。
美沙の言う『いーちゃん』というのは、離婚前に住んでいたマンションで親しくしていた、美沙と同い年の女の子、泉澄ちゃんだ。
いや。親しい、という言葉だけでは足りないくらい、ふたりは親密な仲だった。もちろん、まだ小学生にもならない子供同士の“仲の良さ”に、疚しさのようなものなど無いのだけど、当時の私は彼女たちの様子に、漠然と、なんとなく落ち着かない不安のような感情を覚えていた。今思えば、私自身が無自覚だった自分の性向がそう感じさせていたのだろうけれど、あるいはそこに「娘も私と“同じ”なのではないか」という不安を、これも無自覚に無意識に、嗅ぎ取っていたのではないかとも思える。
ただ、別れの際にひどくぐずっていたのは泉澄ちゃんの方で、美沙はむしろそれを宥めているように見えた。その時の娘の様子が不憫だったのだろう、有坂さんの方から「連絡を取り合いましょう」という提案をされたワケだが。
そして、こちらに移ってから美沙は泉澄ちゃんのことを(少なくとも私の前では)話題にすることはなかった。だから今、この美沙の言葉は意外でもあって、だけど、当時の二人の様子を思い浮かべれば納得するような気持ちもあった。
「隠してたつもりはないけど……、美沙も連絡とりたいの?」
有坂さんによれば、泉澄ちゃんも美沙のことを話題に出すことはないそうなので、必ずしも美沙の望むようにはならないかも知れない。でも、美沙が望むなら、私は連絡先を教えてあげるのに否やはない。親の欲目かも知れないけれど、高校生になったばかりとは思えないほどしっかりしている美沙なら、大丈夫だろう。
……そんなことを思っていたのだけれど、次に美沙が口にした言葉には、さすがに意表を突かれた。