千鶴
「じゃ、またね」
そう口にして、手を振って、前を向いてペダルを踏み込む。
振り返りはしない。――その、未練がましい行動に、私の気持ちが知られるかも知れないから。
それはきっと杞憂なのだろう、という思いもある。でも、少しでも可能性を想像してしまえば、それは私に、振り返る、という程度の行動さえ許さない。
そのことに、なんとも言えないモヤモヤを抱えながらも、でもそれ以上に、しずちゃんに会えた、話せた、そんな些細なはずなことに、浮き上がるような嬉しさを感じてもいた――なんて。
大学へ向かう電車の中、いつもなら、本を読んだり、スマホでニュースをチェックしたり、そんな風にして潰す時間。でも今日ばかりは、こうして昨日のことを思い返してしまう。
(……また、綺麗になってた)
それは、惚れた欲目、というやつなのかも知れない、とも思うけど、嘘偽り無い本心だ(そしてきっと、事実に違いない)。
そう、やっぱり私は、しずちゃんのことが好きで、諦めきることなんて、できそうもないのだ。
私がしずちゃんを“そういった”対象として意識した日の、その瞬間を、鮮明に覚えている。
それは私が中学生になってしばらくたった頃。私はあの子から、ある相談を受けた。
「私、他の子と違って、おかしいのかも知れない……」
私の部屋、二人きり。今にも泣きそうなほど不安そうに、そう言ったしずちゃんは、おもむろにシャツをたくし上げた。
ドキッ、とした。――ううん。そんな言葉じゃ、足りない。
……そう、もっと小さい頃に、間近で見た花火の印象。ドォゥン! と、体中をビリビリと震わせる轟音に、恐怖を感じながらも、空に咲いた花火の綺麗さに、目をそらすことができない。まさに、胸の中で花火が炸裂したようだった。
そして、その時心に湧き上がった感情を、一言で伝えるのは難しい。
例えばそれは、私がそれほど信頼されているという喜びだったり。
例えばそれは、秘密を共有することへの不思議な高揚感だったり。
例えばそれは、純粋な性的欲求の芽生え、だったのかも知れない。
例えばそれは、そういった感情を彼女に対して抱いたことへの、不安……いや、恐怖でもあった。
そして私は、自分の中で荒れ狂うそういった感情たちに戸惑いながら、どこか熱く、鈍くなった頭を必死に働かせて、言うべき言葉を探した――はずだ。実のところ、その後のことはよく覚えていないのだけれど、たぶん、その変化は女の子であれば普通のことで、それがみんなより少し早いだけだ、というようなことを言ったと思う。
とにかく、その日から、私の彼女への想いは、始まってしまったのだ。
正直、大いに悩んだ。女の自分が女の子を好きになる、ということに、さほど知識の無いその時はまだ、ただ漠然とした不安に圧し潰されそうになったし、何より、もし、しずちゃんが好きなのではなく、小さい子が好きなのだとしたら……それはなんというか、ヤバイ、と想像できた(幸い、そっちの性向は無さそうだというのは早々に確認できたので、多少は安心できたが)。
しずちゃんのことを好き、ということを自分自身認めることができても、その想いが彼女に知られたら。ただ、ごめんなさいと、受け容れられないだけなら、まだ良い。でも、強く拒絶されたら。そのせいで嫌悪の感情を向けられたら。そういったことを考えてしまえば、やっぱりそこには不安ばかりしかなくて、“仲の良い、姉妹のような関係”を壊したくないと思ってしまう。
……だからきっと、「昔みたいに」なんて彼女に言いながら、本当は私の方が彼女を遠ざけようとしているのかも知れない。近づきすぎれば、私のこの想いを全く隠したままでなんて、きっといられないのだから。
「田口さん、ヨッす!」
大学の構内を歩いていると、横合いから声をかけられた。
「? ……成田先輩。おはようございます」
ちょうど購買部から出てきたのだろうその人は、成田新菜さん。お試しで一度だけ参加したサークルで知り合って以来、入会しなかった私にも気さくに話しかけてくれる先輩だ。近所でのショッピング程度だが、一緒に遊んだこともある。
「……なんか、元気ない? もしかして恋愛の悩みとか? 相談ならいくらでも乗るよ?」
……ドキッとした。先輩が鋭いのか、私が分かりやすいのか、こうも簡単に言い当てられるなんて。でも、だからといって、さすがにこの想いは相談に乗ってもらうというわけにもいかないだろう。
「ええっと……」
だけど。そんな風に言葉を濁す私に、先輩が潜めた声で尋ねた言葉に、私はもっとドキッとさせられたのだった。