前編
「できた」
と、幼女が言った。
できた。ナヴァリ。
うん。
……うん?
できたって、何がかな? 赤ちゃんかな? 俺の子かな?
いやなんでやねん。発想が気持ち悪いわ。
ごめん待って。説明し直す。
目が覚めると一面銀世界で、たぶんどっかの家の前庭とかだと思うけど、雪めっちゃ積もってて。
で、そんな場所で目が覚めて、幼女に『できた』って言われた。
いやその声で目が覚めたのかも。まぁそれはどっちでも。
幼女。
小学校入学前か低学年かってあたり。小さな身体をもこもこの冬着にくるんで、ほっぺたをリンゴみたいに真っ赤に染めて、笑っている。端的に言ってかわいい。
言葉の意味も気になるけど、そもそも誰やねんって感じ。
そう思って尋ねてみようとしたところで気が付いた。
声が出ない。
ってゆーか身体が動かない?
いやちょっと待ってくれなんだこれ。マジのガチで身動き一つできねぇぞ!?
手足はもちろん首も曲がらないし捻れないし、足にいたっては感覚すらない。もっと細かいところ、目蓋や唇なんかも微動だにせず、なんだったら呼吸もさっきから止まってる。
なんだこれ。
どうなってんだ。
両足を切り落とされたうえで氷漬けにでもされてんのか。死ぬだろそれ!
――いや落ち着け。
うん落ち着く。
よし落ち着いた。
ふぅ。
って待て待て待て待て。急に落ち着きすぎだろ俺。どうなってんだ。
わからんけど……でも実際、一瞬前までの焦燥感が嘘みたいに消えてるんだよな。なんだろ、やべー薬でも打たれてんのかな。
そんな想像をするとまた心がきゅうっとなりそうになるけど、それもまたすぐに落ち着いていく。
そして冷静になって考えてみると、確かに呼吸は止まっているが、それで苦しいというわけでもない。
意味がわからんけど、でも今のところは――今この瞬間においてだけは、助かると言える。とりあえずすぐに死ぬという線だけはなさそうだからだ。
逆に死にたくても死ねないって線ならありそうなのが怖いところだが。
まぁいい。
よくはないけど。ないんだろうけど、とりあえず後回しだ。冷静になれたところでもう一度状態のチェックだ。
まず身体。
どうにかどこかが……お?
これは――動く。動くぞ。
肩だ。
右肩。
よしよしよし。一か所でも動くならそこをとっかかりにして他の部分も。それが無理でも最悪目の前の幼女にSOSでも送れればまだワンチャンあるかもだ。諦めてたまるか。
でも言葉通じるのかな。どう見ても日本人じゃないっていうか、そういえば最初の『できた』も日本語じゃなかったような。
『なばぁり』とか、なんかそんな感じだった気がする。
いや待てまた待て。だったらなんでその意味なんかわかったんだよ俺。
てか何語だよ。英語でも中国語でもスペイン語でもないだろ。たぶん。知らんけど。
うん、わからんけど。知らんけど。
でもほかの言葉も何となくわかるな。
挨拶は『マーヤンタ』。あるいは『マー』
『おはよう、おやすみ、こんにちわ。ありがとう、ごめんなさい。はじめまして、わたしの名前は……』
……あれ?
おや?
いやいやいやいや。待て待て待て待て。
ごめん待ってマジで勘弁して。すでにこれ以上ないってぐらい混乱しまくってるってのに、嫌なことに気付いてしまった。
どうやら俺、記憶もない。
目が覚める前の最後の記憶。
昨日何をしたのか。どんなことがあったのか。誰と何を話して何を食べたのか。どういう状況で眠りについたのか。
思い出せない。
自分が普段どんな生活をしているのか。どんな学校、あるいは会社に属していて、家族や友人はどんな人たちなのか。
趣味は、特技は、初恋の思い出は。
とにかく何も、名前も年齢も身元も来歴も、何一つとして思い出せない。
なんとなく、日本人男性だったっぽい意識はあるんだけど。確かにそうだと言える根拠が何もない。
基本的な社会の形や習慣、常識なんかもなくはない。というかそういった知識を前提としてさっきから思考してるんだろうけども。
なんだってんだよ畜生め。
こうなったらもういよいよこの右肩以外によりどころがないじゃねぇかよ。
――ボト
……うん?
なんの音だ、今の? 足元の右側から聞こえた、っていうか。
聞こえると同時に、あるいはその直前に、右腕の感覚、存在感がなんていうか、消失した。
単純に考えるなら肩のところからもげて落ちたということになりそうだが。なるわけだが?
いやいやいや、そんなそんな、ねぇ?
だって全然ないし。痛みとかそういうの。
喪失感的なものなら、まぁ、ってゆーか、うん。
幼女がめっちゃ見てる。
俺の右の足元。
音のしたと思しきあたりを、不思議そうな顔で見降ろしている。
いやー、はっはっは。
ちょっと待とうかおじょうちゃん。君みたいないたいけな幼女がそんな、人の生腕なんかをガン見なんてするもんじゃありませんことよ。
いや腕なわけないんだけども。
もげ落ちたなんて勘違いに決まってるんだけども。
ま。
だからちょ、待。
なんでしゃがんでんの腕を伸ばしてんの。ねぇねぇねぇ、待ってちょっと待ってってばよ。
なんて言ってるうちに視界の外に消えちゃったよ。
「よいしょっ」
ウッソだろ? 拾っちゃったの? 五、六歳ぐらいの幼女が平均的日本人男性の片腕を?
グロ耐性とか以前の問題として、重くない? そんな軽々と持ち上げられないでしょ。片手でひょいとってわけにはいかんでしょ。
って。
うんー?
んんんんんんー?
いやえっとちょっと待って何それ。
木の枝じゃん。
長さは三~四十センチぐらいの、大人ならどうにかへし折れそうな程度の太さの枝。
その一方の端に、なぜか手袋がはめられている。もちろんフィットなんかするはずもなくただ刺してあるだけだけど。
手袋付きの木の枝。って、なーんか見覚えがあるような気がするんですよねぇ?
記憶とかないはずなんだけどなぁ。
使い道っていうか定位置っていうか。
それはそれとして幼女さん。
ラブリー・マイ・リル・ガァ。
マイではないか。ないね。
ないけども。
それはそれとして――君はいったい何をやっているのかな?
枝や手袋に着いた雪を払おうともせず、どうして両手でもって、俺に向けて構えているのかな?
「やあっ」
グサッときたァ! 掛け声は日本語と変わらんのな!
ってゆーかマジで刺しやがったこのガキ。
痛……くは、ないけども。むしろ右腕の感覚が戻ってきたけども。
ということは、これはやはり。
あの木の棒ウィズ手袋が俺の腕ということに、なっちゃう?
と、そう考えたそのとき。
光が差した。
雲の切れた隙間から太陽の光が差し込んで、あたりを明るく照らし出した。
相変わらず身体は動かないので前半部分は想像だけど、とにかくそうして光が差して、足元には影が差した。
まるで答え合わせをするように、この身のシルエットが映し出された。
視界の制限は変わらないし、雪のキャンバスは幼女の足跡やらなんやらでデコボコだけど、鑑定に支障が出るほどじゃない。
丸い胴体に丸い頭部。頭部は胴体より一回りほど小さい。その上に乗せられた台形は、帽子を模したバケツか何かだろう。足はなく、斜めに突き出された両腕は、手袋をはめられた木の棒のカタチ。
はい。
どう見ても雪だるまです。本当にありがとうございました。
なんでやねん。
マジでほんまになんでやねん。
いや待ってええええええええええ!! ナンデ!? ユキダルマナンデェ!?
うわああああああああああ! ウッソだろおいいいいいいいいいいいいっ!!
って落ち着け!
うん落ち着く!
はい落ち着いた!
……よし、ってゆーか。
またコレかよ。
雪だるまもそうだが、こっちはこっちでなんなんだ。この急速冷却仕様の頭は。
詰まってるのが脳みそじゃなくて雪だから常に冷えっ冷え、とかそういうやつか?
なんだっていいや。
パニくって良いことなんか一つもないんだし、冷静でいられるならそれに越したことはない。
狂うこともできずに永遠に、なんてパターンが少し怖いが……いや、ないな。
少なくとも永遠はない。遅くとも春になれば溶けて消える運命だ。やだよぉ。
というかそもそもまだこの身が雪だるまだと決まったわけでもないし。
あくまでシルエットがそれに酷似しているというだけであって、例えば影が見えた瞬間から背中側――つまり日の当たっているであろう部分がじわじわと溶け始めているような気もするが、痛みもなく肉が溶けるなどという体験したことなどあるはずもない感覚が理解できることからしておかしいわけで、つまり逆説的にむしろ雪だるまなどではない可能性の方が。
「あ、おかあさん。見て、雪だるまできたよ」
oh……
どっかの家の前庭の『どっかの家』部分から出てきた女性に向かって、幼女が言った。
ご丁寧に俺の方を指さしながら。
あらー、よくできてるわねー、すごいわー的なことを言いつつニコニコ笑うその女性に頭を撫でられながら『ぬへー』と笑う幼女の姿は愛らしいが、愛らしいけども……愛らしいなぁちくしょう。
俺はロリコンじゃないが。そのはずだが。
最初の赤ちゃんかな発言はできれば無視していただきたいのだが。
とにかく、無理だ。
この子を恨んだり憎んだり、ましてや犯人扱いしたりなんてのは。
いったい俺の身に何が起きたのか。
肉体を変容させられたか、魂を移し替えられたか。きっとどちらかなんだろうけど。
どちらにしてもこの子にそれができるとは思えない。
逆に彼女がそれらを可能とするロリ魔女的なサムシングだとしたら、こんなふうに無邪気に笑ったりはできない、ような気がする……んだけども。
いやどうかな。人生経験豊富なロリババアならそのぐらいの演技はして見せるかも。
どうかな。
どうだろ。
わからんな。
しかしそんな可能性まで考え始めたらなんでもありになってしまうし。
ここは自分の直感に従って、この子を疑うことはやめておこう。
もし万が一、裏切られたとしても、そのときは俺に人を見る目がなかったというだけの話だ。
ま、今の俺は雪だるまだから目玉も松ぼっくりか何かなんだろうけどな!
「へぷしゅっ」
おっと。
幼女がくしゃみをした。寒かったかい、ごめんよ。
母親が腰の後ろから手ぬぐいを取り出して、幼女に鼻をかませると、風が出てきたわねと家に入るよう促す。幼女も素直にうなずき、俺に手を振りながら母親に連れられ去っていった。ええ子や。
そうして一人になったわけだが、さて。
どうするか。
身体は相変わらず動かない。
右肩もだ。
考えることしかできない。
ならばと――親子の身長と俺の目線の高さ、そして影の長さから太陽の角度を割り出しておおよその時刻を求めようとかしてみたが、無理だった。無理なんかい。
緯度がわからないとか以前に、角度の割り出し方がわかんないんだ。
どうやら俺の中にある『知識』ではこの問題に対応できないらしい。
つまり、これは。
データベース的なところにアクセスして情報を引き出しているとか、人工知能にデータがインプットされているとか、そういう話ではない。あくまで人一人分の(せいぜいい数人分の)知識、それがこの雪だるブレインに入っているだけ、ということなのだろう。なんせ三角関数とかそういった概念だけはあるのだから。
わからないのは、個人的なエピソード記憶が全くないことと、日本語はともかく幼女語が普通に理解できたこと。
しかし、前者はともかく後者には、実は心当たりがあったりする。
いきなりわけのわからない状況に放り込まれて、しかし言葉だけは通じる。
そんなシチュエーションがよく出てくるジャンルがあるのだ。
いわゆる異世界転移もの。
この場合は意識だけが転移して生物以外の器に宿ったパターン。無機物転生にあたるか。
うん、転生。
個人記憶がないことも踏まえると、元の、人間としての俺は死んでしまったと見なすべきか。
別に死にたいわけじゃなくて、肉体改造を受けた可能性はあまり考えたくないんだ。『できた』と宣言したあの幼女が少なからず関与しているということになってしまうし、それに何より、なんかグロいから。
あと異世界とか言ったのは、まぁなんとなくだ。
魔法とかモンスターとかいったわかりやすい証拠はないし。
謎の幼女語とか、彼女ら母娘の家や服装が妙に古めかしいところとか、それっぽい要素はあるんだけど。視界が制限されているとはいえ民家のそばで電線すら見当たらないというのは、二十一世紀の地球というには無理があるようなないような。けどログハウスなんて現代にも普通にあるし、ナチュラリストとかってのもいるらしいしなぁ。
うーん。
無理だ。
判断材料が少なすぎる。やっぱり動けないというのがキツい。もしかしたら雪だるまであることよりこっちの方が問題かも知れない。
例えばこれが不滅のダイヤモンド超合金ボディだったとしても、あるいはそれこそ人間のままだったとしても、今のように全く動けないなら状況はほとんど変わらないと言える。ダイヤモンド超合金とか頭悪そう。
逆に雪だるまでも藁人形でも動くことさえできれば得られる情報も行動選択の幅もぐっと増える。
現状、考えることしかできないもんな。
右の肩も今はもう動かない。
さっきまでは刺し方が甘くて固定がゆるゆるで、だから偶然関節のようになっていたといったところだろう。ちょっと動かそうとしただけで落ちてしまったのも同じ理由だと考えられる。
……それを踏まえたうえで、一つ聞いてほしいのだが。
実はさっきから首が動かせそうなんだ。
おそらく太陽光に溶かされたせいで頭部の重心位置がわずかにずれたのだろう。
これで周囲を見回したり、またうなずいたり首を振ったりといったイエスノーの意思表示が可能になった。
なんて、そんなわけがあるか。
ちゃんと関節があるのと単にぐらついているのとではわけが違う。
下手に動かそうとしてもさっきのときみたいに転がり落ちるだけだ。いくら雪だるまでも首が取れたら死ぬだろう。
いやどうかな?
今こうやって、脳も心臓もないのに生きて思考までしてるわけだし、そんぐらいじゃ死なない気もする。
まぁ試してみようなどとは思わんが。
落ちて転がるだけならまだしもパッカーンと割れちゃったりしたらさすがにまずそうだし。
まずくなかったとしたらそれはそれで怖いし。
よって状況に変化はない――わけもない。
何がって、間違って頭が転げ落ちたりしないよう踏ん張ってなきゃならなくなっちまったんだよぉ!
おかげでろくに考えもまとめられねぇぇ。
誰か助けてぇぇぇぇ……
などという心の叫びは誰にも届くことはなく、ただ時間だけが過ぎていくのであった。
・
・
・
といった次第で、数時間後。
太陽光と重力のタッグVS俺という世にもむなしい勝負の結果は、俺の逃げ切りという形で決着がついた。
要するに、日が暮れた。
どうやら運は俺の味方をしてくれた……というわけでもないらしい。
今度は風が出てきやがった。
嵐ってほどじゃないけどそよ風と言えるほど弱くもない。
夜になって気温は下がったけど溶けた部分が再び固まるほどでもない。
つまり命がけ(かどうかは知らんけど)のグラグラゲームはいまだに継続中なのであります。
マジ勘弁して。
というか本気でまずい。
このまま吹かれ続けたらとてもじゃないけど朝まで持たないぞ。
いや朝になったらなったで太陽の野郎との勝負が再開されるだけなんだろうけどさ。
あれこれ詰んでね?
まぁ雪だるまになったって時点で気付けってことだっつーか。
なんでこんなことになってるんだろう、本当に。
偶然の結果や自然現象といった可能性は考えづらい。というか、もしそれが正解なら考えても意味がない。
では人為的なことであるとして。
いったいどんな理由があれば人間を雪だるまに変えたりなんてしようと思うのか。
手段の方は、とりあえず『犯人にはそれができる』ということにしておく。
なんだったらランプの魔人に頼んだとかでもいい。明らかに人知を超えた技術だからこれも考えるだけ無駄だ。
それより動機の方だが。
んー……
ぱっと思いつくのは、復讐、刑罰、無差別ないたずら、実験……そんなところか。
あぁあと俺自身が望んだってパターンもあるな。
んなアホなと普通なら思うところだが、例えば何かやらかして死ぬほどへこんでしまったときになら、そのぐらいのことは思っても不思議はない。雪だるまになって溶けてしまいたい、みたいな。
しかし仮にそうだったとして、おそらくは冷静な判断によるものではあるまい。
『魔人』の能力にもよるが、もっとましな、建設的な解決法があるはずだ。
つまり言ってしまえば事故みたいなもので、ゆえにこの線も考えなくてよさそう、か。
記憶が抜けてる点は現実逃避願望の一環であるとして、言葉が通じることの説明にはなってないし。
次に実験もしくはいたずらだが、これもどうしようもないかな。どちらにしても犯人はすでに目的を果たしていることになるから、例えばさらなるアプローチとかは期待できない。
せいぜい、経過観察をしに来る可能性ならなくはない、ってぐらいか。
ひとまず意識の片隅に置いておけばいいだろう。
残るは復讐と刑罰か。
意味合い的にというか、同じ扱いでいいよな。公的か私的かが違うだけで報いを受けさせたいという点は変わらないから。
けどこれもハズレかなぁ。
だって痛覚がないし。
五感のうち、味覚と嗅覚はわからんけど、ほか三つはしっかり機能している。なのに痛みだけは感じないなんて、それこそ片手落ちってヤツだろう。
俺だったら憎い相手を同じ目に遭わせるならこうはしないな。
そうすれば腕が取れたり付け直されたり太陽にあぶられたりしたときにとんでもない苦痛を味あわせることが……いや待って? 残酷過ぎない?
無理無理むりむり。そんなん絶対できない。
想像しただけでタマがヒュンってなるわ。今はタマもないけど。
どれだけ憎い相手だからってそこまで酷いことは……いや、殺しても飽き足らないほど恨んでいたとしたらどうだろう?
例えばあの幼女が俺の娘で、それを目の前でむごたらしく殺されたりしたら……
うん、まぁ。
しかし実際今の俺に痛覚はない。
ということは。
1.そこまで悪いことをしたわけじゃない。
2.犯人は俺と同程度の倫理観の持ち主。
このどちらかあるいは両方が満たされていれば、刑罰説はとりあえず否定されない、か。
けど問題はまだある。記憶だ。
報いを受けさせたい、反省をさせたいというのに、そもそも何をやらかしたかを忘れさせてしまうなんて矛盾もいいとこだ。
それとも何か? そのへんを思い出したら人間に戻してくれるとでもいうのか?
……。
……。
…………。
いやそれアリじゃね?
アタリっつーかめちゃありそうぉおおおおおおおおお!?
風が!
首が!
あああああああああああああ――――――――ッッとぉ!!
セーフ!
あぶねえ!
あぁくそ、落ち着け。なんかそれっぽいのが出てきたからって気を抜くんじゃないよまったく。
ぜーはーぜーはー。
くっそ、首は無事だが左手がどっか飛んでいきやがった。
まぁでも被害はそれだけだ。どうせあってもなくても変わらんしな。
……よし。
気を取り直して、今のやつだ。
この状況は誰かが仕組んだものであり、その目的は俺に報いを受けさせること。
俺は記憶を失っているが、しでかしたことを思い出すことができれば解放される。
痛覚がないのはじっくり考えさせるため。
うん、とりあえず目立った矛盾はないように思う。
いささか俺に都合がよすぎるというか、自分本位な発想ではあるのだろう。
矛盾がないというだけなら『罰なのは合ってるが記憶と痛覚は間違って消しちゃっただけ』とか『ただの無差別テロで俺が選ばれたわけじゃない』とか『何もかもすべてが偶然』とか、他にいくらでも説明はつけられる。
しかしこの刑罰説には他とは決定的に違うところが一つある。
それは、俺の意思次第で状況を変え得るという点だ。
他の説ではせいぜい待つことしかできないか、あるいは待っていても何にもならない。
刑罰説のみが唯一俺からの能動的なアプローチを可能とするのだ。
うん、つまり願望ですね。
あと消去法。
考えることしかできないこの状態にも何らかの意味があってほしい、意義あるものにしたい、みたいな。
そんなわけで、なんか謎の言い訳をしてしまったが、さっそく考えていくとしよう。
まず俺という人間についてわかっていること。
1.日本人男性であると思われる。
2.オタクである。少なくともオタク文化に関する知識がある。
3.受け身に回るより自分から積極的に動くことを好む。
4.他人の痛みにあるていど共感でき、必要以上の苦痛を与えることを好まない。
5.論理的な思考が身についている。
うーん。
前半はともかく後半は、なんか自画自賛っぽくてなんか、うーん。
まぁ『冷静なときは』って但し書きが必要なんだろうけど。
えっとそれから。
何かあるかな。
えーっと、あー……………………、思いつかない。
まさかこれで打ち止めか?
いや焦るな。こういうときは、そう、アレだ。
後半の性格部分はともかく、日本人男性ってところは、ただなんとなくそうかなってだけで確たる根拠がない。
とりあえずここをもうちょっと固めてみようじゃないか。
まぁ日本語で思考している時点でほとんど確定しているようなもんだが、やるだけやってみて損はない。
他にできることもないしな。
というかだな、正直に言うと、やってみたいことがあるんだよ。
例によってどこで身に着けたのかはわからんが、俺の中に一つの知識があってな。
何かって言うとズバリ、スパイの見分け方、だ。
やり方は簡単。
相手に歌を歌わせるだけ。
なんでもいいってわけじゃなく、子どもが歌うような――子どもしか歌わないような童謡が望ましい。
そう、つまりそれが歌えるかどうかで幼少期をその国で過ごした人間かを見極めることができるというわけさ。
だから今の子どもたちのあいだで流行っている歌を歌わせても意味はない。ちゃんと相手の年代に合わせるか、もしくは昔から普遍的に歌われているものを選ぶ必要がある。
ただし俺の場合は自分で自分を試すわけだから、とりあえず何も考えずに歌ってみてそれが日本の歌かどうかを見るって感じになるな。
それではさっそく。
えーっと。
あー。
あー、あー。
あー…………
あめんぼ あかいな あいうえお
かきのき くりのみ かきくけこ
って違う!
これ発声練習のやつ! 演劇部の!
ま、まぁ日本でしか使われてないやつだろうから、証明にはなっただろうけど。
よし、じゃあ日本人は確定として。
次に『男性』の部分だが……思考だけで男女を見分けるってどうやるんだ?
男性脳、女性脳って概念はあったはずだからできなくはないんだろうけど、具体的なことがまるでわからん。
なんだっけ。地図を読めない男と、えっと、なんたらができない女、とかなんとか、そんな感じのがあった気がする。
まぁいいや。
そっちからのアプローチが無理なら、単純に『同性にしかわからないネタ』で行ってみよう。
例えばトイレだ。
男子トイレにいるパンダのことを知ってる女性はほとんどいないんじゃないかって思う。せいぜい掃除のおばちゃんぐらいか。
逆に俺が女子トイレのついて知っていることもほとんどない。小便器がないのは確かだろうが、他はさっぱりだ。
音姫とかいうやつの形も知らないし、ウォッシュレットの『ビデ』の意味もはっきりとはわからない。
うん、やっぱ俺は男性ってことでいいよな。
というか、この方法論でいけば年齢もある程度絞り込めるかも。
例えば学校。
小学校の様子を思い浮かべてみる。
校舎、校庭、体育館。
それぞれの位置関係。
校門から入ってグラウンドを横目に見ながら少し歩いて、昇降口を抜けてすのこの上で上靴に履き替えて、リノリウムの廊下を歩いてちょっと薄暗い階段を上って、教室に入って、合板と鉄パイプの席に腰を下ろす。ランドセルは脇のフックにかける。
うん、かなり具体的にイメージできる。
他にも――給食当番のかっぽう着。昼休みのドッヂボール。帰りの会のめんどくさい女子。石を蹴りながら帰る通学路。
実際に通ったことのある者にしかわからないことだろう、おそらく。
逆に、例えばアメリカのホワイトハウスの内部なんかは……あれ、意外と思い浮かぶな。映画とかの知識かな?
だったらえっと、イギリスのビッグベンの内部。
うん、ぜんぜんピンとこない。
以上のことから、俺は日本の小学校に通ったことはあるがイギリスで議員になったことはないということがわかる。
どんどん行こう。続いて中学……は、OK。
高校も……いける。
大学は……あぁ駄目だ。急にイメージがあいまいになった。
クラブじゃなくてサークルだとか、時間割は自分で決めるとか、単位がどうとか、分かることがなくはないけどどうにも漠然としすぎてる。生の知識って感じがしない。
というわけで、俺の年齢は高校生、十代後半という結論が出た。
高卒労働者という可能性は、そこに至るまでの手続きとかについての知識がないから否定しといていいと思う。記憶がなくてもなんとかなるもんだな。
よし。じゃあ次だ。
出身性別年齢ときたら、名前も抑えときたいところだが。
無理だな。個人記憶の最たるものだろ。この場合はあまり重要でもないだろうし。
忘れちゃいけない。これは俺の罪を洗い出すための作業だ。
なら名前なんかよりよっぽど重要な情報は……交友関係? これまた無理くせぇ。
いやしかしこれが何者かの仕業なら犯人は俺の知り合いである可能性が一番高いし。
というか今更ながら『犯人』という表現は不味いかも知れない。
この事態が俺の罪に対する罰であるのなら、そう呼ばれるべきはむしろ俺の方だろう。少なくとも相手はそう思うはず。俺なら思う。
そして声すら出せない今の俺がしっかりとこと思い出したかどうかを判断するためには、心を読むとかしてもらう必要があるわけで。つまりここまでの思考は全て相手に筒抜けになっていると考えるのが自然だ。
うん、やはり犯人呼ばわりは不味い。
というわけで、えっと、『実行者』とかにしとこう。それならいいよね?
話を戻そう。交友関係について。
手がかりは頭の中の知識。
俺は日本の男子高校生だった。
ではその交友関係とは世間一般的に見てどういったものになるかということを考えてみる。
まず、同じ男子高校生、クラスメイトや部活仲間をはじめとした学校内の友人、知人、先輩後輩。教職員。もしかしたら恋人。
次に家族。両親や兄弟姉妹。祖父や祖母。親戚。隣近所の人々。
うーん。誰の顔も浮かんでこない、が。それはもうわかってる。
あくまで一般的には、だ。
例えば男子高校生が同性の友人といるときに何をするか。
休み時間に雑談。
一緒に登下校。
からの買い食い。
休日には誰かの家でゲーム。
もしくはゲーセン、カラオケとか。
……イメージがあいまいだ。
しかも思い描こうとしても実写じゃなくアニメの背景みたいな絵しか浮かんでこない。もしかしなくても俺って友達いなかった?
いやでも便所メシとかそういうのに実感を覚えるわけでもないし。
そこまで極まったボッチだったわけじゃなく単純に孤立してただけ、とか。
うわぁありそう。
待て待て待て。
まともに会話する相手すらいないような奴が、どうやってこんな雪だるま刑なんて課されるほどの恨みを他人から買うというんだ。
それとも何か? 孤独ゆえに世界を恨んだ俺が術(?)を暴発させて自分にかけちゃったとでもいうのか?
……ありそうだ。
オタクであるらしいって推測は立ってるもんな。ボッチ陰キャであった可能性も高まるわな。
もしかしたら今こうして思考している俺は元人格のコピーで、人間のままの俺はどっか別の場所で普通に生きている、とか。どっかというか目の前の幼女邸の中にいてこっちのことを観察している、とか。そういうパターンもありそうっちゃありそう。
肝心の雪だるま化に関する知識が全くないからありえない、と思うんだけど。
けど一応言ってみよう。
犯人――もとい、『実行者』は俺自身! ファイナルアンサー!
……。
……。
…………。
残念! ノーリアクション!
答えが違うのか仮説自体が違うのか区別がつかねぇなこれ。
とりあえず、これじゃないというということは確定したが。
百や千のうち一つが違うってわかったところでなぁ。
まぁいい。
よくないけど。
えーっと、それなら……
あー……
うーんと、えーっと……
あれ? ないな。
交友関係についての考察、これで打ち止めっぽい。
個人記憶の抜け落ちた知識から個人情報を逆算するという発想自体は中二病的にも燃えるものがあったし、実際少しは成果が出せたと思うが、やはり無理、というか限界があったか。思ったより早かった。
うーん、だったら……
……おや?
いや、何か思いついたわけじゃない。
ただちょっと風が弱まってきたな、って。
ああうん、忘れてたかも知れんけどずっとびゅーびゅー吹かれてたんすよ。その中でこれだけ考えたんすよ。褒めてもらってもよくないすか?
許してくれてもよくないすか?
……ダメすか。はぁ。
なんて言ってるうちに、風、どんどん弱くなってきて、どうやら完全に収まったな。
これで少しはゆっくりできる。
できたところで、って感じだが……っと。
お。
や、ば。
いや待ってやばいやばいやばい。ちょっと気を抜いたら重心が、思ったよりこう、ちょっと。
待って!
マジで待ってってば!
うお、ぐ、ぬぁ。
あ、ぅあ、ああ。
あなわっ、づああああああああああああああああああああああ――――って落ち着けぇい!!
そうだ利点を思い出せ! この体になったことで得た唯一の利点!
常に冷静な心!
そう、それは人類の最大の武器でもある。であればこんな、えっとあの、ちょっとしたバランスの問題ごときをどうにかすることなどぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……!
お!
お!
おっ……!!
――いや無理。
やっぱり動けないのが致命的だったよ。文字通りに。
終わりはあまりにも静かだった。
おそらくは首が転がり落ちて胴体から外れた瞬間だったのだろう。
プツン、とか、フッ、とか、そんな些細な感覚すらなく。
ただ、途切れた。
暗転。